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短編集

四んで後悔

作者: 吉水ガリ

 ぶるっと、身体が震えた。

 瞼を上げれば、目の前には暗がりに浮かびあがる天井。ついさっき見たばかりの光景。

 目覚めた頭で何かを思う暇もなく、意識は下腹部に集中した。

――おしっこしたい。

 美歩は身体を起こし、枕元の時計に目をやった。時刻は午前二時。

 床に就いてからおよそ二時間。先ほどから、眠りに落ちては覚醒するという状態が続いている。

 原因は明確。尿意だ。

 それさえなければ悠々と安眠できる。二時間も無駄な時間を過ごすことなどない。

 しかし美歩はトイレに行けない。

 行きたくない。

 これも理由は明確。怖いからだ。

 トイレに行くのが怖い。そんな感情を、もう中学生である自分が持つことなどないと思っていたが、全く以てそんなことはなかった。

 原因はひとつ。寝る前に読んだホラー小説だ。

 普段は推理小説を好んで読んでおり、ホラー小説なんて手に取ったこともない。小さい頃から怖いのは苦手だ。そのことは家族も友達も、周りの人ならば良く知っていること。しかし今朝方、自分とは正反対であるホラー大好きの友達が、一度でいいから、軽いから、と言って、一冊のホラー小説を勧めてきた。あまりに熱心だったため、せっかくだからと借りてしまい、そして読んでしまい、案の定震えてしまい、現在に至る。

 怖いものは怖い。

 とはいっても、友達の言葉通り、小説の怖さの度合いはだいぶ軽いものだった。様々な幽霊、妖怪、都市伝説をテーマにした話が集められた短編集的なもので、ジャンルとしてもホラー小説というよりは、『不思議系』や『ちょっと怖い話』といった括りが適当に思えた。

 それでも、美歩にとっては、暗闇に怯えるぐらいの恐怖心を植え付けられる代物ではあったのだが。

 だから、小説を読み終わり、怖い夢を見ませんようにと願いつつ床に就いた時、かすかな尿意を感じていたのだが、怖さに負けて完全に無視した。

――その結果がこれだ。

 美歩の身体がベッドの上でもう一度、ぶるっと震えた。

 もはや我慢はできない。トイレに行くしかない。

 安寧の台地より降り立ち、暗闇に足を踏み出さなければならないのだ。

 無駄に荘厳な脳内イメージを抱きながら、美歩はため息ひとつ、ベッドから下り、ドアに向かう。

 部屋のドアを開けると、目の前には暗闇が広がる。二階にある自分の部屋から一階にあるトイレまでの道程。大したことのないその距離が今は不安で不安でたまらない。

 一呼吸置いて暗闇に目を慣らしたのち、美歩は部屋を出た。

 心なしか前かがみになり、壁に手をつきながら廊下を進む。無意識に、呼吸が深く、長いものになる。

 そんな調子で数歩進んだとき、ふと、その曲がった背中に何かが触れた気がした。

 同時に、

「――待て」

 背後からの声。

「――――!」

 背中がぴんと伸び、反射的に振り返ろうとする。が、その動きを背中にあたる異物が押しとどめた。

「怖がるな。別に襲いはしない。何もしない」

 淡々とした言葉が続く。

 自分の背後にいるもの、その姿は確認できない。心臓の鼓動だけがばくばくと鳴りつづけ、身体は棒立ちのままで硬直。背中にはまだ何かがあてられている。硬く、表面がごつごつとした何か。美歩はパニックになりかけている頭の中、ドラマなどで見る、背後から銃を突きつけられているシーンを思い出していた。

「そうは言っても、生粋の怖がりだから無理か。驚かしてすまないな」

 声に、微かながら柔らかな響きが含まれた。

「すまないついでに、ちょっと話を聞いてほしい。私は強盗でも変質者でも悪霊でも妖怪でもない。ただの付喪神だ」

 唐突に背後に立たれ、唐突に自己紹介をされた。

 付喪神。その単語は、美歩の記憶の中、まだ新しいところに残っていた。寝る前に読んだ小説、その中に付喪神の話があったのだ。人に使われなくなってしまったモノに何かしらの固有の人格が宿り、動き出すというのが付喪神だ。

 小説の話では、生前打っていた対局を再現する祖父の形見の将棋盤がでてきて、その対局に付き合っていた少年が、成長して棋士になるという内容で、祖父の思い、将棋盤の思い、少年の思いを描くことで、『ちょっといい話』に分類されるようなものだったはず。

 そこまで思い出したところで、美歩は僅かばかりではあるが自分の恐怖心が和らいだ気がした。正体不明の怖さは何よりも上だというのは本当らしい。暗闇の中、非現実的な不審者に背後を取られていることに変わりはないが、それでも、激しく打っていた鼓動が少しずつ治まるのがわかる。

「聞いてもらっていいか? なあ?」

 声の響きにおどろおどろしさは感じられない。男女の別がつかないその不思議な声は、先ほど以上に優しげなものに変わっている。

 だから、

「は、はい。ご自由に!」

 意を決して、答えた。

 自分に対して危害を加える気はなさそうだし、『付喪神』といっても、結局は単なるモノだ。人工物だ。恐れることはない。

 気持ちを強く持っていれば、こんな状況は乗り越えられる。先ほどから内腿に感じている冷たさも気にすることはない。

「では、心置きなく喋らせてもらおう」

 一呼吸置き、背後の付喪神は言葉を紡いだ。

「――私は、お前の祖母のモノでな。生前、大事に扱われていたんだ」

 美歩の頭に、亡くなった祖母の顔が浮かんだ。いつも柔和な笑みを湛えていた、『優しいおばあちゃん』だった。

「毎日毎日、肌身離さず。寝る時でさえ共にあるぐらい、常にそばにあった」

 祖母は美歩にとってもずっとそばにいた存在だ。生まれた時から、この家でずっと一緒に暮らしてきた。それが当たり前だったから、両親と同じぐらい美歩は祖母によく懐いていた。

「愛用しているモノは、それはもうたくさんあったが、それでも私が一番の寵愛を受けているという自負があった」

 祖母は物持ちがよく、どんなものでも大事に扱っていた。祖母の部屋に入ればいつも、長い年月を感じる、どこか懐かしい気分になれる匂いに包まれたのを思い出した。

「他のモノも決してないがしろにされることもなかった。私は付き合いも最も長いと自負しているが、彼女のモノの中で、付喪神になったものなど今まで無かったと記憶している」

 付喪神の話す内容は、美歩の中の祖母のイメージと合致する。祖母の愛用の品であり、長い年月を共にしてきたという話は本当のようだ。

「しかし、それにも限界がある。使う人間が、あの世に旅立ってしまえばどうすることもできない。私も、そこまでついていくことは出来なかった。この一年間、焦がれ、願い続けたが、当然ながら二度と用いられることはない」

 背後でひとつ、深いため息がこぼれた。

 祖母が亡くなってから一年。それだけの期間が経ち、愛用の品が付喪神になってしまった。そんな状況だということだ。

 では、

「それで、どうしたいんですか?」

 目的は何であるのか。話を聞いてもらえれば満足、というわけではないだろう。

 付喪神である以上、何をすれば満たされるのかは恐らく自明のことではあるが、美歩は念のため質問をした。

「私を使ってくれないか?」

 ストレートに返ってきたその答えは、美歩の予想したそれと寸分違わず同じであった。

 だから美歩は、用意していた答えをすぐさま返す。

「そんなこと言われても、さすがにおばあちゃんの使ってたものを全部っていうのは…………。いっぱいあるし」

 人ひとりが使っていたものを、別の人間が丸々使い続けるというのは一般的に考えて難しい。現代人がモノに囲まれているといっても限度がある。おまけに祖母と美歩とでは相違点も多い。

「いやいや、全部使う必要なんてない。私だけでいいんだ。付喪神になったのは私だけだ」

「えっ!?」

 美歩は思わず振り返りそうになる。再度、背中から押しとどめられた。

「なんで? みんな未練はないの?」

 今までのこの付喪神の話しぶりからすれば、あらゆるものが心残りを感じ、付喪神になっていてもおかしくない様子だった。美歩はそういうことだろうと思って話を聞いていたのだ。

「あれだけ大事に扱われれば、悔いもないってことみたいで。私以外に付喪神はひとつたりとも現れなかった。私の場合、彼女に対する思いが強すぎたのかもしれない」

 そういうものなのか。付喪神発生のプロセスなんて想像したこともない身からすると、そんな感想しかない。違和感も納得も、どちらも覚えようもない、妙な感覚になる。

 ともあれ、一つでいいのならば不安もない。祖母は別に変人でもないまっとうな人間だったので、妙な物をコレクションしていたわけでもないし、危険物を隠し持ってもいなかった。遺品を整理しているときに美歩もあらかた見たが、思い返してみても不安材料はなかった。

 いきなりのことで驚きはしたが、それならば問題ない。祖母の思いを汲み取るような意味もある。あとはこの付喪神がなんの道具であるのかを確認すればいいだけだ。

 と、そこまで考えた時、

「――――!」

 安心からきた脱力のせいか、今この瞬間まで忘れていた尿意が、不意に襲ってきた。

 部屋を出てからは大して時間は経っていないが、寝る前からの通算二時間以上を我慢していることに変わりはない。

 じんわりと汗が噴き出す予兆を感じ、つま先には力が入る。

 瞬時に、背後にいる付喪神のことなどどうでもよくなる。いま優先すべきはトイレに行くことだ。

 付喪神に声をかけられた時のあれが呼び水になったのか、尿意の猛威は止まらない。

 美歩は下腹部に押し付けるようにして手をあてて、早口でまくしたてる。

「ああ、じゃあそういうことで。わかったから。万事オーケー。しっかり大事に使うから。おばあちゃんに負けないぐらいに。だからまあ、この辺でさ。この辺で終わりでいい? あたしちょっとトイレに――」

「ああっ! すまん。トイレに行くところだったのか! 珍しく夜中に起きてきたから、意を決して声をかけたんだが。これはタイミングが悪かった。だが、申し出を了承していただき、ありがたい! 礼も何も出来ないが、よろしく頼む――それでは!」

 言葉と同時に、背中にあたっていた異物の感触がふっと消えた。

 思わず美歩は振り返った。その視界に映るのは、真っ暗な廊下だ。

 そこには何もない――ように見えたが、暗闇に慣れた目の端、床の上に何かがある。

 ふたつ。何かが前後に並んでいる。美歩は下腹部からの不快感に耐えながら、目を凝らしてその床の上の物体を確認した。

 後ろのひとつは円筒形の容器だ。白く、暗闇の中でぼんやりと存在を主張している。

 そして、前の物もまた白く、その存在を主張している。

 注視してみる。

 人骨だ。

「おばぁ――――ちゃ――ん!?」

 腹から声が出た。

 膝が落ち、美歩はぺたんと床に座り込んでしまう。次の瞬間、床に密着した脚が、じんわりとした温かさを感じた。

 祖母の姿、愛用の品、付喪神の言葉、そんなものがぐるぐると廻る混乱した頭を整理することもできず、これ以上驚くべきか怖がるべきかもわからなくなり、呆気にとられて虚空を見る。

 美歩は急速に冷たくなっていく水たまりの上で、ただひとつ、安請け合いだけはしないと心に誓った。


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