紫水晶の瞳
世界が、白い闇に染まる。
ふわり、ひらりと舞い落ちる空の残骸。
それは死者を悼むように、その総てを覆い隠してゆく。
真紅の髪と薔薇の花びらが、白い世界に美しく映える。
投げ出された躰は既に冷たく、瞳はもはや光を映してはいない。
その瞳が最期に視たものは一体なんだったのだろう。
それはきっと絶望に他ならないという事は、誰より自分自身が痛いほどに解っている。
まるで彼女と自分との間を切り裂くかのように吹き荒んだ突風が、一瞬にして花びらを攫い遥か上空でそれらを解放する。
白い雪に混じり、空中をさ迷う赤い、紅い花びら。
それらは一枚、また一枚と眼前をすり抜け再び地表を、そして少女を赤く染めてゆく。
立ち尽くし、その光景をただ静かに見守る事しか出来ない自分。
無力さに嘆きながらも、けれどそれを見つめる瞳はやけに冷静で、まるでどこか遠い場所からこの場所を見ているかのように現実感がない。
動かない少女。
薔薇の絨毯。
降り止まない雪。
舞い散る花びらは、少女の躰と、その周囲をどんどん赤く染め上げてゆく。
あぁ……違うんだ。解っているんだ。
これが本当は花びらなどでは無いという事を。
彼女が抱えていた赤い薔薇は花束には程遠く、ほんの数本だけだった。
だから薔薇の花びらが紅い絨毯を生み出せる訳がないのだ。
これは……
この地面いっぱいに広がる赤い色は、彼女の―――……
*****
ガッシャアアアアァアアアァァアアン
朝の静謐な空気を切り裂くように、耳障りな――いや、ある意味ではいっそ清々しいとも言える騒音が城内に響き渡った。
バサバサと音を立てて一斉に飛び立ってゆく鳥のシルエット。
それらを眺めながら、グラスは寝室を出たらまずは箒を取りに行くべきか、などとこれからのルートを脳内で簡単にシミュレーションする。
朝の目覚めは――静かであるのが当たり前だった。
ピンと張り詰め、研ぎ澄まされた空気。
こだまする声は無く、響く足音は自分のものだけ。
光差す回廊であっても、なんの温かみも感じられぬ程に冷たく閉ざされたこの城。
何が変わることもなく、何が戻る訳もなく、ひたすらに昇る日と揺らめく月を交互に見つめ、そしてあの場所で祈り続ける日々。
ただ、それだけだった。
未来永劫変わらぬ、自分にとっての『当たり前』な日常。
けれど『当たり前』が当たり前でなくなった瞬間から、人は戻れなくなるものなのだ。それまでの自分に。
知ってしまえばもう知らなかった頃に戻る事は出来ない。
温もりも、微笑みも、言葉も……優しさも―――……
本当は引き留めてはいけなかった。
此処は呪われた空間。
彼女らに呪いが降りかからないという保証などどこにもない。
可能ならばすぐにでもこの城から離れさせるべきなのだ。
彼女らの為にも。
そして、自分自身の為にも。
頭では理解しているのに、それが出来ずにいる。
「人の……弱さ故、か――……」
グラスは自嘲じみた笑いを浮かべると、くるりと踵を返しドアを静かに開け放った。
*****
「――街へ行く?」
床に散らばった皿の残骸を片付けていた手を休めて、グラスはクルミナへと顔を向ける。
「はい、食材を買いに行こうかと思いまして」
「一人でか?」
「いいえ。シャルルも一緒です」
シャルル――それは、グラス達の背後で先程から調理場のあちこちを走り回り、棚から棚へと飛び移るなどのびのびと自由を謳歌しているフレイムキャットの子供の事だ。
見るもの全てが初めてらしく、鍋やら床に映った木の影やらにじゃれて転がってみたりと、その姿は誰の目にも楽しそうに見えるだろう。
「……あいつを連れて行った所で役に立つのか?」
猫からクルミナへと再び視線を戻し、グラスはぽそりと問いかける。
「はい。心細くありません」
「…………」
クルミナのやけにきっぱりとした言葉に再度猫を見やると、床からテーブルへと飛び乗ろうとしたが目測を誤ったのか今一歩の所でずり落ち床にぼたりと落ちる瞬間がタイミング良く見えた。
その姿には正直安心どころか、むしろ不安しか感じられない。
そんなグラスの心中を察したのか、クルミナはクスクスと笑いながら言う。
「そもそも私はアルヴァスク村から此処まで一人で来たんですから。ほんの少し離れた街へ出ることくらい何でもありませんよ」
「それはそうだが……」
確かに彼女は見えない瞳でたった一人此処まで辿り着いた。
もちろん途中で馬車や荷車の世話になったとも思うが、それを差し引いても数日に渡る旅をたった一人で完遂したのだ。
この辺りは特に凶暴な野生動物が出没する訳でもない。
『総てを凍てつかせる王』の噂により、この城に近付く者も居らず、その為盗賊の類による被害も無い。
クルミナの言う通り、街への往復はそう大変なことでは無いのかもしれない。
「……解った。だが行くのならばせめて日が高い時間帯だ。日が落ちれば寒さも厳しくなるからな」
「はい!ありがとうございます!!」
グラスの許可に、クルミナは喜びの声を上げる。
瞳は包帯で隠されているため、表情の全てが見えるわけではない。が、それでもなお『嬉しい』という感情は彼女の全身から滲み出ていた。
「みゃあー」
そんなクルミナと喜びを分かち合うかのように、一人遊びを堪能し終えたらしいシャルルがクルミナの足下へとすり寄る。
「シャルル、二人でお買い物に行けますよ。良かったですね!」
「みゃぅー」
「……待て。二人ではない。俺も付き添おう」
「グラセアス王も?」
きょとんとしたクルミナの問いかけに小さく頷き、グラスは言葉を付け足す。
「さすがに顔が知れているから街の中までは行けぬだろうが……クルミナの買い物が終わるまで、街の近くで待機している程度ならば大丈夫だろう」
グラスの噂は遠く離れた街や村にまで知れ渡っている。
それが城のすぐ近くの街となれば、グラスの姿を一目見ただけで人々がパニックに陥ってしまう恐れがある。
その為グラスはこれまで城を出て街に近付こうとはしなかった。
好き好んで人々から罵声や負の感情を向けられたい者など居る訳がない。
出来ることならばこれからもグラスは街に近付くつもりはなかっただろう。
「……グラセアス王は、それで大丈夫なのですか……?」
グラスの心中を見透かすかのように、クルミナは問いかける。
包帯越しで見えない瞳。
けれどその見えないはずの瞳を向けられると、逆に総てを視られているかのような気がしてくる。
「大丈夫だ。俺もいつまでも城に引き籠もってばかりは居られないからな……丁度良いリハビリだ」
「ふふ。そうですね。お城の中で食べて寝てばかりの生活では、ぽっちゃりしてしまいますから。そんなのでは王様の威厳が台無しです」
からかうような口調で言葉を返すクルミナ。
人差し指をすっと立てて口元に当てながら話すその仕草を、グラスは素直に可愛らしいと感じた。
しかしそれを敢えて口にするような事はなく、わざとふてくされたようにそっぽを向く。
「失礼な……俺はそんな風にはならぬ」
「さぁどうでしょう。私が栄養満点のご飯を毎日食べさせてしまったら、さすがにぽっちゃりするかもしれないですよ?」
「それならばお前も道連れだ」
「あはは!それは謹んで辞退させて頂きます」
くだらない話で明るく笑う少女。その姿はどこにでもいる普通の娘と寸分の違いもない。
けれどその瞳は決して光を映さない。
――たぶん、きっと、永遠に。
その二度と開かぬ瞳はどんな色をしていて、どんな世界を見つめていたのだろう。
「みゃー」
それまでクルミナの手にすり寄って甘えていたシャルルが、じっと狙いを定めてクルミナの肩へと飛び乗る。
「あら、シャルルはもう出かける気が満々ですか?」
クスクスと笑いながら肩のシャルルに話しかけると、彼女の髪がふわふわと揺れた。
窓から僅かに差し込む光に照らされたその髪の色は鮮やかな真紅。
「―――……ッ」
遠い記憶の向こうに良く似た光景が視える。
無邪気に笑う紅い髪の少女。
振り向き、自分の名を呼びかける少女の、その瞳は―――
「――紫水晶の、瞳……」
グラスはぽつり。と、自分でも気付かない程無意識のうちにその言葉を発していた。
「え……?」
クルミナの声に、グラスは初めて自分が言葉を発していた事に気付く。
「――あ……あぁ、すまない。ぼーっとしていた。ただの独り言だ」
「そうなんですか?私の瞳の色なんて教えたことがあったかと、びっくりしてしまいました」
「クルミナの……?」
「はい。今は包帯で隠れてしまっていますが……私の瞳は紫色なんです。小さい頃から“紫水晶の瞳”とみんなが呼んでくれて……ちょっとだけ自慢だったんです」
昔の事を思い出しているのか、包帯に覆われた瞳にそっと手を添え、懐かしそうに微笑みながら話をするクルミナ。
そんな彼女とは対照的に、驚愕の表情を浮かべたまま硬直するグラス。
口から漏れる言葉は、平静には程遠く微かに震えてさえいる。
「そう……か。私の古い知人にも、美しい紫水晶のような瞳を持った者が居たのだが……まさかクルミナも同じとは驚いた」
「えぇ本当に。グラセアス王は余程紫の瞳の人間とご縁があるのでしょう」
何気なく発されたクルミナの言葉。その言葉に深い意味など全く無かった。
しかしそれは彼女の意に反して、何よりも鋭い杭となってグラスに深く、冷たく突き刺さる。
この大陸の人々は、まるで雪深く凍てつく気候を現すかのように、濃紺から灰色がかった蒼まで多少の幅はあっても、大抵は青い瞳なのだ。
だからこそいかに立場上、多くの人間と関わる機会の多い王族であったとしても、紫色の瞳を持つ者に出逢う事はクルミナの言う通りごく稀なのである。
なのに、出逢ってしまった。
「……本当に……余程縁があるようだな……」
“――まるで、それすらも呪いであるかのように――”
「………グラセアス王……?」
グラスの声の響きに違和感を感じたのか、クルミナが声をかける。
「大丈夫ですか……?」
言いながら、クルミナは心配そうにその手をグラスの方へと伸ばす。
「――……あ……」
―――あぁ、この光景を自分は良く知っている。
自分へと近付く手のひら。
目蓋の裏に視える光景。
現実と記憶が幾重にも交差する。
『――お前が犯した罪に、贖いの機会を授けよう――』
視界を閉ざす、白い、白い闇。
『グラス様――……』
響き渡る声無き嘆きの聲
“あの日”同じように伸ばされた手は――……
「―――触るな……ッッ!!」
クルミナの手が、グラスの頬に触れるか触れないかの寸前。
グラスは反射的に上体を逸らし、クルミナを拒絶するように叫んだ。
「……あ……」
ハッと我に帰ると、そこには伸ばしかけた手を宙に浮かせたままできょとんとしているクルミナの姿。
思わず怒鳴りつけてしまった事に、瞬間的に湧き上がる罪悪感。それに耐えられずグラスは思わず目を逸らす。
「――すまない……その……人に触れられる事は……苦手で……」
グラスの言葉に、クルミナはゆるゆると首を振り、彼に向けて伸ばしかけていた手をゆっくりと下ろした。
「――誰にだって、触れられたくない事はあるものですから」
水面にポタリと雫が落ちるように――彼女はただ短い言葉を呟き、それ以上を聞こうとはしなかった。
「さぁ、朝食を済ませてでかけましょう。陽が昇りきってしまう前に出かけないと、日没までに帰って来れなくなってしまいますよ」
それだけを告げると、クルミナは口元にいつもの笑みを浮かべながら、調理場の奥で温かそうな湯気を出している鍋の方へと向かって歩いていった。
残されたのは壊れた皿の破片と、その横にしゃがみ込んだままのグラス。
そして、いつの間にかクルミナの肩から降りていたシャルルだった。
「みゃぅー……」
「……お前がクルミナから離れて俺の傍に居るなど珍しいな。……一応心配でもしてくれているのか?」
燃えるような紅い毛並みの猫は、グラスの正面にちょこんと行儀良く座ったまま、じっとグラスを見つめている。
しかしその瞳は紫ではなく、金。
「……お前の瞳まで紫ではなくて良かったよ」
「みゃぁ?」
グラスの問いかけの意味を理解しているのか、いないのか……シャルルは小さく首を傾げてみせる。
その仕草はグラスの目からも愛らしく見え、思わず笑みが零れた。
「―――……シャルル。お前も、決して俺に触れてくれるなよ……」
笑みの奥から絞り出すようにして吐き出された言葉は、誰に届く事もなく、ただ冷たい空気の中に溶けるようにして消えてしまった。
犯した罪は決して消えない。
呪いは、まだ此処に在る。
ふと見上げた窓越しの空は、未だ厚い雲に覆われ太陽はその姿を隠したままだった。