悪役令嬢人形譚〜侯爵令嬢と女男爵の翠の夢〜
『悪役令嬢人形譚』第二幕。
こちらは以前、連載形式で掲載していた物語を、独立した短編として再編集したものです。
前作をお読みでなくても、この物語だけでお楽しみいただけます。
今回の主役は、ひとりの侯爵令嬢と、ひとりの男爵。
そして二人の間には、静かな翠の色がありました。
人形が見つめる先で、二人が選ぶものとは。
『悪役令嬢人形譚 ~侯爵令嬢と男爵の翠の夢~』
どうぞ最後までお付き合いください。
王都へ向かう馬車の荷台には、令嬢の旅支度としてはいささか妙なものが積まれていた。
鍬が一本。
鋤が一本。
砥石が三つ。
丈夫な革手袋が二組。
そのほかにも剪定鋏や小刀、麻紐などが詰め込まれている。
「お嬢様。本当に、こちらもお持ちになるのですか」
御者が最後まで困惑した顔で鋤を指した。
「もちろんです。使いますから」
「王都の学院で、ですか?」
「使う機会がなければ、それはそれでいいことです」
「はあ……」
御者はそれ以上尋ねなかった。
賢明な判断である。
ソレイユ・アイゼンフェルトは満足して馬車へ乗り込んだ。
十六歳。
ピンクがかった金髪は、長年日に焼かれたせいで毛先だけ色が抜けている。それを頭の高い位置でひとまとめにし、一本の簪で留めていた。
装飾らしい装飾は、先端についた小さな宝石くらいだ。
もっとも、それは本来、簪の飾りではない。
アイゼンフェルト男爵家の当主印である。
正確には、当主印を刻んだ指輪の宝石部分。
父が亡くなったとき、ソレイユはアイゼンフェルト男爵家を継いだ。
この国では十六歳で成人とみなされ、爵位の継承も認められている。
したがって、ソレイユは男爵令嬢ではない。
れっきとしたアイゼンフェルト男爵である。
ただし学院の卒業年齢は十八歳。
領地経営と学院生活を同時に行うのは現実的ではないため、現在は亡き父の弟、ハンスが男爵代理として領地を管理している。
父の遺言には、いくつか厳しい条件があった。
その一つが、
『当主印は、何があってもソレイユ本人が保管すること』
というものだった。
叔父にも。
叔母にも。
学院にも。
誰にも預けてはならない。
もちろんソレイユは父の遺言を守った。
ただし――指輪として身につけるとは、どこにも書かれていなかった。
「邪魔なのよねえ」
土を掘れば隙間に泥が入る。
家畜の世話をすれば傷がつく。
何より農具を握るときに指輪は邪魔だ。
そこでソレイユは考えた。
指輪そのものを加工してはいけない。
ならば、指輪をそのまま収納できるものを作ればいい。
そうして出来上がったのが、今、髪をまとめている簪だった。
縦に二つへ割れる木製の簪の内部に溝を彫り、指輪の輪を挟み込む。二つを合わせて固定すれば、宝石のついた部分だけが先端から顔を出す。
見た目は少し変わった簪。
中身は男爵家の当主印。
そして必要なら、すぐ元の指輪へ戻せる。
我ながらよくできた。
唯一の欠点は、当主印を取り出すと髪が全部ほどけることだった。
まあ、滅多に取り出さないので問題はない。
「よし」
ソレイユは馬車の窓から遠ざかっていく故郷を眺めた。
叔父ハンスも、叔母ゲルダも、見送りには来なかった。
一歳上の従姉イルゼはすでに学院へ戻っている。
寂しいかと言われれば、少しは寂しい。
けれど、それ以上に。
「王都かあ」
楽しみだった。
何があるだろう。
どんな人がいるだろう。
王都の市場には、故郷では見たことのない野菜もあるだろうか。
砥石も見たい。
馬も見たい。
できれば学院の庭に、少しくらい土をいじれる場所があると嬉しい。
そんなことを考えているうちに、馬車はアイゼンフェルト領を離れていった。
◇
王都の学院は、ソレイユの想像よりずっと大きかった。
「広い……」
最初に出た感想がそれだった。
白い石造りの校舎。
整然と刈り込まれた庭木。
噴水。
広い運動場。
寮も立派だ。
これだけ土地があるのに、畑がほとんどないのが惜しい。
「ソレイユ?」
聞き覚えのある声に振り向く。
「イルゼお姉様」
従姉のイルゼ・アイゼンフェルトが立っていた。
同じ故郷で育ったとは思えないほど、きちんと王都の令嬢らしく整えている。
制服にも皺ひとつなく、髪も美しく結い上げられていた。
その周囲には、同学年らしい令嬢が三人いる。
「本当に来たのね」
「はい。今日からよろしくお願いします」
「……ええ」
イルゼの視線が、荷物へ移った。
正確には、荷物の横から堂々とはみ出している鍬の柄へ。
「それは何?」
「鍬です」
「見れば分かるわ」
「ではなぜ聞いたんです?」
イルゼがこめかみを押さえた。
「なぜ学院に鍬を持ってくるの、と聞いているの」
「必要になるかもしれないので」
「ならないわよ」
「そうでしょうか」
「ならないわ」
ずいぶん自信がある。
ソレイユは少し残念だった。
イルゼは周囲の令嬢たちへ向き直り、困ったように微笑んだ。
「ごめんなさいね。従妹はずっと田舎で育ったものだから」
「ああ……」
令嬢たちが納得したような顔になる。
ソレイユも頷いた。
「はい。田舎です。いいところですよ」
「……ソレイユ」
「今年は豆がよくできました」
「そういう話ではないの」
では、どういう話なのだろう。
尋ねようとしたが、イルゼはもう令嬢たちを連れて歩き出していた。
「学院では少し身なりにも気を遣いなさい。あなたはアイゼンフェルト家の人間なのだから」
「分かりました」
制服ならちゃんと洗ってある。
破れてもいない。
問題ないだろう。
ソレイユはそう判断した。
問題があったのは、むしろ金だった。
「……少ない」
寮の自室で財布の中身を確認し、ソレイユは呟いた。
叔父から渡された生活費は、学院で普通に暮らすには少々心許ない。
授業料や寮費はすでに支払われている。
食事も最低限は出る。
だから生きてはいける。
だが、教本や筆記具、消耗品まで考えると余裕がない。
まして王都の市場で砥石を買うなど――。
「無理ね」
それは困る。
ソレイユは財布を閉じた。
足りないなら、増やせばいい。
翌日、学院の掲示板の前に立った。
家庭教師補助。
図書室整理。
食堂補助。
庭園管理。
そして。
『厩舎作業補助。早朝。経験者優遇』
「あった」
ソレイユは紙を剥がしかけて、注意書きを見て手を止めた。
『希望者は厩舎管理人まで』
剥がしてはいけない。
危ないところだった。
翌朝。
「馬の世話はできますか?」
厩舎管理人の男性が尋ねた。
「はい」
「どの程度?」
「馬も牛もヤギもいけます」
「……牛?」
「はい」
「ここに牛はいません」
「そうなんですか」
「ヤギもいません」
「残念です」
「残念?」
管理人はしばらくソレイユを見た。
「馬房掃除は?」
「できます」
「蹄の掃除」
「できます」
「飼葉の管理」
「できます」
「馬具の手入れ」
「できます」
「暴れる馬は?」
「理由によります」
管理人の眉が上がった。
「理由?」
「痛いのか、怖いのか、機嫌が悪いだけなのかで対応が違うでしょう?」
「……そうですね」
「はい」
少し沈黙。
「採用」
「ありがとうございます」
こうしてソレイユ・アイゼンフェルト男爵は、学院の厩舎で働くことになった。
学院生活は、思ったより楽しかった。
朝は早いが、故郷ではもっと早かった。
馬房を掃除して、馬に餌をやり、自分も朝食を食べて授業へ行く。
授業が終わればまた厩舎へ寄る。
たまに庭師に頼まれて枝を払う。
一度、切れ味の悪い剪定鋏を借りたので研いで返したら、翌日から庭師たちの刃物がソレイユのところへ集まるようになった。
なぜだろう。
断らなかったからである。
そして学院には、故郷では見たことのないものもたくさんあった。
その一つが――人形を抱いて授業を受ける侯爵令嬢だった。
「クロイツ侯爵令嬢よ」
誰かが囁いていた。
「また今日もお人形を……」
「本当に毎日なのね」
ソレイユもちらりと見る。
小柄な少女だった。
おそらくソレイユと身長はほとんど変わらない。
けれど体つきはまるで違った。
ソレイユが畑仕事で鍛えられた骨太な身体なのに対し、少女は驚くほど華奢だった。
黒い髪。
白い肌。
長い前髪の奥に、時折鮮やかな青い瞳が見える。
学院指定の制服にも黒いレースや濃紫のリボンを合わせ、規則の範囲内でかなり手が加えられている。
そして腕の中には、一体の人形。
金色の髪。
翠の瞳。
少女の服とよく似た、黒と濃紫のフリルたっぷりのドレス。
「十六にもなって、ねえ」
「少し気味が悪いわ」
そんな声も聞こえた。
ソレイユはもう一度、人形を見た。
精巧な顔立ちだ。
服もずいぶん凝っている。
手入れも行き届いているらしい。
何より、ずいぶん大切にされているのが分かった。
(立派なお人形だなあ)
それがソレイユの感想のすべてだった。
その日の午後。
授業を終えた生徒たちが廊下へ流れ出したときだった。
少し先を、アマーリエ・フォン・クロイツが歩いていた。
いつものように人形を抱いている。
人の流れが重なった。
誰かの肩が誰かにぶつかる。
「あっ」
小さな声。
人形がアマーリエの腕から滑った。
床へ落ちる。
硬い音。
続いて――。
からん。
小さな何かが、ソレイユの靴の近くまで転がってきた。
アマーリエの顔から血の気が引いた。
「……いや」
ソレイユは足元を見た。
小さな、木製の指。
さらに、その周囲に細かな木片。
次の瞬間。
「動かないでください!」
廊下にソレイユの声が響いた。
周囲の生徒が、びくりと足を止める。
ソレイユはその場へしゃがみ込んだ。
「踏んだら困ります」
まず、折れた指を拾う。
そして床へ目を凝らす。
「あ。ここにもある」
小さな木片を一つ。
もう一つ。
アマーリエは床に座り込み、人形を抱き上げていた。
「顔は……」
震える指で、人形の頬に触れている。
ソレイユも覗き込んだ。
「お顔は割れてません」
「……よかった……」
ほっと息を吐いたアマーリエに、ソレイユは拾った木製の指を見せた。
「でも、指が折れています」
アマーリエの青い目が揺れた。
「どうしよう……」
その声は、これまで聞いたどんな声より幼く聞こえた。
周囲から、誰かの声がした。
「でも、クロイツ侯爵家なら新しいお人形くらい――」
ソレイユは顔を上げた。
「でも、それじゃこの子じゃないでしょう?」
「……え?」
「新しい人形を買っても、この子の指は折れたままですよ」
そう言って、また床を見る。
「あ、もう一個」
最後の小さな木片を拾った。
「たぶん、これで全部です」
差し出された掌を、アマーリエはじっと見つめた。
折れた指。
小さな欠片。
どれもソレイユが拾い集めたものだ。
「……あなた」
「はい?」
「どうして……」
アマーリエは何かを言いかけた。
けれどソレイユは、すでに人形の折れた部分を観察している。
「これ、木ですよね」
「え、ええ」
「なら、とりあえず固定くらいならできるかもしれません」
「……できるの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「人形は直したことがないので」
ソレイユは立ち上がった。
「教室に糊がありましたよね」
そして、ごく当たり前のように言った。
「行きましょう。アマーリエ様」
アマーリエは目を瞬いた。
長い前髪の向こうから、初めてまっすぐソレイユを見る。
「……わたくしの名前、知っていたの?」
「有名ですから」
「それは……」
アマーリエの顔が曇る。
ソレイユは人形を指した。
「こんなに立派なお人形を毎日連れている方、ほかにいませんし」
「…………」
「早く行きましょう。欠片、なくすと困ります」
ソレイユは歩き出す。
アマーリエはしばらくその背中を見つめ――。
人形を大切に抱き直して、その後を追った。
◇◇
教室へ戻ると、ソレイユは真っ先に教卓へ向かった。
「糊、借りますね」
「誰に言っているの?」
「先生にです」
「いらっしゃらないでしょう」
「では、あとで言います」
アマーリエは何か言いたそうな顔をしたが、今はそれどころではないと思い直したらしい。
人形を机の上へ、そっと寝かせる。
ソレイユもその隣へ椅子を持ってきた。
「まず、これですね」
先ほど拾った木片を、白い紙の上に並べる。
折れた指。
大小三つの欠片。
ソレイユは人形の手と見比べ、一つずつ位置を確かめていった。
「……分かるの?」
「だいたい」
「だいたい?」
「木目が続いていますから」
「木目?」
ほら」
ソレイユが指先で示す。
アマーリエが顔を近づけた。
「ここから、こうでしょう。それで、この小さいのがこっち」
「……本当だわ」
「全部拾えてよかったです」
ソレイユは満足そうに頷いた。
それから糊をほんの少しだけつけ、慎重に木片を合わせていく。
アマーリエは息をするのも忘れたように、その手元を見つめていた。
「あなた、こういうことをよくするの?」
「壊れたものを直すことですか?」
「ええ」
「しますよ。農具の柄とか、椅子とか。馬具も」
「…………」
「どうしました?」
「いえ。わたくしのお人形が、農具と同じ分類に入れられた気がして」
「違いますよ」
「そう?」
「農具なら、もっと頑丈に直します」
「そういう意味ではないわ!」
初めて、アマーリエの声が少し大きくなった。
ソレイユは目を丸くしたあと、
「すみません」
と素直に謝った。
ただし何を怒られたのかは、あまり分かっていない顔だった。
欠片を元の位置へ戻し終える。
問題はここからだ。
「乾くまで動かしたくないですね」
「このまま持っていればいい?」
「ずっと?」
「……ずっとは無理ね」
「ですよね」
ソレイユは自分のポケットを探った。
紐はない。
厩舎へ行けばいくらでもあるが、ここからでは遠い。
何か細長い布があればいい。
「あ」
ソレイユはハンカチを取り出した。
両手で持つ。
アマーリエが嫌な予感を覚えたらしい。
「……何をするの?」
「ちょっと失礼します」
びりっ。
「…………」
びりびりっ。
「ちょっと!」
「はい?」
「それ、ハンカチでしょう!?」
「そうです」
「破いたわよね!?」
「はい」
「いいの!?」
ソレイユは細長くなった布を確認した。
「今は布なので」
「ハンカチよ!」
アマーリエの声が、また大きくなった。
ソレイユは不思議そうに首を傾げた。
「洗って縫えば、また使えますよ」
「そういう問題ではないと思うのだけれど……!」
「大丈夫です。私のですから」
「……あなた、時々すごいことを言うわね」
「そうですか?」
「ええ」
ソレイユは細く裂いたハンカチを、折れた指へ慎重に巻いた。
きつすぎないように。
けれど、ずれないように。
最後に結び目を作って固定する。
「はい」
人形の手には、小さな包帯ができていた。
「これでしばらく動かさないでください」
アマーリエが、そっと人形を抱き上げる。
白い布に包まれた小さな指を見つめた。
「……治る?」
声が小さい。
ソレイユは少し考えた。
「これは応急処置です」
「……そう」
「ちゃんと直すなら、人形の職人さんにお願いした方がいいです。私、人形は専門じゃありませんから」
アマーリエの表情が少し曇る。
「でも」
ソレイユは、紙の上に残しておいたものを指した。
「欠片は全部あります」
「……ええ」
「だから、きっと綺麗に直してもらえますよ」
アマーリエはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「……ハンカチも」
「それは別に」
「別ではないわ」
アマーリエは妙に真剣だった。
「新しいものを用意するわ」
「いりませんよ?」
「用意するわ」
「でも、縫えば――」
「用意するの!」
「はい」
侯爵令嬢は意外と押しが強かった。
数日後。
「ソレイユ・アイゼンフェルトはどこ?」
アマーリエは教室で尋ねた。
「アイゼンフェルトさん?」
「ええ」
「もう帰ったんじゃないかしら」
「寮に?」
「さあ……」
アマーリエは眉を寄せた。
授業が終わったばかりである。
寮へ戻るには少し早い。
そのとき、別の生徒が言った。
「あの子なら厩舎じゃない?」
「……厩舎?」
「働いているのよ。朝もいるでしょう?」
アマーリエは聞き間違いかと思った。
「学院の厩舎で?」
「ええ」
「なぜ?」
「知らないわ」
アマーリエは手元の小さな包みを見る。
中には新しいハンカチが入っている。
人形の指は、すでに王都の職人へ預けていた。
ソレイユの応急処置がよかったらしく、欠片も揃っているので問題なく直せると言われた。
ならば礼くらいはしておきたい。
「……厩舎ね」
アマーリエは小さく呟いた。
そして十分後。
「……臭い」
アマーリエは厩舎の入口で固まっていた。
当然である。
厩舎なのだから。
アマーリエは人形を連れていなかった。
修理中なので、今は腕の中が妙に軽い。
代わりにハンカチの包みを胸元で握っている。
「ソレイユ?」
返事がない。
「ソレイユ・アイゼンフェルト?」
「はーい!」
奥から元気な声がした。
しばらくして、馬房からソレイユが顔を出す。
髪はいつもの簪でまとめられている。
制服ではなく、作業用の服。
袖を肘まで捲り、頬には何か汚れがついていた。
「あ、アマーリエ様」
「あなた……」
「どうしたんですか?」
ソレイユがこちらへ歩いてくる。
アマーリエは反射的に一歩下がった。
「待って」
「はい?」
「今、何をしていたの?」
「馬房の掃除です」
「手は?」
ソレイユが自分の手を見る。
「あ」
「来ないで!」
「はい!」
ソレイユがぴたりと止まった。
素直である。
「洗ってきます」
「そうして!」
アマーリエは大きく息を吐いた。
どうして侯爵令嬢である自分が、学院の厩舎まで来て、男爵令嬢に手を洗うよう命じているのだろう。
いや。
そういえば、彼女の立場をよく知らない。
アイゼンフェルト家は男爵家だったはずだ。
従姉のイルゼは知っている。
なら、ソレイユはその親族なのだろう。
それにしても。
「……どうして厩舎で働いているのよ」
戻ってきたソレイユへ尋ねる。
「お金が欲しいので」
あまりにも簡潔だった。
「……お金?」
「はい」
「ご実家からの仕送りは?」
「ありますよ」
「なら、どうして」
「足りないので」
「…………」
「王都って砥石、高いんですね」
「砥石?」
「はい」
「あなた、何を買うつもりなの?」
「いい砥石です」
「だから、何に使うのよ!」
「刃物を研ぎます」
話が進まない。
アマーリエは額に手を当てた。
「もういいわ」
「そうですか?」
「ええ。それより、これ」
包みを差し出す。
ソレイユが受け取った。
「何ですか?」
「ハンカチよ」
「……なぜ?」
「あなた、この間破いたでしょう!」
「ああ」
ようやく思い出したらしい。
「ありがとうございます」
包みを開く。
中には、白地に黒と紫の小さな刺繍が入った、上質なハンカチ。
「綺麗ですねえ」
「そうでしょう」
「これ、雑巾にはできませんね」
「しないで」
「でも汚れたら――」
「ハンカチとして使いなさい!」
「はい」
アマーリエは疲れた。
まだ会って数回なのに、妙に疲れる。
「人形、どうでした?」
不意に尋ねられた。
アマーリエの表情が変わる。
「職人に預けたわ」
「直りそうですか?」
「ええ。あなたが欠片を全部拾ってくれたから、綺麗に戻せるそうよ」
「よかった」
本当に、それだけだった。
自分が役に立ったことを誇るでもない。
侯爵令嬢から礼をされたことを喜ぶでもない。
ただ、人形が直ると聞いて嬉しそうに笑った。
アマーリエは少しだけ視線を逸らした。
「……戻ってきたら、見せるわ」
「ぜひ」
「寝かせると、目も閉じるのよ」
「えっ」
ソレイユの目が輝いた。
「本当ですか?」
「え、ええ」
「どうやって?」
「中に仕掛けがあるのよ」
「見たいです」
「いいけれど……」
「楽しみにしてます!」
思った以上に食いつかれた。
アマーリエは少し戸惑った。
人形が修理から戻ったのは、その一週間後だった。
「閉じた!」
寮のアマーリエの部屋に、ソレイユの声が響いた。
「寝かせれば閉じるわよ」
「すごいですね」
「普通よ」
「起こしていいですか?」
「どうぞ」
ソレイユが慎重に人形を起こす。
翠の瞳が、ぱちりと開く。
「開いた!」
「……あなた、いくつ?」
「十六です」
「そういう意味ではないわ」
アマーリエは呆れながらも、少し笑った。
人形の指は綺麗に直っている。
よく見れば継ぎ目は分かるが、以前とほとんど変わらない。
「この子、ずっと持ってるんですか?」
「ええ。幼い頃から」
「だから少し柔らかいんですね」
ソレイユが人形の胴を見ている。
「顔はビスクよ。手と足は木。胴は布でできているの」
「へえ」
「子どもが抱くには、オールビスクでは重いでしょう。落としたら割れるし」
「なるほど」
ソレイユは感心して頷いた。
「よく考えて作ってあるんですね」
アマーリエの手が、人形のドレスを撫でる。
「両親が選んでくれたの」
「いいですね」
「……ええ」
それだけ。
人形をいつまで持つのか。
なぜ学院まで連れてくるのか。
そんなことは一つも聞かれなかった。
アマーリエは逆に気になった。
「ねえ」
「はい」
「あなた、この子を見て何とも思わないの?」
「可愛いですよ」
「そうではなくて」
「?」
「わたくしが……この歳になっても、人形を持ち歩いていること」
ソレイユはしばらく考えた。
「大切なんでしょう?」
「……ええ」
「なら、大切にすればいいのでは?」
「…………」
「違います?」
アマーリエは答えなかった。
答えられなかった。
あまりにも簡単に言われたからだ。
そんな簡単なことではない。
周囲から何と言われるか。
侯爵令嬢としてどう見られるか。
婚約者にどう思われるか。
いくらでも問題はある。
けれどソレイユは、すでに別のことを考えていた。
「ところで」
「何?」
「アマーリエ様のお人形、服もお揃いなんですね」
「完全なお揃いではないわ。意匠を合わせているだけ」
「自分で考えたんですか?」
「ええ」
「器用ですね」
「わたくしは縫っていないわよ。デザインを決めただけ」
「それでもすごいです」
素直に褒められると、どう反応していいか分からない。
アマーリエは人形を抱き直した。
数日後。
今度はアマーリエがソレイユの部屋を訪れた。
「…………」
扉を開けて、固まった。
壁際に鍬。
その隣に鋤。
棚には大小の砥石。
革手袋。
紐。
小刀。
なぜか蹄鉄まで一つある。
「……何、これ」
「鍬です」
「それは分かるわ」
「こっちは鋤です」
「それも分かるわ!」
「では、何が分からないんです?」
「どうして侯爵令嬢のわたくしの部屋には人形があって、あなたの部屋には農具があるのよ!」
ソレイユは首を傾げた。
「好きだからでは?」
「…………」
アマーリエが黙った。
「私はこっちが好きで、アマーリエ様は人形がお好きなんでしょう?」
ソレイユはごく普通のことのように言った。
アマーリエは、しばらく鍬を見た。
次に鋤を見る。
そしてソレイユを見る。
「……あなたを見ていると」
「はい」
「悩んでいるのが、少し馬鹿らしくなるわ」
「それはよかったです」
「褒めてないわよ」
「そうなんですか?」
アマーリエは、とうとう声を立てて笑った。
その翌朝。
ソレイユは厩舎で、一頭の馬の右後肢を見ていた。
「昨日までは何ともなかったんですけどねえ」
蹄を確認する。
目立った傷はない。
腫れもひどくない。
けれど、馬はわずかに右脚をかばっている。
「腱かもしれんな」
後ろから声がした。
ソレイユが振り向く。
背の高い青年が立っていた。
学院の制服を着ている。
ただし上着は脱いで腕にかけ、シャツの袖は肘まで捲っていた。
日に焼けた肌。
短い焦茶の髪。
かなり大柄だ。
「分かります?」
「ああ。歩かせてみたか?」
「まだです」
「見よう」
「お願いします」
二人で馬を外へ出す。
数歩。
青年が目を細める。
「やはり右だな」
「ですよね」
「冷やした方がいい」
「今そうしようと思ってました」
「手伝う」
「ありがとうございます」
青年は自然に桶を持った。
ソレイユも自然に受け入れた。
しばらくして。
「ディートリヒだ」
青年が言った。
「ソレイユです」
「よろしく」
「よろしくお願いします」
それで自己紹介は終わった。
家名も爵位も聞かなかった。
二人にとっては今のところ、
馬が分かる人。
それで十分だった。
さらに数日後。
「その簪」
今度は別の青年に呼び止められた。
「はい?」
「どこで買った?」
茶褐色の髪に、緑がかった灰色の目。
制服の着こなしは整っているが、貴族の令息とは少し雰囲気が違う。
「作りました」
「自分で?」
「はい」
「ちょっと見せてくれ」
「嫌です」
即答した。
「なんでだよ」
「抜いたら髪が落ちるので」
「……そういう問題じゃなくて」
青年はソレイユの頭をじっと見る。
「その先端の石、妙にいいものじゃないか?」
「そうですか?」
「そうだよ」
「詳しいんですね」
「商売柄な。レオン・ベルナー。ベルナー商会の次男」
「ソレイユ・アイゼンフェルトです」
「アイゼンフェルト……」
レオンが少し考える。
「男爵家か」
「はい」
間違ってはいないので、ソレイユは頷いた。
「それ、本当に自作なんだな?」
「そうですよ」
「……妙なんだよな」
「何がです?」
「作りが」
「よくできてるでしょう?」
「そこじゃない」
レオンは納得していない顔だった。
けれど授業開始の鐘が鳴る。
「また今度見せろ」
「髪をほどいていい時なら」
「条件がおかしいんだよ」
そう言いながらレオンは走っていった。
ソレイユの周囲には、少しずつ人が増えていった。
馬の話になると妙に気の合うディートリヒ。
簪を見るたび首を傾げるレオン。
そして。
「ソレイユ」
「あ、アマーリエ様」
以前より少しだけ大きな声で自分を呼ぶ、黒髪の侯爵令嬢。
その腕には、金髪翠眼の人形がいる。
まだ長い前髪は、青い目を半分ほど隠していた。
けれど。
「今日も厩舎?」
「はい」
「……わたくしも行くわ」
「いいんですか?」
「何よ」
「臭いですよ?」
「知ってるわよ!」
アマーリエの声が廊下に響く。
何人かの生徒が驚いて振り返った。
アマーリエは一瞬だけ身を固くした。
以前なら、そのまま俯いていたかもしれない。
けれど今日は違った。
「……何よ」
振り返った生徒たちへ、青い目を向ける。
相手の方が慌てて目を逸らした。
「行くわよ、ソレイユ」
「はい」
「それと」
「はい?」
「今日は絶対、馬糞を触った手で近づかないで」
「ちゃんと洗いますよ」
「先に言っておかないと不安なの!」
ソレイユは笑った。
アマーリエは少し怒った顔をした。
けれど、その足は止まらなかった。
二人は並んで、厩舎へ向かった。
◇◇◇
それから季節はいくつか巡った。
二年生になっても、四人の関係はさほど変わらなかった。ソレイユは相変わらず早朝から厩舎で働き、ディートリヒは馬の話になるといつの間にか隣にいて、レオンは何かにつけて「採算を考えろ」と口を挟む。
そしてアマーリエも、人形を抱いてソレイユのところへ来るのがすっかり当たり前になっていた。
ただし、変わったこともある。
アマーリエが、人目を以前ほど気にしなくなったことだ。
二年生も半ばを迎えた頃には、アマーリエが厩舎へ来ても驚く者はいなくなっていた。
もっとも、馬房掃除を手伝うわけではない。
「そこに座っていてください」
「分かっているわ」
「馬の後ろには立たないでくださいね」
「それも聞いたわ」
「急に大きな声を出すのも――」
「ソレイユ」
「はい?」
「わたくし、五歳児ではなくてよ」
「でも馬には慣れてないでしょう?」
「…………そうだけれど」
アマーリエは不満そうに唇を尖らせた。
厩舎脇のベンチに腰掛け、膝の上にはいつもの人形。
黒と濃紫のドレス姿なので、牧歌的な厩舎の風景から見事なまでに浮いている。
最初の頃は厩務員たちもぎょっとしていた。
今では慣れた。
「クロイツ嬢、今日はそっちの子も紫か」
「ええ。わたくしと合わせたの」
「いいな」
「でしょう?」
普通に会話している。
人間、慣れるものである。
アマーリエ自身も、以前よりずっとよく喋るようになった。
もっとも、ソレイユに言わせれば、
「最初から普通に喋ってましたよ」
ということになる。
「あなたにだけよ!」
と怒られたが、ソレイユにはその違いがいまひとつ分からなかった。
「ソレイユ」
馬の蹄を掃除していたソレイユが顔を上げる。
「はい?」
「終わったら、お茶にしない?」
「いいですよ」
「今日はお菓子も持ってきたの」
「それは嬉しいです」
「ただし、ちゃんと手を洗ってからよ」
「分かってます」
「爪の間も」
「はい」
「石鹸で」
「はい」
「本当に?」
「アマーリエ様」
「何よ」
「私、普段どれだけ汚いと思われてるんですか?」
アマーリエは少し考えた。
「……聞きたい?」
「やっぱりいいです」
そのやり取りを、少し離れたところでディートリヒが聞いていた。
「仲がいいな」
「そうですか?」
「そう見える」
ソレイユは馬の脚を下ろした。
「ディートリヒさんもお茶飲みます?」
「いいのか?」
「アマーリエ様?」
「構わないわ」
アマーリエは答えてから、少し考えた。
「……そういえば、あなた、いつも厩舎にいるわね」
ディートリヒを見る。
「そうだな」
「馬が好きなの?」
「ああ」
「家でも飼っているの?」
「いる」
「何頭くらい?」
「軍馬まで入れると分からん」
「軍馬?」
アマーリエが眉を寄せた。
「あなた、どこの家の方?」
「ファルケンハイン」
アマーリエが止まった。
「……ファルケンハイン?」
「ああ」
「辺境伯家の?」
「そうだ」
「…………」
アマーリエはゆっくりソレイユを見る。
「ソレイユ」
「はい?」
「知っていた?」
「何をです?」
「この方がファルケンハイン辺境伯家のご長男だということ」
「えっ」
ソレイユがディートリヒを見る。
「長男なんですか?」
「ああ」
「弟さんがいるんですね」
「二人いる」
「へえ」
アマーリエは額を押さえた。
「そこじゃないでしょう!」
「どこです?」
「辺境伯家よ!」
「それは今聞きました」
「あなた、この人と何週間話しているの!?」
「馬の話しかしてませんから」
「爵位くらい確認なさい!」
するとディートリヒが言った。
「俺もソレイユの家名しか知らん」
「あなたも!?」
「アイゼンフェルト男爵家だろう?」
「そうです」
ソレイユが頷く。
ディートリヒも頷いた。
アマーリエだけが頭を抱えた。
そこへ、
「……お前ら、まさか今までそれで付き合ってたのか?」
呆れた声が飛んできた。
レオンだった。
「レオンさん」
「商会に頼まれた馬具の納品確認だよ。で、なんで侯爵令嬢まで厩舎で茶会してるんだ?」
「まだしてないわ」
「そこじゃない」
「あなた、わたくしに対して随分遠慮がなくなったわね」
「この面子で俺だけ礼儀正しくしてたら疲れるだろ」
「どういう意味よ」
「そのままだよ」
いつの間にか、四人で話すことも増えていた。
そして、この四人が揃うと。
たいてい、レオンかアマーリエが疲れる。
その日もそうだった。
「そういえば」
お茶のあと、ディートリヒがソレイユの部屋の壁を見た。
「前から気になっていた」
「何がです?」
「あれだ」
指した先には鋤がある。
「鋤ですね」
「分かっている」
アマーリエが小さく吹き出した。
「あなたたち、本当に似ているわね」
「何がだ?」
「いいの。続けて」
ディートリヒは鋤を手に取った。
「いい手入れだ」
「分かります?」
「ああ」
ソレイユの顔が明るくなる。
「刃の角度もいい」
「そうなんですよ。これ、うちの土に合わせて少し――」
「待て待て待て」
レオンが止めた。
「なんで辺境伯家の嫡男と現役の学生が、女学生の部屋で鍬や鋤の刃について盛り上がってるんだよ」
「鍬や鋤があるからだ」
「理由になってない」
「レオン」
アマーリエが静かに言った。
「諦めた方がいいわ」
「クロイツ嬢?」
「わたくしはもう諦めたの」
「何を?」
「考えることを」
「侯爵令嬢をそこまで追い込むなよ!」
ソレイユは鋤を受け取りながら笑った。
「これ、投げても結構いけるんですよ」
部屋が静まり返った。
レオンが恐る恐る尋ねる。
「……何が?」
「鋤です」
「何に?」
「投げます」
「なぜ?」
「必要な時に」
「どんな時だよ」
「畑で」
「だからどんな時だよ!」
ディートリヒだけが興味深そうに鋤を見ている。
「どれくらい飛ぶ?」
「結構」
「見たいな」
「今度やります?」
「やめなさい!」
アマーリエとレオンの声が綺麗に重なった。
その数日後。
二人は、その会話をもっと真剣に止めておけばよかったと後悔することになる。
学院の正門近くでは、その日、王都から運び込まれた荷物の荷下ろしが行われていた。
食材。
薪。
教材。
厩舎用の飼料。
数台の荷馬車が行き交うため、生徒には近づかないよう言われている。
ソレイユは授業を終え、厩舎へ向かっていた。
アマーリエも一緒だった。
今日は人形を抱いていない。
「置いてきたんですか?」
「ええ」
「珍しいですね」
「今日は刺繍を直してもらっているの」
「ああ」
それだけのことだった。
以前なら、人形がないことに気づかれるだけでもアマーリエは身構えていた。
今では、
「今日は部屋よ」
と言える。
それをソレイユが特別扱いしないことも分かっていた。
前方から大きな音がした。
馬の嘶き。
木箱の落ちる音。
「何?」
アマーリエが足を止める。
一台の荷馬車だった。
積荷の一部が崩れ、その音に驚いた馬が暴れている。
御者が必死に手綱を引く。
「止まれ! 止まれ!」
しかし馬は興奮していた。
後退した拍子に荷車の車輪が縁石へ乗り上げる。
馬車が大きく傾いた。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。
馬が前へ飛び出した。
進行方向には、生徒がいる。
皆が慌てて道を空ける。
だが、一人だけ。
転んだ下級生が、起き上がれずにいた。
「どいて!」
アマーリエが叫ぶ。
間に合わない。
ソレイユは走った。
「ソレイユ!?」
だが、馬へ向かったのではない。
すぐ脇。
庭園整備のため、庭師が道具を置いている。
その中から一本の鋤を掴んだ。
レオンが、ちょうど反対側から歩いてきていた。
ソレイユが鋤を持った瞬間、顔色を変えた。
「おい」
ソレイユは鋤を構える。
「おい、待て」
狙う。
「ソレイユ、待て!」
投げた。
「なんでだよ!!」
鋤が飛んだ。
回転しながら、馬の進行方向へ。
もちろん馬を狙ったのではない。
石畳と花壇の境。
馬の数歩先へ――鋤の刃が突き刺さった。
がつん!
突然目の前へ飛び込んできたものに、馬が驚いて進路を変える。
その一瞬。
ソレイユが下級生へ飛びついた。
二人で転がる。
馬車がすぐ脇を通り過ぎた。
「ソレイユ!」
アマーリエが駆け寄る。
「大丈夫!?」
「はい」
「あなたじゃないわ! ……いえ、あなたもだけれど! そちらの子!」
下級生は呆然としている。
「怪我は?」
「だ、大丈夫です……」
ソレイユが確認する。
擦り傷はあるが、大きな怪我はなさそうだ。
「よかった」
ほっとした、そのとき。
「ソレイユ」
低い声。
「はい?」
アマーリエが立っていた。
肩が震えている。
青い目が潤んでいた。
そして。
「あなた、馬鹿なの!?」
学院中に響きそうな声だった。
「えっ」
「怪我したらどうするつもりだったの!」
「でも――」
「でもじゃないわ!」
周囲が静まり返る。
「あんなところに飛び込んで! 馬に蹴られたら!? 馬車に轢かれたら!? 鋤が跳ね返ってきたらどうするのよ!」
「鋤はちゃんと狙いました」
「そこじゃないわよ!!」
アマーリエの声がさらに大きくなる。
「あなた、自分が丈夫だからって何をしても壊れないと思ってるんじゃないでしょうね!」
「そこまでは……」
「思ってる顔よ!」
「すみません」
「本当に分かってる!?」
「はい」
「嘘!」
「はい」
「認めるな!」
レオンが頭を抱えていた。
「クロイツ嬢、もっと言ってやれ」
「あなたも止めなさいよ!」
「止めたよ! 投げる寸前に!」
「遅い!」
「俺のせいか!?」
そこへ、暴れた馬を捕まえて戻ってきたディートリヒが合流した。
地面へ刺さった鋤を見る。
ソレイユを見る。
「見事だった」
「ありがとうございます」
「褒めないで!」
アマーリエとレオンが同時に怒鳴った。
ディートリヒが少し考える。
「駄目なのか?」
「駄目よ!」
「そうか」
「あなたも反省して!」
「俺も?」
騒ぎを聞きつけた教師が走ってくる。
生徒たちはざわめいていた。
だが、その視線の一部はソレイユではなく、アマーリエへ向いていた。
「……クロイツ侯爵令嬢?」
「あんな声、出す方だったの?」
「初めて聞いた……」
アマーリエが、その囁きに気づいた。
ぴたりと黙る。
周囲を見る。
何人もの生徒がこちらを見ていた。
ほんの少し前なら。
アマーリエはきっと俯いていただろう。
前髪の奥へ隠れて、人形を抱きしめていた。
けれど今は、人形もいない。
隠れるものがない。
アマーリエは唇を噛んだ。
それから。
「……何よ」
青い目で、周囲を見返した。
「友人が馬車に轢かれそうになったのよ。怒鳴って何が悪いの」
誰も答えなかった。
ソレイユが隣で笑った。
「アマーリエ様」
「何よ!」
「元気ですね」
「誰のせいよ!!」
翌日。
教室へ入ってきたアマーリエを見て、ソレイユは何か違うと思った。
「おはようございます」
「おはよう」
黒髪。
黒と濃紫のリボン。
いつもの制服。
腕には、刺繍の修繕を終えた人形。
何が違うのだろう。
じっと見る。
「……何?」
「いえ」
「何よ」
「あ」
分かった。
ソレイユは手を打った。
「アマーリエ様、目、青かったんですね」
「今さら!?」
教室中の視線が集まった。
アマーリエの長い前髪が、今日は小さな黒いピンで横へ留められている。
白い顔がすっかり見える。
そして、これまで前髪の奥へ半分隠れていた青い瞳も。
「こんなに青かったんですね」
「何度も見ているでしょう!」
「半分くらいしか見えてませんでした」
「……そうだけれど」
ソレイユは改めて顔を見る。
「アマーリエ様、すごく顔が整っていたんですね」
「…………」
「どうしました?」
「あなたね」
「はい」
「今までわたくしの顔を何だと思っていたの?」
「アマーリエ様の顔です」
「もういいわ!」
アマーリエは席へ向かった。
けれど耳が少し赤い。
周囲からも視線を感じる。
これまでもアマーリエが美しいこと自体は知られていた。
ただ、こうして顔を上げて歩く姿は珍しかった。
「……綺麗」
誰かが小さく呟いた。
アマーリエの足が一瞬止まる。
けれど振り返らなかった。
そのまま席へ座る。
膝の上に人形を置いた。
人形は相変わらずそこにいる。
何も手放していない。
ただ。
少しだけ、顔を上げただけだった。
その日の昼休み。
「アマーリエ」
声をかけた青年がいた。
ソレイユは初めて見る顔だった。
端正な顔立ち。
きちんと整えられた髪。
制服の着こなしにも隙がない。
アマーリエの表情がわずかに硬くなる。
「ルーカス」
「昨日のことを聞いた」
「そう」
「怪我はなかったのか?」
「わたくしは何も」
「そうではなくて……いや、君もだ」
青年は少し言葉に詰まった。
それから、ソレイユへ視線を向ける。
「君がアイゼンフェルト嬢?」
「はい」
「ルーカス・フォン・エーレンハルトだ」
「初めまして」
「アマーリエの婚約者だ」
「ああ」
ソレイユは頷いた。
アマーリエに婚約者がいることは知っていた。
この人か。
「昨日はアマーリエも世話になったらしい」
「私の方が怒られました」
「……想像できる」
「ルーカス?」
「いや」
ルーカスは少し笑った。
アマーリエも、ほんの少し表情を緩めた。
仲が悪いようには見えない。
むしろ、互いをよく知っているように見えた。
ルーカスはアマーリエの前髪を見る。
「今日は留めているんだな」
「……変?」
「いや」
すぐに答えた。
「似合っている」
「そう」
アマーリエの頬が少し緩む。
だが。
「少し安心した」
ルーカスが続けた。
「何が?」
「最近、君が以前より人と話すようになったと聞いていたから」
「……ええ」
「アイゼンフェルト嬢たちと過ごすようになってからだろう?」
「そうね」
「よかったと思っている」
そこまではよかった。
本当に。
そこで終わっていれば、何も問題はなかった。
「これを機に、その人形も少しずつ――」
アマーリエの表情から、すっと色が消えた。
ソレイユにも分かった。
空気が変わった。
「……何?」
ルーカスも気づいたらしい。
「いや。だから、君がこうして外へ目を向けられるようになったのなら、いつかはその人形がなくても――」
「そう」
「アマーリエ?」
「よかったわね」
「何がだ?」
「あなたの望んだとおりになって」
「待ってくれ。僕はそういう意味で――」
「授業が始まるわ」
「まだ時間はある」
「わたくしには準備があるの」
アマーリエは人形を抱き上げた。
「行きましょう、ソレイユ」
「え」
「行くわよ」
「はい」
ソレイユは立ち上がった。
数歩進んで、振り返る。
ルーカスはその場に立ったままだった。
困ったような。
傷ついたような。
けれど、何が間違っていたのか分からないような顔をしている。
その日の放課後。
アマーリエは珍しく厩舎へ来なかった。
翌日も。
さらにその翌日も。
「喧嘩したんですか?」
三日目。
ソレイユはとうとう尋ねた。
アマーリエは人形のドレスを整えていた。
「誰と?」
「ルーカス様と」
「していないわ」
「そうですか」
「ええ」
明らかにしている。
けれどソレイユは、そこを追及しなかった。
しばらくして、アマーリエの方が口を開いた。
「あの人は昔からそうなの」
「はい」
「この子を学院へ連れてくるなと言うの」
「どうしてです?」
「わたくしが悪く言われるから」
「……なるほど」
「分かるでしょう?」
「ルーカス様が心配する理由は」
アマーリエの手が止まった。
「あなたも、そう思うの?」
「何をです?」
「この子を持ち歩くのをやめた方がいいって」
「いいえ」
「じゃあ、何が分かるのよ」
「アマーリエ様が悪く言われたら、嫌なんだろうなって」
「同じことよ」
「そうですか?」
「同じよ」
アマーリエは強く言った。
「結局、あの人もわたくしがこの子を持っているのが恥ずかしいのよ」
「ルーカス様がそう言ったんです?」
アマーリエが黙った。
「……言わなくても分かるわ」
「そうなんですか?」
「分かるわよ」
「本人に聞きました?」
「だから!」
アマーリエが顔を上げる。
青い目が揺れていた。
「聞かなくても分かると言っているでしょう!」
「はい」
ソレイユは黙った。
アマーリエはしばらく息を荒くしていた。
やがて、ぽつりと言った。
「……あの人も、この子がいなくなればいいと思っているのよ」
ソレイユは答えなかった。
人形のことなら多少は分かるようになった。
馬のことも。
畑のことも。
刃物のことも。
壊れた木の指なら、応急処置くらいできる。
けれど。
婚約者同士の心というものは、木目ほど分かりやすくないらしい。
そして何より。
これはソレイユが勝手に直していいものではない気がした。
その頃。
アマーリエとルーカスの間にできた小さな亀裂は、誰にも見えないところで、少しずつ広がり始めていた。
◇◆◇
アマーリエ・フォン・クロイツが婚約解消を口にした翌日、その話はすでに学院中へ広まっていた。
もっとも、広まったのは事実そのものではない。
最初は「クロイツ侯爵令嬢とエーレンハルト伯爵家嫡男が婚約解消を考えている」という程度だったはずなのに、昼には「人形を捨てろと言われた侯爵令嬢が婚約者を振った」になり、夕方には「エーレンハルト伯爵家嫡男が人形に嫉妬して婚約破棄を申し入れた」へと変化していた。
噂というものは、どうやら馬より速く走るうえに、走っているうちに勝手に脚を増やすらしい。
「どうしてそうなるのよ!」
食堂の一角で、アマーリエがテーブルを叩いた。
ティーカップの中で紅茶が揺れる。
「人形に嫉妬って何!?」
「私が昨日聞いたのは、アマーリエ様がルーカス様より人形との結婚を選んだ、でしたよ」
「誰と誰が結婚するのよ!」
「アマーリエ様と、その子です」
「分かってるわよ!」
アマーリエの隣の椅子には、件の人形がちょこんと座っている。
金髪に翠の瞳、黒と濃紫を基調にしたフリルたっぷりのドレス。以前ならアマーリエの腕の中にいることが多かったが、最近ではこうして隣へ座らせることが増えた。
もちろん、誰かにそうしろと言われたからではない。
抱いていたい日は抱く。隣に座らせたい日はそうする。部屋に置いてくる日も、ごくたまにではあるが出てきた。
アマーリエ自身が決めている。
ソレイユには、それが一番いいことのように思えた。
「それで」
向かいに座っていたレオンが、パンをちぎりながら口を挟んだ。
「実際のところ、婚約はどうするんだ?」
アマーリエの動きが止まった。
「……どうするって?」
「解消するのか、しないのか」
「するわよ」
「本当に?」
「何よ、その顔」
「いや。商売なら契約を切る前に、一度は条件を確認するけどなと思って」
「恋愛を商売と一緒にしないで」
「婚約は恋愛だけじゃないだろ。家同士の契約でもある」
「そういうところ、本当に商人ね」
「褒め言葉として受け取っておく」
その横で、ディートリヒが黙々と肉を食べていた。朝から大層な食欲である。
「話せばいい」
肉を飲み込んでから、彼は言った。
アマーリエが嫌そうに見る。
「何を?」
「ルーカスと」
「昨日話したわ」
「足りなかったんだろう」
「……どうしてそう思うのよ」
「別れたくない顔をしているからだ」
アマーリエが絶句した。
レオンが片手で顔を覆う。
「お前はもう少し言い方を考えろ」
「違うのか?」
「違わないけれど!」
とうとうアマーリエが認めた。
言ってから自分でも気づいたらしく、青い目を見開いて口元を押さえる。
ソレイユはパンを食べる手を止めた。
「では、別れたくないんですね」
「ソレイユ」
「はい?」
「今のは忘れなさい」
「無理では?」
「忘れなさい」
「はい」
忘れろと言われても、聞いてしまったものは仕方がない。
ソレイユとしては、話はずいぶん簡単になった気がした。アマーリエがルーカスを嫌いになったわけではなく、ルーカスの方も昨日の様子を見る限り、喜んで婚約解消を受け入れたようには見えなかった。
それなら、二人でもう一度話せばいい。
そう思って、
「ルーカス様に聞いてきます?」
と言ったところで、アマーリエに即座に止められた。
「駄目!」
「まだ立ってもいませんよ」
「そのまま座っていなさい!」
「はい」
「ディートリヒもよ!」
「俺は何もしていない」
「あなたは昨日したでしょう!」
「何をだ?」
レオンが深いため息をついた。
「こいつ、昨日ルーカスに直接『アマーリエ嬢と別れたいのか』って聞いたんだよ」
アマーリエがゆっくりとディートリヒを見た。
「……何ですって?」
「聞いた」
「何て答えたの?」
「答えなかった」
「それだけ?」
「ああ。だから別れたくないんだと思う」
「どうしてそうなるのよ!」
「別れたいなら、そう言えばいいだろう」
あまりにも単純明快だった。
けれどソレイユには、なるほどと思える。
「私もそう思います」
「あなたは賛成しないで!」
「でも――」
「お前ら二人は恋愛に口を出すな」
レオンがきっぱりと言った。
なぜ自分まで叱られたのだろう、とソレイユが首を傾げた、そのときだった。
「何の話だ?」
背後から聞き覚えのある声がした。
全員の動きが止まった。
振り返ると、ルーカス・フォン・エーレンハルトが立っている。
最悪のところを聞かれたのか、それとも全部聞かれたのか。
レオンが目を閉じた。
「……俺、今日は席を外してもいいか?」
「駄目よ」
「なんでだよ」
「もう知っているでしょう」
「知りたくて知ったわけじゃない」
そんな二人のやり取りには構わず、ルーカスはアマーリエを見た。
「少し話せるか」
アマーリエの指が、わずかに動いた。
以前なら、その手はすぐに人形へ伸びていただろう。
けれど今、人形は隣の椅子に座ったままだった。
「……ここでいいわ」
「ここで?」
「また二人きりで話したら、同じことになる気がするの。それに、この三人はもう大体知っているし」
「俺も入ってるのか?」
「あなたは諦めなさい、レオン」
「俺だけ扱いが雑じゃないか?」
ルーカスはしばらく迷ったものの、やがて空いている椅子を引いた。
侯爵令嬢とその婚約者、現役の男爵、辺境伯家の長男、商会の次男。そして、金髪翠眼の人形が一体。
婚約問題を話し合う面子として正しいのかは甚だ疑問だったが、少なくとも昨日よりは冷静に話せそうだった。
「昨日のことだが」
席についたルーカスが切り出した。
「僕は、君と婚約を解消したいわけではない」
アマーリエは黙っている。
「君が本当にそれを望んでいるなら、無理に続けることはできない。だから昨日は、ああ答えた」
「……それが君の望みなら、って?」
「ああ」
「わたくしが望むなら、別れてもいいということでしょう?」
「そうではない」
「同じでしょう」
「違う。僕が別れたくないという理由だけで、君を縛るつもりはないと言っているんだ」
そこでアマーリエは初めてルーカスを見た。
昨日は互いに感情的になりすぎていたのだろう。言った言葉の意味を受け取るより先に、自分が次に何を言うかを考えていたのかもしれない。
「なら、確認させてくれ」
ルーカスは言った。
「君は、僕と結婚したくないのか?」
アマーリエはすぐには答えなかった。
食堂のざわめきが遠く感じられるほど、長い沈黙だった。
「……分からないわ」
「そうか」
「あなたが嫌いなわけではないの」
「ああ」
「でも、あなたと結婚したら、いつかこの子を手放さなければならなくなる気がするの」
アマーリエの視線が、隣の人形へ向かう。
「あなたは学院へ連れてくるなと言った。社交の場にも連れてくるなと言った。人前で抱くのもやめた方がいいと言ったわ。それを一つずつ聞いていたら、最後に残るのは自分の部屋だけでしょう?」
「僕は、捨てろとは一度も言っていない」
「でも、隠せとは言ったわ」
ルーカスが言葉に詰まる。
「……君が傷つくと思ったからだ」
「それよ」
アマーリエの声は大きくなかった。
昨日とは違う。怒鳴らず、逃げず、ただ自分の言葉で伝えようとしていた。
「どうして、わたくしを傷つける人ではなく、わたくしの方を変えようとするの?」
「それは……」
「言ってる人に、やめてもらえばいいのでは?」
ソレイユが言った。
全員の顔がこちらを向いた。
「何です?」
「いや……」
ルーカスが眉間を押さえる。
「アマーリエ様が人形を持っている。それを見て悪く言う人がいる。悪いのは後ろの方でしょう?」
「ソレイユ」
レオンが口を挟んだ。
「今回は続けろ」
「はい。ですから、アマーリエ様に持つのをやめてもらうより、悪く言っている人にやめてもらった方が早いのでは?」
「……そんな単純な話ではない」
「そうですか?」
「彼女は侯爵令嬢だ。いずれ伯爵夫人になる。社交界では――」
「伯爵夫人になったら、人形を持ってはいけないという決まりがあるんですか?」
「ない」
「なら、いいのでは?」
「…………」
ルーカスが黙った。
ソレイユも黙る。
何か間違ったことを言ったのだろうか。
隣を見ると、ディートリヒが深く頷いている。
「俺もそう思う」
「お前が賛成すると急に不安になるからやめろ」
「なぜだ」
レオンだけが疲れていた。
しばらくして、ルーカスが小さく息を吐いた。
「僕は、君を守っているつもりだった」
今度はアマーリエだけを見る。
「君が陰で何を言われているのか知っていた。君自身がそれを気にして、学院へ来られなくなった日があったことも知っている。だから、原因をなくせばいいと思った」
「原因は、この子ではないわ」
「……そうだな」
ルーカスが認めた。
「今なら分かる。だが僕は、人形がなければ昔の君に戻れると思っていた」
「昔のわたくし?」
「ああ」
アマーリエは少し考えてから、静かに首を横へ振った。
「それは無理よ」
「アマーリエ」
「昔には戻れないもの」
以前の自分より臆病になったことも、人形がなければ不安でたまらない日があることも、アマーリエは否定しなかった。
けれど、それだけが今の自分ではない。
「昔のわたくしにはいなかった友人が、今はいるわ」
そう言って、ソレイユを見る。
次にディートリヒを見て、最後にレオンを見る。
「俺も入ってる?」
「入っているわよ」
「そうか」
「だから、昔に戻るんじゃなくて、このまま先へ行きたいの」
アマーリエはそう言ってから、人形へ手を伸ばした。
けれど抱き上げるのではなく、乱れていたドレスの裾を少し整えるだけだった。
「この子を持っているわたくしのままで」
ルーカスは長いあいだ何も言わなかった。
やがて、静かに頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「社交の場にも連れて行くかもしれないわよ」
「……努力する」
「そこは即答しなさいよ」
「僕にも慣れる時間をくれ」
アマーリエが目を丸くした。
そして、ほんの少し笑った。
「仕方ないわね」
ルーカスも笑った。
「では、婚約解消はなしですか?」
ソレイユが確認した。
「ソレイユ」
「はい?」
「今、いいところだったのよ」
「重要なところなので」
「余韻というものを覚えなさい」
「余韻」
「覚えなくていい」
レオンがすかさず止める。
「こいつは使いどころを間違える」
「どういう意味です?」
「そのままだよ」
結局、婚約解消の話はいったん白紙に戻すことになった。
もちろん、それで二人の問題がすべて片づいたわけではない。幼い頃から婚約者として一緒にいたせいで、分かっているつもりになっていたことがあまりにも多かったのだ。
アマーリエが嫌なこと。ルーカスが心配していること。人形のこと。将来の社交のこと。
一つずつ、今度こそ言葉にして話す。
二人が決めたのは、それだけだった。
けれど、それで十分だった。
学院中を駆け巡った婚約破棄の噂は、それから数日かけて少しずつ勢いを失った。
もっとも、噂というものは消える直前まで妙な変化を続けるもので、最後には「エーレンハルト伯爵家嫡男が人形に正式に謝罪したらしい」という話になっていた。
「してない!」
珍しくルーカスが声を荒らげた。
「いいじゃない。謝っておけば」
「なぜ君まで面白がっているんだ!」
「だって面白いもの」
「アマーリエ……」
そんな会話ができるようになったのなら、ひとまず大丈夫なのだろうとソレイユは思った。
アマーリエの前髪にも、小さな変化があった。
毎日ではないが、自分からピンで留めるようになったのである。ある朝にはとうとう少しだけ切ってきて、ソレイユの前でくるりと顔を見せた。
「どう?」
「いいと思います」
「本当?」
「はい。前がよく見えそうです」
「……最初にそこなの?」
「畑でも安全ですよ」
「わたくしは畑仕事をしないわよ」
「楽しいですよ」
「しません」
アマーリエはきっぱり断ったが、笑っていた。
人形を手放したわけではない。
黒い服も、濃紫のリボンも、たっぷりのレースもやめていない。
誰かが望む「普通の令嬢」になろうとしているわけでもなかった。
ただ、自分の好きなものを抱えたままでも、顔を上げて歩いていいのだと、少しずつ思えるようになっただけだった。
そうして二年生の残りの日々は、以前よりずっと穏やかに過ぎていった。
アマーリエとルーカスは、何かあれば以前よりきちんと言葉にするようになり、ソレイユたちの付き合いも変わらず続いた。
やがて冬が過ぎ、学院の庭に新しい芽が顔を出す頃。
ソレイユたちは、最終学年――三年生を迎えた。
卒業まで、あと一年。
ソレイユにとってそれは、学院生活の終わりが近づいたというだけではない。
卒業すれば故郷へ戻り、男爵代理を務める叔父ハンスから領地の実務を引き継ぐ。
父から受け継いだアイゼンフェルト男爵として、今度こそ自分の手で領地を治めていく。
それが、ソレイユがずっと思い描いていた卒業後の未来だった。
疑ったことなど、一度もない。
だからこそ。
三年生になって間もないある日の午後、ソレイユのもとへ故郷から一通の手紙が届いた。
差出人の名前を見た瞬間、彼女は少し驚いた。
父の代からアイゼンフェルト家に仕えている、古参の使用人だった。学院へ入ってから手紙をもらったことは一度もない。
「珍しいですね」
「故郷から?」
「はい」
隣でアマーリエが人形のドレスに新しいリボンを合わせている。
ソレイユは封を切った。
最初の数行を読み、眉を寄せる。
『ソレイユ様。
お許しください。本来ならば、もっと早くお知らせすべきことでした。しかしハンス様より、王都にいらっしゃるソレイユ様への私信を固く禁じられておりました』
そこまで読んだところで、いつもの気楽な表情が消えた。
「どうしたの?」
「少し待ってください」
続きを読む。
『現在、領内ではイルゼ様が次期アイゼンフェルト女男爵として紹介されております。ハンス様は、ソレイユ様には領主となるご意思がなく、学院卒業後には爵位をイルゼ様へ譲られる予定であると皆に説明しております』
ソレイユはそこで一度、手紙から目を離した。
窓の外を見る。
もう一度読む。
やはり同じことが書いてある。
「……おかしいですね」
「何が?」
「私、爵位を譲ることになっているみたいです」
「…………何ですって?」
アマーリエの声が一段低くなった。
「私も今知りました」
「見せなさい」
手紙を渡す。
アマーリエは読み進めるにつれて眉間の皺を深くし、最後まで読み終えたところで勢いよく顔を上げた。
「何よ、これ!」
「私に聞かれても」
「あなた、爵位を譲るつもりなの?」
「ありませんよ」
「でしょうね!」
即答だったので、そこだけは安心したらしい。
しかしアマーリエは、すぐに別のことに気づいた。
「待って。ソレイユ」
「はい?」
「あなた、さっきから妙に平然としているけれど」
「そうですか?」
「あなたの家が乗っ取られかけているのよ!」
ソレイユは少し考えた。
「まだ乗っ取られてはいませんよ」
「そこを冷静に訂正しないで!」
「でも大事なところでは?」
「そうだけれど!」
アマーリエは頭を抱えた。
その日の放課後には、いつもの四人にルーカスまで加わっていた。
机の中央には故郷から届いた手紙が置かれている。レオンは二度読み返し、ルーカスは内容を確認しながらいくつか質問をし、ディートリヒは一度読んだだけで「帰って追い出せばいい」と言った。
「お前は一旦黙れ」
レオンが即座に止める。
「なぜだ」
「爵位と領地の問題は腕力で解決するな」
「そうなのか」
「そうだよ!」
「でも、叔父様に確認は必要ですよね」
ソレイユが言うと、レオンが首を横へ振った。
「その前に、こっちで確認することがある」
「何です?」
「お前自身だよ」
「私?」
レオンはいつになく真剣な顔をしていた。
「ソレイユ。お前は本当にアイゼンフェルト男爵なんだな?」
「はい」
「男爵家の娘、じゃなく?」
「違います」
「いつ継いだ?」
「父が亡くなった時です。すでに十六歳になっていましたから、そのまま私が」
「それを証明できるものは?」
「ありますよ」
「どこに」
「ここです」
ソレイユは自分の頭を指した。
全員の視線が、ピンクがかった金髪をまとめている簪へ集まる。
その瞬間、レオンだけが椅子から立ち上がった。
「……おい」
「はい?」
「まさか」
「何です?」
「それ、抜いてみろ」
「髪が落ちますよ」
「いいから抜け!」
「どうしてレオンさんが怒るんですか」
不思議に思いながらも簪を引き抜くと、まとめていた髪が一気にほどけ、日に焼けて色の抜けた毛先が肩へ広がった。
「それで?」
「ここを外します」
ソレイユは簪の留め具を動かした。
木製の軸は縦に二つへ分かれるよう作られており、内側には指輪の形に合わせた溝が彫られている。その間に挟み込まれていたものを取り出すと、簪の飾りだと思われていた宝石も一緒に外れ、一つの完全な指輪になった。
宝石の表面には、アイゼンフェルト男爵家の紋章が刻まれている。
当主だけが持つ印章指輪だった。
「これです」
沈黙が落ちた。
最初に反応したのはレオンだった。
両手で顔を覆う。
「やっぱりか……」
「何がです?」
「前から妙だと思ってたんだよ! なんで男爵家の令嬢が、あんな石を簪の先につけてるんだって!」
「私は男爵令嬢ではありませんよ」
「今それを言うな!」
ルーカスも印章指輪とソレイユを交互に見ている。
「それを、ずっと髪に仕込んでいたのか?」
「はい」
「なぜ?」
「指にはめると、土いじりの邪魔なので」
「…………」
アマーリエがゆっくり椅子へ座り直した。
「もう嫌」
「アマーリエ様?」
「あなたといると、わたくしがものすごく普通の人間に思えてくるの」
「普通では?」
「あなたにだけは言われたくないわ!」
ディートリヒはそんな二人を気にする様子もなく、指輪を見て頷いた。
「なら、やはり問題ないな」
「だから何がだよ」
「男爵はソレイユなんだろう?」
「ああ」
「当主印も持っている。なら帰って、自分が男爵だと言えばいい」
「お前なあ……」
レオンは反射的に呆れたものの、途中で口を閉じた。
確かに、根本のところではディートリヒの言うとおりなのだ。
ハンスはあくまで男爵代理にすぎない。イルゼに至っては当主の従姉ですらなく、当主の従姉妹でしかない。ソレイユ本人が爵位を譲る意思を示していない以上、勝手に次期当主を名乗らせたところで、それだけで爵位が移るわけではない。
問題は、なぜそんな話を領内で広めているのか。
そして、ハンスがどこまで準備を進めているのかだった。
「まず調べよう」
レオンが言った。
「叔父さんが領地で何をしているのか、イルゼがどこまで知っているのか。それから、現当主のお前に何も知らせないまま、どうして次期女男爵なんて話を広めているのか。帰るのは、それを確かめてからでも遅くない」
「分かりました」
ソレイユは頷いた。
それから、掌の上にある印章指輪へ目を落とす。
父が亡くなったとき、彼女は十六歳だった。
悲しむ暇もないまま爵位を継ぎ、学院へ通うことは父の遺志でもあったため、領地の実務を叔父へ預けた。卒業するまでの二年間だけ。それが終われば故郷へ戻り、自分が領主として立つつもりだった。
華やかな王都で暮らし続けたいと思ったことはない。
ソレイユが思い描いてきた未来は、いつも故郷にあった。
春になれば黒い土から柔らかな芽が顔を出し、夏には草と土の匂いが濃くなる。秋には麦が重く穂を垂れ、冬になれば畑は静かに眠りながら次の春を待つ。幼い頃から見てきたその繰り返しは、ソレイユにとって単なる田舎の風景ではなく、自分がいつか守り、次へ渡していくものだった。
父から受け継いだのは、爵位だけではない。
あの大地も、その上で暮らす人々も、そこに芽吹くものも、すべて含めてアイゼンフェルトなのだ。
「譲りませんよ」
ソレイユが言った。
先ほどまでとは違う、静かな声だった。
「お父様が私に残してくれた土地です。それに――私も、あの土地が好きですから」
アマーリエがじっと彼女を見る。
やがて、小さく頷いた。
「なら、取り戻しましょう」
「まだ取られてませんよ」
「あなたはどうして、そういうところだけ細かいのよ!」
「大事なところですから」
「分かってるわよ!」
ソレイユは少し笑ってから、印章指輪を再び簪へ戻した。二つに割った木の軸でリング部分を挟み込み、留め具を固定すると、当主印はまた一見しただけでは少し変わった装飾の簪に戻る。
「……また髪につけるの?」
「はい」
「今の話のあとでも?」
「指につけたら厩舎仕事の邪魔です」
「あなたねえ……!」
アマーリエの声を聞きながら、ソレイユは髪をまとめ直した。
簪の先で、男爵家の印章石が小さく光る。
学院へ来た日と何も変わらない姿だった。
けれど今、彼女の中には一つだけ、はっきりしたものがあった。
ソレイユの夢は、王都にはない。
土の匂いのする故郷にある。
父から受け継いだ大地に立ち、春には種を蒔き、芽吹く緑を眺めながら、自分の手で領地を育てていく。
その未来を誰かに譲った覚えなど、一度もなかった。
◇◇
調べる、と決めたはいいものの、ソレイユには一つ問題があった。
「何を調べればいいんでしょう」
「そこからかよ」
レオンが机に突っ伏した。
翌日の放課後、五人は再び集まっていた。昨日と違うのは、机の上に例の手紙だけではなく、紙と筆記具、それにレオンが持ってきた数冊の帳面が積まれていることだった。
「だって、男爵が私なのは分かっていますし、叔父様が代理なのも分かっています。イルゼお姉様が次期女男爵だというのは嘘です。だったら、帰って『違います』と言えば済むのでは?」
「お前までディートリヒみたいなことを言い始めるな」
「俺は最初からそう言っている」
「胸を張るな」
レオンは顔を上げると、紙の中央に一本の線を引いた。
「いいか。問題は、イルゼ嬢が本当に爵位を継げるかどうかじゃない。継げない。お前が生きていて、爵位を放棄する意思もない以上、そこはどうにもならない」
「では?」
「ハンス殿が何を目的にしているのかだ」
そこでルーカスが口を挟んだ。
「考えられるのは、ソレイユ嬢自身に爵位を放棄させることだろうな」
「私に?」
「ああ。卒業後も王都に残るつもりだとか、領主になる意思がないとか、そういう話を先に領内へ広めておけば、あとから君が爵位を譲ると言い出しても不自然ではなくなる」
「言いませんよ」
「君が言わなくても、書類上そう見せる方法を探している可能性はある」
ソレイユの眉が寄った。
「それは駄目ですね」
「今さらそこか」
レオンが呆れた。
「最初から駄目なんだよ」
アマーリエは黙って話を聞いていたが、やがて例の手紙を指先で叩いた。
「それより、わたくしはここが気になるわ」
『王都にいらっしゃるソレイユ様への私信を固く禁じられておりました』
「どうして、あなたに領地の様子を知らせないようにする必要があるの?」
「勉強の邪魔をしないため、と言われていました」
「誰に?」
「叔父様に」
「その叔父様が、あなたへの手紙を止めていたのよね?」
「そうなりますね」
ソレイユは改めて考えた。
学院へ入ってから、領地から手紙が来ないことを不思議に思わなかったわけではない。ただ、叔父からは定期的に報告が届いていたし、そこには毎回、領内は平穏であること、収穫も例年並みであること、自分は学院の勉強に集中するようにと書かれていた。
父が亡くなってからまだ日が浅かったこともある。叔父なりに気遣ってくれているのだと思っていた。
「叔父様からは手紙が来ていました」
「残ってる?」
「はい」
「全部持ってきて」
「今から?」
「今すぐ」
「アマーリエ様、こういう時だけすごく侯爵令嬢ですね」
「どういう意味よ」
「命令が自然です」
「いいから行ってきなさい!」
ソレイユは素直に寮の自室へ戻った。
持ってきた手紙は、全部で十二通あった。
学院へ入ってから、ほぼ月に一度の割合で届いている。
それを五人で読み返すことになった。
「領内に異常なし」
ルーカスが一通目を読む。
「収穫は例年並み。税収にも大きな変化なし」
「二通目も同じだな」
レオンが言う。
「こっちは家畜に病気が出たが、すでに収束した、と」
「あ」
ソレイユが顔を上げた。
「何だ?」
「それ、どこの村です?」
「書いてない」
「変ですね」
「なぜ?」
「家畜の病気なら、どの村で何が出たか書くと思います。うちは村ごとに飼っているものが少し違うので」
レオンとルーカスが顔を見合わせた。
「他には?」
「これ」
アマーリエが一通を差し出す。
「春蒔きの作付けを一部変更したと書いてあるわ」
「どこを?」
「書いてない」
「何に?」
「それも書いてない」
「……叔父様、報告が雑ですね」
「今気づいたの!?」
アマーリエの声が響いた。
「だって、叔父様だから」
「理由になってないわよ!」
「私は領地経営の勉強を始めたばかりですし、こういうものなのかと」
「違う」
ルーカスがはっきり言った。
「少なくとも、当主へ送る報告としては情報が少なすぎる。平穏だ、問題ない、心配するなという結論だけで、その根拠がほとんど書かれていない」
「なるほど」
「なるほどじゃない」
今度はレオンだった。
「お前、自分の領地の帳簿は見てないのか?」
「学院に来てからは」
「収支報告は?」
「叔父様がまとめてくださっています」
「それはどこにある」
「領地では?」
レオンが天井を仰いだ。
「よく今まで無事だったな、この男爵家」
「父がいた頃はちゃんとしていましたよ」
ソレイユは少しむっとした。
父は帳簿をよく見ていた。収穫量や家畜の頭数だけでなく、どの畑の土が痩せてきたとか、どの水路を来年直すとか、そういう話を食卓でもしていた。
ソレイユ自身も、父について領内を回ったことがある。
ただ、それを領主の仕事として理解する前に父は亡くなった。
叔父が代理となり、自分は学院へ来た。
だから二年間だけ、任せればいいと思っていたのだ。
「……私、任せすぎましたか?」
初めて、少し弱い声が出た。
アマーリエが何か言いかける。
しかし先に答えたのはレオンだった。
「そうだな」
容赦がなかった。
「任せること自体は悪くない。代理なんだから仕事を任せるのは当然だ。でも、確認まで任せたら駄目だ」
「はい」
「ただ、お前が学院に入る前から仕組まれてたなら、十六の学生一人で全部見抜けっていうのも無茶な話だ。今分かったなら、今から調べればいい」
「……はい」
ソレイユは頷いた。
アマーリエがレオンを見る。
「あなた、たまにはまともなことを言うのね」
「俺を何だと思ってるんだ」
「商人」
「合ってるよ!」
少しだけ空気が緩んだ。
そこからは、調べるべきことを一つずつ洗い出した。
まず、学院へ来てからの領地の収支。
次に、ハンスが男爵代理として行った契約。
そして、イルゼがいつ頃から「次期女男爵」として扱われ始めたのか。
さらに、ソレイユに領主となる意思がないという話が、誰から、どの範囲まで広まっているのか。
「王都側から調べられるものは、僕が手伝おう」
ルーカスが言った。
「代理人名義で大きな契約を結んでいるなら、記録が残っている可能性がある」
「うちも当たってみる」
レオンも頷く。
「ベルナー商会はアイゼンフェルト領と直接の取引はなかったと思うが、周辺の商会とは付き合いがある。最近、あの辺りで妙な動きがなかったか聞ける」
「俺は?」
ディートリヒが尋ねた。
レオンは少し考えた。
「何もしないでくれ」
「分かった」
「素直だな」
「必要なら呼べ」
「何をさせるつもりか分からないけどな」
するとソレイユが言った。
「ディートリヒさんには頼みたいことがあります」
「何だ」
「馬を見てほしいです」
「馬?」
全員がソレイユを見る。
「手紙に家畜の病気が出たとありましたよね。もし本当に病気が出ていたなら、馬の売買にも何か影響があったかもしれません」
ディートリヒの目つきが変わった。
「なるほど」
「辺境伯領って軍馬をたくさん扱うんですよね?」
「ああ。血統の記録も売買の記録もある。周辺領から買い入れることもある」
「では、アイゼンフェルト周辺からの取引が変わっていないか見てもらえます?」
「分かった」
レオンが感心したようにソレイユを見た。
「お前、畑と家畜が絡むと急に頭が回るな」
「失礼ですね」
「褒めてる」
「そうですか?」
「半分くらい」
「アマーリエ様と同じこと言いますね」
「やめて。わたくしまで同類みたいでしょう」
「どういう意味だ」
「あなたは黙っていて、レオン」
「理不尽だな!」
調査には十日ほどかかった。
最初に結果を持ってきたのはディートリヒだった。
「病気は出ていない」
「え?」
「少なくとも、馬には」
彼が持ってきたのは、ファルケンハイン辺境伯家が把握している周辺地域の馬の取引記録だった。
アイゼンフェルト領から出荷される馬の数は、ここ数年ほとんど変わっていない。感染症が出れば一時的に移動制限がかかるはずだが、その形跡もなかった。
「牛かヤギだった可能性はありますけどね」
ソレイユは言った。
「馬も牛もヤギもいけるんだったな」
「はい」
「なら帰ったら調べればいい」
「そうします」
「……お前ら、本当に会話が家畜で成立するんだな」
レオンが呟いた。
そのレオンが持ってきた情報の方は、もっと気になるものだった。
「アイゼンフェルト領の穀物が、ここ一年で少しずつ別の商会へ流れてる」
「別の商会?」
「ああ。以前は地元の業者を通していたらしいが、最近になって王都の小さな商会が入り込んでる。しかも相場より少し安い」
「安く売っているんですか?」
「そう見える」
レオンは資料を指で叩いた。
「問題はここだ。この商会の代表者、ハンス殿の妻――ゲルダ夫人の親戚だ」
ソレイユの表情が消えた。
「叔母様の?」
「ああ」
「偶然では?」
「もちろん偶然かもしれない」
レオンは慎重だった。
「親戚だから信頼できる業者を紹介しただけ、という説明もできる。ただし、相場より安く領内の作物を買って、その商会が王都で通常価格で売っているなら、差額がどこへ行っているのかは確認した方がいい」
「領地に戻っていれば問題ありませんよね」
「そうだな」
「戻っていなければ?」
「横流しを疑う」
ソレイユはしばらく資料を見ていた。
怒鳴りもしなかった。
顔色も変えなかった。
ただ、指先が紙の端を少し強く押さえていた。
そして最後に、ルーカスが持ってきたものが決定的だった。
「これはまだ申請ではない」
そう前置きして、一枚の書類の写しを机へ置いた。
「下書きに近いものだ。正式に提出されてはいない」
そこには、ソレイユの名前があった。
「……私?」
「ああ」
内容は、学院卒業後も王都に残るため、当面のあいだ領地経営を男爵代理ハンスに一任する、というものだった。
それだけなら、まだ分かる。
問題はその次だった。
将来的には、領地経営に適性のある親族へ爵位および領地を譲渡する意思がある。
候補者として記されている名前は――イルゼ。
「私、こんなの書いてません」
「分かっている」
「署名も違います」
「だから、まだ正式書類としては使えない。印章もない」
ルーカスはソレイユの髪を見る。
そこにはいつもの簪がある。
「おそらく、最後に必要なのは君の署名と当主印だ」
室内が静かになった。
アマーリエが先に気づいた。
「だから……」
彼女の視線も簪へ向かう。
「当主印を、叔父様に預けてはいけなかったんですね」
ソレイユが言った。
父の遺言。
『当主印は、何があってもソレイユ本人が保管すること』
叔父にも、叔母にも、学院にも預けてはならない。
なぜ父がそこまで厳しく言ったのか。
今になって、ようやく分かってきた気がした。
「お父様は、ハンス殿を警戒していたのかもしれないな」
ルーカスが静かに言う。
「……そうかもしれません」
ソレイユは簪へ触れた。
父は叔父を男爵代理に指定した。
だが、それは信頼していたからとは限らない。
ほかに成人した近親者がおらず、学院へ通わせるためには代理人を置く必要があった。それでも万が一に備えて、爵位そのものを動かすために必要な当主印だけは、決して渡すなと娘に言い残したのかもしれない。
もっと早く気づくべきだった。
そう思った。
けれど同時に、父が最後まで自分を守る手段を残してくれていたことにも気づいた。
「ソレイユ」
アマーリエが呼ぶ。
「はい」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
今度は迷わず答えた。
「むしろ、やることが分かりました」
「帰るのか?」
ディートリヒが尋ねる。
「はい」
ソレイユは頷いた。
「叔父様と話します」
「一人で?」
アマーリエの声が鋭くなる。
「そのつもりでしたけど」
「駄目よ」
「なぜです?」
「なぜって……!」
アマーリエは立ち上がった。
「ここまでやっている相手のところへ、どうして一人で帰ろうとするのよ!」
「私の領地ですよ?」
「だからでしょう!」
ソレイユは目を瞬いた。
「あなたは当主なのよ。だったら、自分一人で全部背負うんじゃなくて、使えるものは使いなさい」
「使えるもの?」
「人よ」
アマーリエは自分を指した。
「わたくしも行くわ」
「えっ」
「俺も行く」
ディートリヒが即答した。
「お前は絶対そう言うと思った」
レオンが頭を抱える。
「ではレオンさんは留守番ですね」
「誰が留守番するって言った」
「来るんですか?」
「ここまで帳簿を見せられて、結果を確認しないで終われるか」
ルーカスも小さく息を吐いた。
「僕も同行しよう。正式な書類の扱いが必要になる可能性がある」
ソレイユは四人を見回した。
「皆さん、授業は?」
「数日なら届けを出せる」
「わたくしは侯爵家から話を通すわ」
「俺も辺境伯家に連絡する」
「俺は学生じゃないから一番自由だ」
レオンが胸を張る。
「そうでしたね」
「忘れてたのかよ」
忘れてはいない。
たぶん。
数日後。
学院の正門前には、二台の馬車が用意された。
出発の朝、ソレイユはいつものように髪をまとめ、簪を挿していた。
ただし荷物が少し多い。
アマーリエがそれを見て、嫌な予感を覚えた。
「ソレイユ」
「はい?」
「その長い包み、何?」
「鋤です」
「置いていきなさい」
「どうしてです?」
「今回は領地の相続問題を解決しに行くのよ!」
「畑も見ますから」
「今!?」
「せっかく帰るので」
「あなたは……!」
アマーリエが額を押さえる。
「鍬も?」
「あります」
「砥石は?」
「持ちました」
「なぜ聞いたの、わたくし……」
レオンが荷物を積みながら笑う。
「諦めろ、クロイツ嬢。こいつから農具を取り上げる方が難しい」
「笑い事ではないわ」
「ソレイユ」
ディートリヒが鋤の包みを受け取る。
「これは俺の馬車に積む」
「ありがとうございます」
「あなたも手伝わないで!」
「重いだろう」
「そういう問題ではないのよ!」
その横で、ルーカスだけが何とも言えない顔をしていた。
「アマーリエ」
「何?」
「君は……本当に行くんだな」
「行くわよ」
「人形も?」
アマーリエの腕には、金髪翠眼の人形がいた。
「もちろん」
以前なら、その問いに棘を感じたかもしれない。
けれど今は違う。
ルーカスも止めようとしているわけではないと分かっている。
「この子にも、ソレイユの畑を見せてあげたいもの」
「そうか」
「何よ」
「いや」
ルーカスは少し笑った。
「僕も見てみたいと思っただけだ」
アマーリエも、少しだけ笑った。
二台の馬車が王都を出る。
石造りの建物が少なくなり、やがて街道の両側に畑が増えていった。
ソレイユは窓の外を見ていた。
王都から離れるほど、景色の中に緑が増えていく。
春蒔きの麦。
牧草地。
芽吹き始めた果樹。
どれもアイゼンフェルトのものではない。
それでも、土の見える景色は落ち着いた。
「嬉しそうね」
向かいに座ったアマーリエが言う。
「分かります?」
「分かるわよ」
「もう少しです」
ソレイユは窓の外を見たまま答えた。
「丘を一つ越えたら、アイゼンフェルト領です」
アマーリエも外を見る。
「どんなところ?」
「田舎です」
「それは知っているわ」
「いいところですよ」
学院でイルゼに言ったのと、まったく同じ言葉だった。
けれど今度は、その声に少しだけ違う響きがあった。
「春は一面、緑になります」
ソレイユが言う。
「畑も牧草地も、丘も。風が吹くと、麦がずっと向こうまで波みたいに揺れるんです」
「綺麗ね」
「はい」
少し間を置いて、ソレイユは続けた。
「だから、ちゃんと帰らないと」
アマーリエは何も言わなかった。
ただ、膝の上の人形の翠の瞳を見てから、窓の向こうへ広がっていく若草の色へ目を移した。
同じ翠でも、まるで違う。
けれど、どちらも誰かが大切にしているものだった。
やがて馬車が丘を越えた。
「あ」
ソレイユが小さく声を上げる。
眼下に、広い農地が見えた。
遠くには小さな村。
さらにその向こうには、アイゼンフェルト男爵家の館がある。
「着きました」
ソレイユの顔がほころぶ。
「私の領地です」
その言葉は、学院で男爵位について説明した時よりも、ずっと自然だった。
けれど。
馬車が最初の村へ近づくにつれ、ソレイユの笑顔が消えていった。
「……おかしい」
「何が?」
アマーリエが尋ねる。
「畑です」
ソレイユは窓を開けた。
身を乗り出すようにして外を見る。
「止めてください」
御者に声をかけ、馬車を止める。
降りるなり、道端の畑へ向かった。
「ソレイユ?」
アマーリエたちも後を追う。
ソレイユは畑の端へしゃがみ込み、土を掴んだ。
指の間で崩す。
匂いを嗅ぐ。
少し離れた場所へ移動して、今度は麦を見る。
「何が違う?」
ディートリヒが尋ねた。
「痩せています」
「土が?」
「はい。それに、この作付け……」
ソレイユは周囲を見回した。
「去年もここ、麦だったはずです」
「それが?」
アマーリエには分からない。
「その前も麦でした」
ソレイユの声が低くなる。
「同じものばかり続けて作ったら、土が痩せます。父がいた頃は、ここは豆や飼料作物を挟んでいました」
手紙にあった言葉が蘇る。
『春蒔きの作付けを一部変更した』
どこを。
何に。
それは書かれていなかった。
「収穫量を増やしたかったのか?」
レオンが尋ねる。
「一時的には増えるかもしれません。でも続きません」
ソレイユは立ち上がった。
遠くまで続く畑を見る。
緑ではある。
確かに麦は育っている。
けれど、彼女が思い描いていた故郷の翠とは違った。
「これを誰が決めたのか、聞きます」
声から、いつもの呑気さが消えていた。
アマーリエは初めて見るような気持ちで、ソレイユの横顔を見た。
爵位を奪われかけていると聞いたときでさえ、彼女はあれほど平然としていた。
偽の書類を見せられても、冷静だった。
なのに。
痩せた土を見た途端、怒っている。
「ソレイユ」
「はい」
「怒っている?」
「はい」
即答だった。
「かなり」
アマーリエは一瞬黙り、それから頷いた。
「そう」
ソレイユは手についた土を払った。
「行きましょう」
「館へ?」
「はい」
道の向こうに、アイゼンフェルト家の館が見える。
そこには叔父ハンスと叔母ゲルダがいる。
そして今頃は学院にいるはずのイルゼも、先日から休暇を取って領地へ戻っていることが分かっていた。
次期女男爵として。
ソレイユは馬車へ戻る前に、もう一度畑を振り返った。
春の光を受け、若い麦が風に揺れている。
美しい景色だった。
だからこそ、その下で痩せ始めている土が、彼女には分かった。
「……勝手なことを」
ぽつりと呟く。
「爵位のこと?」
アマーリエが尋ねた。
「それもですけど」
ソレイユは答えた。
「畑のことです」
「そっちなのね」
「そっちも大事です」
「ええ。もう分かったわ」
アマーリエは小さく笑った。
けれど、その直後。
ソレイユが馬車の荷台へ手を伸ばしたので、笑顔が消えた。
「何してるの?」
「鋤を出そうかと」
「まだ早いわよ!」
「畑を見るなら――」
「まず叔父様と話しなさい!」
「はい」
しぶしぶ鋤から手を離す。
その様子を見ていたディートリヒが言った。
「あとで俺も見る」
「ぜひ」
「あなたも煽らないで!」
アイゼンフェルト領に、アマーリエの声が響いた。
こうして現当主は、ようやく自分の領地へ帰ってきた。
人形を抱く侯爵令嬢と、辺境伯家の長男と、商会の次男と、伯爵家嫡男。
そして、鍬と鋤を連れて。
◇◇◇
アイゼンフェルト家の館は、ソレイユが記憶していた姿とほとんど変わっていなかった。
灰色がかった石造りの二階建てで、正面には古い鉄製の門があり、その向こうには季節ごとの花を植えた小さな庭がある。王都の侯爵邸や伯爵邸と比べれば華美とは言えないが、領地の中心にある家としては十分に立派で、ソレイユにとっては幼い頃から見慣れた「家」そのものだった。
ただし、門の前へ馬車が止まった瞬間、彼女はすぐに違和感へ気づいた。
「……知らない使用人が増えていますね」
御者台から降りながら、ぽつりと言う。
玄関前に並んでいる使用人のうち、半数ほどは見覚えがない。父の代から仕えていた者もいるが、彼らは一様に緊張した面持ちで、ソレイユと目が合うとわずかに視線を伏せた。
代わりに前へ出てきたのは、年配の執事だった。
「お帰りなさいませ、ソレイユお嬢様」
その呼び方に、ソレイユの眉がわずかに動く。
「ただいま戻りました」
返事はした。
しかし続けて、
「叔父様はいらっしゃいますか」
「はい。応接室にてお待ちでございます」
「では、案内してください」
執事は一瞬だけためらったように見えた。
その様子を、レオンが見逃さなかった。
館へ入ると、さらにいくつか変わった点があった。
玄関ホールに掛けられていた先代男爵――ソレイユの父の肖像画が、以前より隅へ寄せられている。
中央には新しい絵が飾られていた。
ハンス、ゲルダ、イルゼの三人。
家族肖像画だった。
「……あら」
アマーリエが小さく声を漏らした。
ソレイユはしばらくそれを見ていたが、何も言わなかった。
今はまだ。
ただ、父の肖像の前へ一度だけ立ち、軽く頭を下げてから応接室へ向かった。
扉を開けると、三人が待っていた。
叔父ハンス。
叔母ゲルダ。
そして従姉イルゼ。
イルゼは学院で見るときと同じように、髪をきちんと整え、淡い色のドレスを着ていた。ただし、その胸元には見慣れない飾りがある。
アイゼンフェルト家の紋章を模したブローチだった。
「ソレイユ」
ハンスが立ち上がる。
「急に戻るとは聞いていなかったぞ」
「ご連絡はいたしました」
「前日では連絡とは言わん」
「そうですか」
ソレイユは礼をした。
「お久しぶりです、叔父様。叔母様。イルゼお姉様」
ゲルダは笑顔を作ったが、目元は硬かった。
「まあ、本当に帰ってきたのね。学院はどうしたの?」
「届けを出してあります」
「そう……」
そして、ソレイユの後ろへ視線を移す。
アマーリエ。
ルーカス。
ディートリヒ。
レオン。
四人を見た瞬間、三人の表情が目に見えて変わった。
「こちらは?」
ハンスが尋ねる。
ソレイユは順に紹介した。
「アマーリエ・フォン・クロイツ侯爵令嬢。こちらは婚約者のルーカス・フォン・エーレンハルト様。ディートリヒ・フォン・ファルケンハイン様。そしてベルナー商会のレオン・ベルナーさんです」
イルゼの目が見開かれた。
王都での人脈を大切にしている彼女なら、この名前が何を意味するかよく分かるだろう。
「皆さん、私の友人です」
ソレイユはそう言った。
それだけだった。
けれどイルゼの顔色が少し変わった。
「そう……」
ソレイユ本人だけが、その意味に気づいていない。
「それで、何のために帰ってきた」
しばらくして、ハンスが本題へ入った。
「学院を抜けてまで戻る事情があったのか?」
「はい」
ソレイユは例の手紙を机へ置いた。
「これをいただきました」
ハンスの顔から笑みが消える。
「誰からだ」
「父の代から仕えてくださっている方です」
「……私信を禁じたはずだ」
「なぜです?」
「お前の勉学を妨げないためだ」
「では、なぜ領内でイルゼお姉様が次期女男爵と紹介されているのですか?」
沈黙。
ゲルダが先に口を開いた。
「それは……将来の可能性としてよ」
「私、爵位を譲ると言いましたか?」
「あなたはまだ若いでしょう」
「それと関係があります?」
「領主というのは、畑仕事とは違うのよ」
その言葉に、ソレイユの表情が少し変わった。
「分かっています」
「本当に?」
ゲルダは穏やかに笑う。
けれど、その声には明確な見下しがあった。
「あなたは昔から、農民と一緒に畑へ入ってばかり。馬の世話をして、農具を磨いて、服だってろくに選ばない。学院でも同じなのでしょう?」
「そうですね」
「それで男爵家を治められると思っているの?」
「思っています」
即答だった。
ゲルダが言葉に詰まる。
「なぜなら、領地を治めるために必要なことは、綺麗なドレスを着ることではありませんから」
「ソレイユ」
ハンスが低い声で制した。
「叔母に対して口が過ぎる」
「申し訳ありません」
ソレイユは一度頭を下げた。
「ですが、間違ったことを申し上げたつもりはありません」
アマーリエが後ろで小さく息を吐いた。
学院で見せるソレイユと同じだ。
怒鳴らない。
侮辱もしない。
ただ、退かない。
ハンスは話題を変えるように、机の上の手紙を指で叩いた。
「確かに、イルゼを次期当主として紹介したことはある」
「なぜです?」
「お前が領地へ戻るか分からなかったからだ」
「戻るつもりだと、以前からお伝えしていました」
「子どもの考えは変わる」
「私は成人しています」
「学院に通っているうちは、まだ子どもだ」
「それは叔父様の感想ですね」
「ソレイユ!」
今度はゲルダが声を上げた。
しかしソレイユは動じない。
「正式な書類も見つかりました」
ルーカスが一枚の写しを机へ置く。
「こちらです」
ハンスの視線が鋭くなる。
将来的にソレイユが爵位を譲る意思を示す内容。
まだ正式に提出されていない下書き。
だが、存在している。
「これは何ですか?」
ソレイユが尋ねた。
ハンスは答えなかった。
代わりにイルゼが口を開いた。
「そんなに責めないで」
ソレイユがそちらを見る。
「イルゼお姉様」
「父は、あなたのためを思っていたのよ」
「私のため?」
「あなたが領主になれば、好きなことはできなくなるわ」
イルゼは真剣だった。
「畑へ出て、馬の世話をして、好きなように暮らすなんてできない。王都でだって、あなたはきっと笑われる。実際、学院でもそうでしょう?」
「笑われていますね」
「でしょう?」
「でも、困ってません」
イルゼが止まる。
「……何?」
「田舎者だと言われても、畑が好きなのは変わりませんし。馬の世話も好きです。厩舎で働いてますよ」
「働いて?」
「はい」
「学院で?」
「はい」
イルゼの顔に、心底理解できないという表情が浮かんだ。
「どうしてそんなことを平気で言えるの?」
「事実だからです」
「恥ずかしくないの?」
「何がです?」
今度はイルゼが答えられなかった。
アマーリエはそのやり取りを見ながら、少し昔の自分を思い出していた。
好きなものを持っていることを、人にどう見られるかばかり気にしていた頃。
イルゼは今、その価値観をそのままソレイユへ向けている。
「わたくしには分からないわ」
イルゼは言った。
「あなたが領主になって、何ができるの?」
その瞬間だった。
「畑を元に戻します」
ソレイユの声が変わった。
静かだが、はっきりしている。
「……畑?」
「ここへ来る途中で見ました」
ハンスの顔がわずかに動く。
「麦の連作を続けていますね」
「収穫量を上げるためだ」
「一時的には」
「実際、増えている」
「今年は、ですね」
ソレイユは叔父を見た。
「来年は?」
ハンスが黙る。
「その次は?」
「肥料を入れればいい」
「入れていますか?」
「……」
「どれくらい?」
「細かい数字は帳簿にある」
「では見せてください」
即答だった。
「今?」
「はい」
「帰ってきたばかりだろう」
「だから見たいです」
ハンスの眉間に皺が寄る。
ソレイユはさらに続けた。
「穀物の売却先も変えていますね」
今度はゲルダが反応した。
「何のこと?」
「叔母様のご親戚が関わっている商会です」
空気が固まる。
「相場より安く売っているそうです」
「……誰から聞いたの」
ゲルダの声が低くなる。
「調べました」
レオンが一歩前へ出る。
「ベルナー商会です」
ゲルダの顔色が変わった。
「もちろん、親族の商会と取引すること自体は問題じゃありません」
レオンは冷静だった。
「問題は、なぜ市場価格より安く売っているのか。そして差額がどこへ行っているのかです」
「侮辱ですわ!」
ゲルダが立ち上がる。
「私たちが横領しているとでも!?」
「まだそうは言ってません」
「同じでしょう!」
「だから帳簿を見せてください」
ソレイユが言った。
ゲルダが睨む。
しかし、答えない。
それだけで十分だった。
「帳簿は今、整理中だ」
ハンスが言った。
「明日見せる」
「今日では駄目ですか?」
「急に帰ってきて、何もかもすぐ見せろと言われても困る」
「叔父様は男爵代理ですよね」
「そうだ」
「では、当主が帳簿を見るのに準備が必要なのですか?」
また沈黙。
今度は長かった。
ソレイユはしばらく叔父を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「分かりました」
ハンスの表情が少し緩む。
「明日まで待ちます」
「そうしてくれ」
「ただし」
続ける。
「今から領内の帳簿、契約書、印章を使った書類類はすべて移動禁止にしてください」
「何?」
「処分も禁止です」
「ソレイユ」
「当主として命じます」
その言葉が、応接室へ落ちた。
ハンスの顔が硬くなる。
「お前は、まだ領地経営を――」
「男爵は私です」
「実務をしているのは私だ!」
ついにハンスが声を荒らげた。
その瞬間。
ソレイユは髪へ手を伸ばした。
簪を抜く。
ピンクがかった金髪が肩へ落ちる。
縦に割り、内側から指輪を取り出す。
それを右手の指へ嵌めた。
宝石に刻まれた、アイゼンフェルト男爵家の紋章。
「実務をお願いしていたのは、叔父様です」
ソレイユは言った。
「爵位をお願いした覚えはありません」
ハンスが言葉を失う。
「当主印……」
ゲルダが呟く。
イルゼも目を見開いていた。
「それ、持っていたの?」
「ずっと」
「どこに?」
「髪に」
「…………」
「父の遺言でしたから」
ソレイユは自分の手を見る。
久しぶりに指へ嵌めた当主印は、やはり少し邪魔だった。
でも今だけは仕方がない。
「ハンス・アイゼンフェルト男爵代理」
呼び方を変えた。
叔父ではなく。
役職で。
「ただいまより、領内の財務および契約に関するすべての権限を一時停止します」
「な……」
「帳簿と契約書の確認が終わるまでです」
「そんなことが許されると思っているのか!」
「当主ですから」
ソレイユは淡々と答えた。
「できます」
レオンが横で小さく頷いた。
ルーカスも何も言わない。
法的にも筋が通っている。
しかし、そのときだった。
「勝手なことを言わないで!」
イルゼが立ち上がった。
ソレイユが見る。
「イルゼお姉様」
「今さら帰ってきて、全部自分のものだと言うの?」
「私の爵位なので」
「そういう意味じゃない!」
イルゼの顔は赤くなっていた。
「父はずっとこの領地を守ってきたのよ。母だって家のために働いてきた。わたくしだって、そのつもりで教育を受けてきた!」
「知っています」
「あなたは学院へ行っただけじゃない!」
「父の遺言です」
「そうやって、何もしていないくせに!」
ソレイユの表情が止まった。
イルゼは勢いのまま続ける。
「父が領地を治めて、母が家を支えて、わたくしは次のために勉強した。それなのに、あなたは畑だの馬だの、好きなことばかりして!」
「……」
「どうして、そんなあなたが当主なのよ!」
室内が静まり返った。
ソレイユはすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくり口を開く。
「お姉様が、そう思っていたことは分かりました」
「何よ」
「でも」
ソレイユはイルゼを見る。
「それでも、爵位は私のものです」
「だから――」
「違います」
少し強く言った。
「正確には、私が預かっているものです」
イルゼが黙る。
「父から。さらにその前の当主から。そして、いつか次へ渡すために」
ソレイユは続けた。
「だから、自分が好きだから譲らないわけではありません」
少し間を置く。
「勝手に譲ってはいけないからです」
アマーリエが、静かにソレイユを見る。
彼女らしい答えだと思った。
王都の貴族らしい言い回しではない。
でも、領主としての言葉だった。
その夜から、館の空気は完全に変わった。
ソレイユの命令で、古くから仕える家令と会計担当者が呼び戻され、保管庫の帳簿と契約書類が封印された。
ハンスは強く反発したが、正式な当主印を持つソレイユの命令を覆すことはできなかった。
そして翌朝。
帳簿を開いたレオンが、一時間も経たないうちに言った。
「駄目だな」
「何がです?」
「色々」
机には数年分の帳簿が並んでいた。
「横領と断定できるほど単純じゃない。だが、親族商会への安値売却は事実だ。しかも、その商会からゲルダ夫人名義の口座へ定期的に金が戻ってる」
「……」
「それから、領地の収入の一部がイルゼ嬢の社交費と衣装代に流れてる」
アマーリエの眉が上がる。
「どれくらい?」
「聞かない方がいい」
「聞くわ」
「一年で、領内の小さな水路を二本直せるくらい」
ソレイユが黙った。
昨日見た痩せた畑を思い出す。
「水路……」
「ああ」
「去年、修繕予定だったところがあります」
「たぶん、それだ」
レオンが帳簿を指す。
「延期されてる」
理由。
『予算不足』
ソレイユの手が止まった。
「……そうですか」
声が低い。
レオンは少しだけ表情を引き締めた。
この娘が本当に怒るのは、やはり金を取られた時ではない。
領地そのものを傷められた時だ。
さらに調べると、連作による収穫量の増加を見込んで短期契約を結び、その数字を「ハンスの領地経営の成果」として周辺貴族へ示していたことも分かった。
一時的に収穫を増やし、イルゼを「実務能力のある家の娘」として売り込み、ソレイユが領主に向かないという話と組み合わせる。
そうして周囲から、
「それならイルゼへ継がせた方がよい」
という空気を作る。
法的に爵位を奪えなくても、ソレイユ自身へ放棄を迫る環境は作れる。
それが狙いだった。
「……分かっていたの?」
午後。
ソレイユはイルゼと二人で話した。
イルゼは窓際へ立っている。
「何を」
「領地のお金が、お姉様のために使われていたこと」
「……全部は知らないわ」
「では、何を知っていました?」
イルゼはしばらく黙った。
「父が、あなたを当主にするつもりはないこと」
「はい」
「学院を卒業したら、あなたには王都で暮らしてもらうと言っていたこと」
「私は聞いていません」
「聞けば断るでしょう」
「そうですね」
「だから……」
イルゼは唇を噛む。
「だから、言わなかった」
「それだけ?」
「……わたくしが次の女男爵になると言われていた」
ソレイユは頷いた。
「嬉しかったですか?」
「……ええ」
イルゼは正直だった。
「ずっと、あなたよりわたくしの方が相応しいと思っていたもの」
「そうですか」
「あなたは怒らないの?」
「怒っていますよ」
「見えないわ」
「怒鳴ると疲れるので」
イルゼは少しだけ笑いそうになり、すぐ顔を戻した。
「私は、あなたのことが嫌いだったわ」
「知ってました」
「……知ってたの?」
「なんとなく」
「なのに、何も言わなかった」
「言って変わるなら言いました」
「本当に嫌なところね」
「そうですか?」
「そうよ」
イルゼは窓の外を見る。
「でも」
小さく続ける。
「止めなかったのは、わたくしよ」
ソレイユは黙って聞く。
「父と母が何をしようとしているのか、全部ではないけれど分かっていた。それでも、わたくしが男爵になれるならと思った」
「はい」
「だから」
イルゼは振り返った。
「知らなかったことにはしないで」
その言葉だけは、まっすぐだった。
ソレイユも頷いた。
「分かりました」
最終的な処分は、その日のうちには決めなかった。
ハンスとゲルダが行ったことには、男爵代理権限の濫用と私的流用が含まれている。
ただし、領民を直接虐げたり、税を違法に引き上げたりしたわけではなかった。領地の経営そのものも完全に破綻してはいない。
ハンスには実務能力があった。
だからこそ、厄介だった。
「叔父様は、仕事はできるんですよ」
ソレイユが言うと、レオンが苦い顔をした。
「だから余計に質が悪い」
「そうですね」
「仕事ができるから、やっていいことと悪いことの境目を越えても誤魔化せると思ったんだろうな」
「でも」
ソレイユは帳簿を閉じた。
「仕事ができることと、家を乗っ取っていいことは別です」
「そこは本当にその通りだ」
ディートリヒが頷いた。
「うん」
今度ばかりはレオンも否定しなかった。
そして三日後。
ハンス、ゲルダ、イルゼの三人は、ソレイユの前へ呼ばれた。
広間には家令と主要使用人、領地の代表者もいる。
ソレイユはいつものように髪をまとめていた。
ただし、その日は簪ではなかった。
当主印は指へ嵌めている。
少し邪魔だった。
だが今は、これでいい。
「ハンス・アイゼンフェルト」
ソレイユは叔父を見た。
「本日をもって、男爵代理の任を解きます」
ハンスの顔が強張る。
「それから、叔母様とイルゼお姉様も含め、アイゼンフェルト家の領地運営および財産管理への関与を禁じます」
「待て」
「領内からは、一か月以内に退去してください」
「ソレイユ!」
ゲルダが叫ぶ。
「私たちを追い出すというの!?」
「はい」
「家族でしょう!」
「そうですね」
「なら!」
「家族だから、何をしてもいいわけではありません」
ゲルダが言葉を失う。
「私有財産までは取り上げません」
ソレイユは続けた。
「正当に得た個人資産も、そのまま持って行ってください。ただし、領地から不当に得た分は返還していただきます」
「どこへ行けというの」
「王都でも、別の土地でも」
「平民として暮らせと?」
「爵位をお持ちではありませんので」
「あなた……!」
「叔父様には帳簿と事務の経験があります。叔母様も家政管理がお得意です。イルゼお姉様は学院教育を受けています」
ソレイユは淡々と言った。
「働けると思います」
ゲルダの顔が真っ赤になる。
けれどハンスは何も言わなかった。
長いあいだソレイユを見つめ、やがて静かに目を閉じる。
「……分かった」
「あなた!」
「もういい、ゲルダ」
「でも!」
「負けたんだ」
その言葉に、ソレイユの眉が少し動いた。
「勝ち負けではありません」
「お前はそう思うだろうな」
ハンスは苦く笑った。
「だから、兄はお前に継がせたのかもしれん」
ソレイユは答えなかった。
イルゼは、最後まで静かだった。
退去の日。
玄関前で馬車へ乗る直前、ソレイユにだけ言った。
「王都へ行くわ」
「そうですか」
「働く」
「はい」
「……笑わないの?」
「なぜです?」
「わたくしが」
イルゼは少し言葉に詰まった。
「平民として働くなんて」
「働くの、いいですよ」
「あなたはそう言うと思った」
「厩舎なら紹介できます」
「絶対に嫌よ」
「そうですか」
久しぶりに、二人とも少しだけ笑った。
仲直りではない。
許したわけでもない。
ただ、最後まで憎み合わずに済んだ。
それで十分だった。
三人を乗せた馬車が遠ざかっていく。
ソレイユはしばらく門の前に立っていた。
アマーリエが隣に来る。
「終わったわね」
「はい」
「どう?」
「何がです?」
「気分」
ソレイユは少し考えた。
「畑を見たいです」
「今?」
「はい」
「……そう言うと思ったわ」
アマーリエはため息をついた。
「行きましょう」
「来るんですか?」
「ええ」
「泥ですよ?」
「知ってるわよ」
「その靴だと――」
「歩けるところまでよ!」
「分かりました」
その後ろからディートリヒが鋤を担いで現れた。
「持ってきた」
「ありがとうございます」
「なぜあなたが持ってるのよ!」
アマーリエの声が響く。
「畑へ行くんだろう?」
「だからって!」
さらにレオンが帳簿を抱えながら歩いてくる。
「畑を見る前に、明日の打ち合わせも――」
「あとでお願いします」
「おい!」
ルーカスだけが少し離れたところで笑っていた。
アイゼンフェルトの畑には、春の風が吹いていた。
ソレイユは土へしゃがみ込み、手で掬う。
まだ痩せている。
けれど、戻せる。
時間はかかる。
豆を挟み、飼料作物を戻し、堆肥を入れ、水路を直す。
すぐには元通りにならない。
それでも、土は死んでいない。
「どう?」
アマーリエが尋ねた。
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
ソレイユは土を握ったまま笑った。
「まだ、間に合います」
その言葉が、自分の領地だけを指しているのかどうか。
アマーリエには、少し分からなかった。
◇◇◇◇
叔父一家が領地を去ってから、アイゼンフェルトは少しずつ本来の姿を取り戻していった。
帳簿は整理され、水路の修繕計画が立て直され、無理のある連作も改められた。すぐにすべてが元通りになるわけではなかったが、ソレイユは焦らなかった。
土は、急かしても豊かにはならない。
水を入れ、休ませ、次に育てるものを考え、必要なら豆を植え、飼料作物を挟み、堆肥を入れる。農地を立て直すのは、誰かを言い負かすよりずっと時間がかかる。
だからこそ、ソレイユには向いていた。
「ここ、来年は豆にしましょう」
畑の端で土を握りながら言う。
「その次に麦を戻せば、今よりずっといいはずです」
隣でディートリヒが頷いた。
「水路も先に直した方がいいな」
「ですよね」
「こっちは?」
「牧草に戻したいです」
「牛を増やすのか」
「少しだけ」
「ヤギは?」
「増やしたいです」
「そうか」
二人の会話を少し離れたところで聞いていたレオンが、とうとう口を挟んだ。
「お前ら、本当にこれで会話が成立するんだな」
「何がです?」
「いや、もういい」
レオンは諦めた。
その隣では、アマーリエが日傘の下からこちらを見ている。
「ソレイユ!」
「はい?」
「泥のついた手で人形に触らないで!」
「まだ触ってませんよ」
「今から触りそうだったでしょう!」
「よく分かりましたね」
「分かるようになったのよ!」
アマーリエの腕には、いつもの人形がいた。
金髪に翠の目。
黒と濃紫のドレス。
一度折れた指は、今ではすっかり綺麗に直っている。
それでも、よく見ればほんの少しだけ継ぎ目が残っていた。
アマーリエはその小さな跡を、以前より好きになっていた。
壊れなかったから大切なのではない。
壊れても、直して、また一緒にいられたから大切なのだ。
そう思えるようになっていた。
◇
領地の一件を片づけて学院へ戻ってから、卒業までの日々はそれまでよりずっと穏やかだった。
アマーリエとルーカスは、以前よりよく喧嘩するようになった。
けれど、それは悪いことではなかった。
むしろ、言いたいことを言えるようになった証拠だった。
「ルーカス」
「何だ」
「この子も連れていくわ」
「分かった」
「本当に?」
「何度聞くんだ」
「だって前は嫌がったでしょう」
「前の僕は間違っていた」
「……そう」
「ただし」
「何よ」
「舞踏会の最中ずっと抱いていると、君が踊れない」
「それはそうね」
「その時だけ椅子へ座らせては?」
「……考えておくわ」
以前なら、そこでまた拗れていた。
今はちゃんと話が続く。
ソレイユはそれを見て、よかったと思った。
もっとも。
「お二人、ずいぶん仲良くなりましたね」
と口にして、
「今までだって仲は悪くなかったわ!」
とアマーリエに怒られたけれど。
◇
卒業が近づく頃、アマーリエは別のことにも夢中になっていた。
「ここ、もう少しレースを増やしたいの」
「重くなりません?」
「人形用だから大丈夫よ」
「でも小さい子が遊ぶなら、引っかけるかも」
「……そうね」
机の上には、人形用のドレスの試作品が並んでいる。
きっかけは些細なことだった。
ソレイユが人形とアマーリエの服を見比べて、
「これ、お揃いで売ったら可愛いですね」
と言った。
それだけだった。
アマーリエはしばらく黙ったあと、
「それよ」
と言った。
「何がです?」
「売るのよ」
「何を?」
「人形と、人形の服と、人間の服を!」
「全部?」
「全部!」
そこから話は急速に膨らんだ。
人形とお揃いのドレス。
人形だけでも買える。
服だけでも買える。
髪や瞳の色を選べる。
少し安いものも作りたい。
もっと安いものも。
そして、子どもが毎日抱いて遊べるものも。
「最高級はオールビスク」
アマーリエが言う。
「それは美術品に近いですね」
「ええ。次がコンポジションボディ」
「その下は?」
「布を多く使うわ」
「それなら軽いですね」
「でしょう?」
「破れても縫えますし」
「……それ、大事ね」
アマーリエが考え込む。
「小さい子って、抱いたまま寝ますよ」
「ええ」
「落とします」
「落とすわね」
「引きずるかもしれません」
「それは嫌だわ」
「でもしますよ」
「……するでしょうね」
そして、しばらくして言った。
「なら、そういう子のための人形も必要ね」
「はい」
「安いから可愛くないのは嫌」
「そこは大事ですね」
「でしょう?」
そこへ呼ばれたレオンが、試作品と帳面を交互に見た。
「……お前ら」
「はい?」
「いつの間にこんな話になった」
「昨日からです」
「昨日!?」
「レオン」
アマーリエが真顔で言った。
「原価を見て」
「俺は便利屋じゃないぞ」
「売れそう?」
「そこを先に聞け!」
結局、レオンはしっかり試算した。
そして数日後。
「……売れる」
とだけ言った。
アマーリエの目が輝いた。
「でしょう?」
「ただし、最初から三価格帯は無理だ。職人も必要だし、流通もいる。まず中級と普及品から始めろ」
「最高級は?」
「後回し」
「嫌」
「売れる前に潰れるぞ」
「……分かったわ」
「本当に?」
「たぶん」
「不安だな」
ソレイユは横で笑った。
アマーリエは、もう自分の人形を恥じていなかった。
それどころか、人形を好きな気持ちから、次の夢を作り始めている。
◇
卒業式の日。
ソレイユは式典用の制服を着ていた。
さすがに鍬も鋤も持っていない。
簪だけはいつものもの。
髪をまとめ、その先には当主印の宝石が小さく光っている。
「似合ってるじゃない」
アマーリエが言った。
「ありがとうございます」
「今日はちゃんと令嬢らしいわ」
「男爵です」
「分かってるわよ!」
卒業式くらい、最後まで直らないらしい。
アマーリエも、いつもの黒と濃紫の装いだった。
ただし前髪はきちんと整えられ、鮮やかな青い目がよく見えている。
人形もいる。
誰かが見ても、もう俯かない。
ルーカスはその隣に立っていた。
「卒業後はすぐ伯爵家へ?」
ソレイユが尋ねる。
「すぐではないわ。まず工房を探すの」
「工房?」
「人形の方よ」
「もう始めるんですか?」
「当然でしょう」
「早いですね」
「思いついたら動くのよ」
ソレイユが笑う。
「アマーリエ様、変わりましたね」
「あなたに言われたくないわ」
「褒めたんですけど」
「分かってるわよ」
その横でルーカスが小さく笑った。
さらに向こうでは、レオンが誰かと商談している。
卒業式の日まで仕事をしているらしい。
そしてディートリヒは。
「ソレイユ」
「はい?」
「話がある」
「何です?」
珍しく少しだけ真面目な顔をしていた。
「あとでいい」
「今では駄目なんですか?」
「……今でもいい」
「どっちです?」
「どっちでもいい」
「変ですね」
「お前に言われたくない」
ソレイユは首を傾げた。
その様子を見ていたレオンが、遠くからため息をついた。
◇
卒業後。
ソレイユはアイゼンフェルト領へ戻った。
正式に自分の手で領地経営を始めるためだ。
叔父一家が抜けた穴は小さくなかった。
ハンスには実務能力があった。
だからこそ、代わりを整えるのには時間がかかった。
けれど、ソレイユは一人で全部やろうとはしなかった。
会計に強い者には帳簿を任せる。
農業に詳しい者とは一緒に畑を見る。
水路には職人を呼ぶ。
売買のことはレオンにも相談する。
そして危険な現場や、力のいる仕事になると――なぜかディートリヒがいた。
「また来たんですか?」
「ああ」
「辺境伯領は?」
「弟がいる」
「そうでしたね」
「俺がいない方が静からしい」
「そんなことあります?」
「あるらしい」
そこでディートリヒは少し黙った。
「それで」
「はい」
「前に話があると言っただろう」
「言ってましたね」
「覚えてたのか」
「はい」
ソレイユは土のついた手袋を外した。
「何です?」
ディートリヒは少し考えた。
言葉を選ぶのが得意ではない。
だから結局、そのまま言った。
「俺、婿に来てもいいか」
「……はい?」
「弟が家を継ぐ」
「はい」
「俺は継がない」
「はい」
「お前はアイゼンフェルトを継ぐ」
「もう継いでます」
「そうだった」
「それで?」
「だから」
ディートリヒは真っ直ぐソレイユを見る。
「結婚するなら、俺が来る方が都合がいい」
ソレイユはしばらく黙った。
「それ、求婚ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「こういうのは慣れていない」
「私もです」
しばらく二人で考える。
「でも」
ソレイユが言った。
「ディートリヒさんと一緒だと、楽しいです」
「俺もだ」
「馬の話もできますし」
「ああ」
「農具の話も」
「ああ」
「力仕事も頼めます」
「任せろ」
「じゃあ」
ソレイユは少し笑った。
「考えてみます」
「分かった」
「今すぐ決めなくていいんです?」
「いい」
「そうですか」
「ああ」
そこで会話は終わった。
翌週。
レオンが領地へ来たとき、その話を聞いて頭を抱えた。
「お前ら、本当にそれでいいのか?」
「何がです?」
「求婚だよ!」
「ちゃんとされましたよ」
「『婿に来てもいいか』が!?」
「分かりやすいでしょう?」
「ディートリヒ!」
「何だ」
「お前も何か言え!」
「ソレイユに伝わった」
「そういう問題じゃねえ!」
相変わらず、レオンは忙しかった。
◇
一方、王都では。
アマーリエのドレスメーカーが立ち上がっていた。
最初に売れたのは、人形とお揃いの小さなドレスだった。
次に、人間用。
そして人形本体。
中級のコンポジションボディは、富裕商人や中級貴族の家で人気になった。
布を多く使った普及ラインは、それまで人形を贅沢品だと思っていた家庭にも届いた。
軽い。
抱きやすい。
壊れにくい。
そして、ちゃんと可愛い。
「普及品だからって、顔を雑にするのは絶対に嫌」
アマーリエは何度もそう言った。
「でも工程を増やすと値段が上がるぞ」
レオンが言う。
「分かってるわ」
「なら」
「ここは削れる。でもリボンは残す」
「なんでだよ」
「可愛いからよ」
「原価の話してるんだぞ」
「可愛くない人形を安くして、誰が欲しがるの?」
レオンが黙る。
「……正しいな」
「でしょう?」
そして最高級ライン。
オールビスク。
これは少し遅れて始まった。
完全受注生産。
髪や瞳、衣装まで選べる。
人形そのものが、美術品として扱われるようになった。
やがてアマーリエの工房は、王都でも名の知れた店になった。
人形を抱いて歩くだけで「気味が悪い」と言われた少女が、今では人形の流行そのものを作っている。
◇
さらに数年後。
アマーリエは久しぶりにアイゼンフェルト領を訪れた。
「変わってないわね」
馬車を降りて最初に出た感想がそれだった。
館も。
空気も。
土の匂いも。
ただ、畑は以前よりずっと豊かになっている。
春の緑が、風に揺れていた。
「ソレイユは?」
「畑です」
使用人が答える。
「やっぱり」
アマーリエはため息をついた。
黒と濃紫のドレス。
レース。
フリル。
少し大人になっても、好みは変わっていない。
前髪だけは、もう目を隠していなかった。
「行くわ」
畑へ向かう。
遠くにソレイユが見えた。
麦わら帽子。
腕まくり。
鍬。
「…………」
こちらも変わっていない。
「ソレイユ!」
手を振る。
「あ!」
ソレイユも気づいた。
「アマーリエ様!」
走ってくる。
「走らなくていいわよ!」
「久しぶりです!」
「元気そうね」
「はい」
「ディートリヒは?」
「向こうで水路を見てます」
「本当に婿に来たのね」
「はい」
結局、ソレイユはあの求婚を受けた。
ディートリヒは辺境伯家の家督を弟へ譲り、アイゼンフェルトへ婿入りした。
領主はソレイユ。
ディートリヒは軍事や領内警備、危険な現場を引き受ける。
妙にうまくいっているらしい。
「それで」
アマーリエは周囲を見る。
「例の子は?」
「いますよ」
「どこ?」
「あそこです」
ソレイユが指した。
畑の端。
大きな木の下。
籠の中に、金髪翠眼の人形が座っていた。
「…………」
アマーリエは黙った。
数年前。
卒業してしばらくしてから。
人形工房を本格的に始めると決めた頃、アマーリエはこの古い人形をソレイユへ託した。
捨てたわけではない。
必要なくなったわけでもない。
今でも大切だった。
だからこそ。
自分が初めて、自分で選んだ友人へ預けた。
あの子なら、大切にしてくれると思ったから。
「……ソレイユ」
「はい?」
「なぜ畑にいるの」
「一人でお屋敷に置いておくの、寂しいでしょう?」
「人形よ?」
「友達でしょう?」
「…………」
言い返せなかった。
「ちゃんと日陰です」
「泥は?」
「つけてません」
「直射日光は?」
「避けてます」
「雨が降ったら?」
「すぐ連れて帰ります」
アマーリエは人形の前へしゃがんだ。
金髪は少しだけ年月を重ねている。
翠の目は変わらない。
寝かせれば、今でも静かに目を閉じる。
そして木製の指には、よく見れば昔の修復跡が残っていた。
「……大切にしてる?」
「もちろんです」
「そう」
アマーリエは少し笑った。
「なら、いいわ」
そのとき。
「ソレイユ!」
遠くからディートリヒの声がする。
「鋤はどこだ!」
「あ、その子の横です!」
「あった!」
アマーリエが勢いよく立ち上がった。
「人形の横に鋤を置くんじゃないわよ!!」
畑いっぱいに声が響いた。
ソレイユが笑う。
遠くでディートリヒが首を傾げる。
「駄目なのか?」
「駄目よ!」
「そうか」
「あなたも相変わらずね!」
アマーリエの声は、もう誰の目も気にしていなかった。
黒いドレスの裾が風に揺れる。
その向こうで、ソレイユの畑も一面の翠に波打っていた。
翠の瞳を持つ人形と。
春の大地に広がる翠。
二つの夢は、ずいぶん違う形をしていた。
けれど、どちらも大切に育てられ、今もちゃんと続いている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『悪役令嬢人形譚』第二幕、
「侯爵令嬢と男爵の翠の夢」でした。
人形は、自分から誰かの人生を変えることはありません。
けれど、人が迷い、立ち止まり、それでも何かを選ぼうとするとき。
ずっとそこにあるものが、ほんの少しだけ違って見えることがあります。
今回の「翠の夢」も、そんな物語のひとつです。
前作とはまた違う二人と人形の物語を楽しんでいただけましたら幸いです。
評価や感想をいただけましたら、これからの『悪役令嬢人形譚』を紡いでいく励みになります。
また、次の人形の物語で。




