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ポン

作者: 茗子
掲載日:2026/10/25



ポンは、いつも、きばをむいている、のらいぬでした。

人間は、大きな声でおどかして、じぶんを追いはらうものだと思っていました。

だから、だれが近づいても、低くうなり、けっしてしっぽをふりませんでした。


*


ある雨の日、ひとりの男の子が、ポンをひろいました。


「うちにおいで」


ポンは、きばをむいて、かみつきました。

男の子は、手から血をながしながら、それでも、はなしませんでした。


「だいじょうぶ。ぼくも、ひとりだから」


だきしめられたうでの中は、くやしいくらい、あたたかかったのです。

ポンは、そっと、きばをしまいました。


*


男の子は、学校から帰ると、玄関で言いました。


「ただいま」


ポンは、へんな言葉だと思いました。

帰ってきただけで、どうして、そんなにうれしそうなのだろう。


ポンは、玄関のマットでまつようになりました。

まっているのではない、たまたま、ねているだけだ、と、じぶんに言いました。


でも、ドアがあくと、しっぽが、かってにゆれました。

いつのまにか、ポンは、「ワン」と言うようになりました。

それが、ポンの「おかえり」でした。


男の子は、マットをぽんぽんとたたいて言いました。


「ここ、ポンの場所だよ」


ポンは、そっぽをむきました。

でも、その夜、マットのまんなかで、まるくなって、ねました。


うまれてはじめて、ポンには、かえる場所がありました。


*


ある雨の日、リードが、男の子の手からすべりました。

道路にとびだす、小さな背中。

ブレーキの音。


ポンは、なにも考えませんでした。

ただ、足が、アスファルトをけっていました。


どん、というにぶい痛みのなかで、ポンは、男の子が泣いているのを見ました。


(ああ、よかった。いきてる)


(でも、あした、「おかえり」が、言えないや)


それが、さいごでした。


*


ポンは、おばけになりました。


男の子は、ポンのからだをだいて、一日じゅう、泣いていました。

ポンは、すぐそばで、ほえました。

ここだよ。ここにいるよ。

男の子には、きこえませんでした。


つぎの日。

学校から帰ってきた男の子は、くつをぬいで、ちいさな声で言いました。


「……ただいま」


ポンは、とんでいって、ほえました。


「ワン」


おかえり。おかえり。おかえり。


返事は、ありませんでした。

男の子は、うつむいたまま、へやにはいっていきました。


それでも、ポンは、毎日、マットでまちました。

男の子も、毎日、ポンのいない玄関に、「ただいま」を言いました。


*


ポンは、すこしずつ、気づきました。


男の子が、「いるの?」と、よんでくれた夜は、からだが、くっきりして、

「いないよね」と、つぶやいた夜は、うすくなることに。


ポンは、男の子によばれるぶんだけ、ここにいられたのです。


*


何年もたって、男の子は、大きくなりました。

それでも、夜になると、ときどき、玄関のマットにすわりました。


「ぼくが、リードを、はなしたから」


男の子は、ずっと、じぶんをせめていました。

ポンは、そのとなりで、まるくなっていました。


この子は、ぼくをまっているかぎり、わらえない。


ポンは、知っていました。

男の子が、「いない」と、心の底から思ったとき、

ポンは、ほんとうに、消えてしまいます。

うまれかわることも、どこかでまつことも、できません。

もう、二度と、この子に、あえません。


ポンは、ふるえました。

それでも、ポンは、きめました。


*


雨の夜でした。

男の子は、玄関にすわって、言いました。


「……ねえ、ポン。いるなら、ワンって、言って」


ポンの胸が、どくんと鳴りました。


「ひとつだけでいいんだ。そしたら、ぼく、ずっと、ここでまってる」


男の子は、目をとじました。

ポンは、のどまで、「ワン」がでかかりました。


言いたい。言いたい。

ここにいるよ。ずっと、いたよ。

きみのせいじゃないよ。


でも、そうしたら、この子は、おとなになれません。

このマットで、いっしょうを、まってしまいます。


ポンは、口をぎゅっと、とじました。


ひとつ。ふたつ。みっつ。


雨の音だけが、していました。


ポンは、ふるえる口を、ぎゅっとかみしめていました。

ぜんぶ、ぜんぶ、のみこみました。


男の子は、ながいこと、まっていました。


やがて、男の子は、ゆっくりと、目をあけました。

なにも、おこりませんでした。


「……そっか」


それだけ言って、男の子は、立ちあがりました。


*


男の子は、ドアに、てをかけました。

ポンは、そのうしろに、ついていきました。


男の子は、ふりかえりませんでした。


ポンは、さいごに、男の子のほっぺたを、そっと、なめました。

男の子の頬を、ひとすじ、涙がつたっていました。

ポンのしたに、その、しょっぱいあじが、のこりました。


「いってきます」


男の子は、だれもいない玄関に、そう言いました。


ポンは、さけびたくなりました。

いってらっしゃい。いってらっしゃい。いってらっしゃい。


でも、ポンは、ひとことも、言えませんでした。


ドアが、しずかに、しまりました。


ポンのからだは、すうっと、すきとおって、

むこうがわの、マットが、見えました。


まいにち、まいにち、まっていた場所でした。


ポンは、さいごの力で、マットにもどり、

いつものように、まるくなりました。


(おかえり)


だれにも、きこえない声で、ポンは、言いました。


(いつか、おかえりって、言いたかったなあ)


あとには、マットのくぼみだけが、のこりました。


*


それから、何十年もたちました。


白い髪になった男の人が、夕やけの道を歩いていました。

古い家は、とっくに、なくなっていました。


男の人は、空き地のまえで、立ちどまりました。

そして、ふりむかずに、言いました。


「ただいま」


返事は、ありません。


「……ただいま、ポン」


風が、ふきました。

ただの、つめたい風でした。


男の人は、ポケットから、すりきれた、小さなリードを、とりだしました。

そして、だれもいない足もとに、そっと、おろしました。


それから、そこに、立ちつづけました。

「おかえり」という声を、まって。


夕やけが、おわって、夜になるまで。

ポンが、まいにち、そうしていたように。



知り合いのわんちゃんが飼い主を庇いなくなったことを思い出してかきました。


最後まで読んで頂きありがとうございます。

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