『敷居の外の靴』
『敷居の外の靴』
「従順な子になりなさい。それが親孝行で、神さまの喜ばれる道よ」
母の恵子は、昔から口癖のようにその言葉を繰り返した。
夕食の食卓に置かれた小鉢には、昨夜の残りのひじきの煮物。水気が抜けて乾いた黒い筋を箸でつつきながら、悠真は何も言わずに噛んだ。
「悠真、聞いてるの? 週末の集会が終わったら、佐々木さんの家の庭の草むしりに行ってちょうだい。それから、専門学校の願書は出さなくていいから。あんな世俗の資格を取っても、この終わりの日に何の役にも立ちません。お父さんの仕事を手伝いながら、開拓奉仕を始めればいいのよ」
悠真の手が止まった。
――はあ?
喉まで出かかった声を、冷めた麦茶と一緒に無理やり胃へ流し込んだ。
物流管理の資格と運行管理者の免状を取るために、一年間、早朝の仕分けのバイトで学費を貯めてきた。願書を出すのは今週の金曜日が締め切りだった。
「母さん。俺、自分で学費を出して夜間の専門校に行くって、前に話したよね。昼間は働くし、集会にも行く。自分で決めたことだから」
「何を言ってるの!」
恵子は手にしていた湯呑みを、ガタンと音を立てて茶托に叩きつけた。茶が少し跳ねて、台拭きの端を茶色く染める。向かいに座る父の武志は、新聞を広げたまま視線すら上げない。
「今週の塔の研究記事を読んだでしょう! ソロモンが何を祈り求めたか勉強したばかりじゃないの。自分勝手な理屈で動かず、神が立てた頭に従うこと。この家では、お父さんと私があなたの上に立てられた権威なのよ。親の言うことに口答えするのが『従順な心』だと思ってるの?」
武志が新聞をゆっくり畳み、低く言った。
「悠真。親の顔に泥を塗るな。お前が勝手な資格を取って外の会社に就職したら、会衆の兄弟たちに何て言われるか。『あそこの息子は霊性が低い』と見下げられるのは、一家の頭である私なんだぞ。うちの清掃の仕事だって、お前が昼間の現場に入ってくれなきゃ困るんだ」
(……結局、それかよ)
息子の将来でも、神への誠実さでもない。
近所や会衆の「目」。そして、父自身の仕事の都合だった。
武志の営むビル清掃の仕事は、ここ二年ほど悠真が早朝の現場に入って作業の抜けや遅れを拾い、取引先の担当者と段取りを合わせて回していた。武志は営業と集金ばかりで、現場の細かな工程表を組むことも、機械の手入れをすることも悠真に任せきりだった。
「わかったよ」
悠真は短く答え、自分の茶碗を流しへ運んだ。
洗剤の泡をスポンジにつけ、油の落ちにくい皿を指先で擦る。蛇口から出るぬるい水が、かじかんだ指を撫でた。
言いたいことは山ほどあった。「従順ってのは、誰かの言いなりになって自分の頭で考えるのをやめることじゃない」と怒鳴り散らしたかった。けれど、ここで感情をぶつければ、「悪魔の精神だ」「反逆だ」と決めつけられ、話がこじれるだけだと分かっていた。
悠真は静かに息を吐き、洗い終えた皿を水切り籠の端に、音を立てずに伏せた。
金曜日の夕方。
悠真は専門学校の事務局へ行き、自分の口座から下ろした現金で入学手続きを済ませた。受領証の薄い紙を財布の奥に入れ、その足で不動産屋に寄った。配送センターの近くにある、風呂なし共同トイレ・家賃三万二千円の四畳半。すでに内見は済ませてあり、バイト先の物流会社で正社員登用を前提とした推薦状をもらっていたため、審査は問題なく通っていた。
実家に戻ると、両親はちょうど日曜日の集会の予習をしていた。リビングの机には開かれた冊子があり、母の丸文字で「親の指示に無条件で従うこと」と鉛筆で書き込まれていた。
「悠真、日曜日までにちゃんと予習しておきなさいよ」
「うん。わかってる」
悠真は自室に入ると、クローゼットから黒いボストンバッグを出した。
持っていくものは、自分で買った最低限の服と、擦り切れるまで解いた過去問題集、それから自分の通帳と印鑑だけ。母が買い揃えた地味なネクタイや、父の古い背広には指一本触れなかった。
机に向かい、同じ文面の手紙を二通、丁寧に清書して封筒に入れた。
日曜日。
朝の光が玄関のたたきに落ちていた。
悠真は早朝に家を出て王国会館へ向かい、集会前の準備に来ていた調整者の長老に挨拶をした。「父に渡してください」と手紙の入った封筒を一通託すと、長老は少し驚きながらも静かに受け取ってくれた。
一度実家へ戻ったときには、両親は入れ違いで身支度を済ませて会館へ出かけたあとだった。
静まり返った家の玄関に立つ。
上がり框の端には、父が仕事で履くすり減った革靴と、母の外出用のパンプスが並んでいる。その少し離れた場所、板張りの敷居をまたいだ土間の上に、自分がバイト代で買った黒いスニーカーが一足、外を向いて置かれていた。
悠真は靴べらを使わずに踵を入れ、紐を指先でしっかりと引き締めた。きゅっと革が鳴る。
敷居の内側には、親の決めた予定と、親の都合の良い言葉ばかりが詰まっていた。だが、一歩外へ踏み出せば、雨が降っても風が吹いても、自分の足で進まなければならない。
悠真は玄関の棚の上に、もう一通の白い封筒を置いた。
鍵を閉め、郵便受けの隙間から真鍮の鍵をことりと落とす。乾いた音が土間に響き、それで終わった。
集会が終わった直後の、王国会館の玄関ホール。
長老の佐々木が、にこやかに恵子と武志に話しかけていた。
「武志兄弟、恵子姉妹。悠真くん、最近とてもしっかりしてきましたね。来月からはお父さんの清掃の仕事を本格的に手伝われると伺いましたが、頼もしいですね」
「ええ、佐々木兄弟! 親の言い付けをよく守る従順な子に育ってくれましたの。余計な世俗の誘惑に惑わされず、慎ましく暮らすのが一番ですから」
恵子は誇らしげに微笑み、周りの姉妹たちに見せるように頷いた。武志も満足げに「現場で私を支えてくれております」と胸を張った。
そこへ、会衆の調整者の長老が、一通の手紙を持って歩み寄ってきた。
「あ、武志兄弟。今朝、悠真くんから言伝を頼まれましてね。『父に渡してください』と預かりました」
「ん? 悠真から?」
武志が不審そうに眉を寄せ、封筒を開けた。
中から出てきたのは、悠真の丁寧な字で書かれた一枚の便箋だった。
『父さん、母さんへ。
本日をもって、実家を出て独立します。
専門学校の夜間コースへ通い、春からは物流会社の現場管理として働く契約を結びました。
母さんはいつも「親に従うのが従順だ」と言いました。でも、ソロモンが神に願った「従順な心」は、善悪を聞き分けて正しく裁くための知恵であって、親の都合のいい操り人形になることではないはずです。
エホシャファト王が敵に囲まれたときも、ただ誰かの顔色を窺っていたのではありません。民と一緒に助けを祈り求め、伝えられた言葉を聞き、どう行動すべきか相談して前に進みました。
大人の責任を放棄して、誰かの言いなりになることは従順ではなく、ただの怠慢です。
僕は、自分の生活に自分で責任を持ち、自分の頭で考え、これからもエホバに仕える道を選びます。
今まで育ててくれてありがとうございました』
「な……っ!?」
武志の顔から血の気が引いた。便箋を持つ指が微かに震える。
「な、何よこれ! 悠真はどこなの!? 佐々木兄弟、あの子を止めてください! 親の許しもなしに出ていくなんて、反逆です!」
恵子が甲高い声を上げ、周囲の信者たちが一斉に足を止めて振り返った。
佐々木長老は驚いて眉をひそめ、穏やかな声で宥めようとした。
「恵子姉妹、落ち着いてください。悠真くんはもう二十歳を過ぎた立派な大人です。自分の信仰と生活について自分で責任を持つと決めたのなら、それは個人の決定であって、親が無理に縛りつけることはできませんよ。それに……王国会館のロビーでそんな大声を出すのは慎みましょう」
「そんな……! 私たちはあの子のためを思って! 親に従うのがエホバへの愛だって……!」
「お前、あいつに何て言ったんだ!」
武志が思わず恵子に声を荒らげた。
「悠真がいなくなったら、明日の配送センターの定期清掃はどうするんだ! あいつが機械の段取りも現場の責任者との連絡も全部やってたんだぞ! 先方から『工程管理が杜撰なら契約を見直す』と釘を刺されたばかりなんだ!」
いつも「模範的な一家の頭」を装っていた武志の取り乱した怒声が、静かなロビーに響き渡る。
周囲の兄弟姉妹たちは、戸惑いと気まずさが入り混じった目で二人を見つめ、そっと輪を離れていった。親の権威を振りかざしていた理由が、息子の信仰のためではなく、自分たちの体面と仕事の肩代わりだったことが、その場にいた誰の目にも明らかになっていた。
その頃。
郊外へ向かう各駅停車の電車の中で、悠真は窓の外を眺めていた。
線路沿いの家並みの向こうに、冬の澄んだ青空が広がっている。
ポケットの中には、四畳半のアパートの新しい鍵があった。真鍮の冷たい角が、指の腹に当たる。
親の敷いた線の上を歩いていれば、怒られることもなく、自分で失敗を引き受ける怖さもなかったかもしれない。
けれど、自分の足で履いた靴なら、つまずいても、また自分の力で立ち上がることができる。
電車が小さな駅に滑り込んだ。
悠真は立ち上がり、黒いボストンバッグを肩に掛けた。
扉が開くと、冬の冷たい風が頬をかすめた。悠真は新しいスニーカーの紐を確かめ、迷いのない足取りで、改札へと向かった。




