プロローグ 白紙のページ
その本には、呪文がひとつも書かれていなかった。
古い革表紙の本だった。
角は擦り切れ、留め金には小さな傷がいくつも走っている。長い旅に連れ回されたものだけが持つ、くたびれた静けさがあった。
表紙の中央には、薄く掠れた銀の文字で、こう刻まれている。
――白紙の魔導書。
けれど、その名に反して、本の中身は魔導書らしくなかった。
炎を呼ぶ式も、風を編む紋も、星を落とす禁呪もない。
古代語で書かれた契約文も、魔法陣の図解も、術者の血で封じられた頁もない。
あるのは、旅の記録だけだった。
今日、先生は朝食のパンを三口残した。
理由は「硬いから」ではなく、昨日覚えたはずのバターの塗り方を忘れていたから。
パンを裂く前に塗るのだと説明すると、先生は少しだけ目を丸くした。
それから、まるで初めて知った世界の法則のように、慎重に頷いた。
今日、先生は港町の子どもに花の名前を尋ねられ、答えられなかった。
花はカモミール。
昨日、先生が「陽だまりの匂いがする」と言った花だ。
記録しておく。
先生は花の名を忘れても、匂いを気に入ったことは覚えているようだった。
今日、先生は魔法を使わなかった。
それが、今日いちばん良かったことだと思う。
細かな字だった。
書いた者の性格が分かるような、几帳面で、少しだけ神経質な文字。
行の端は揃えられ、日付の下には必ず天気が記されている。食事の味、宿の値段、道のぬかるみ、魔物の痕跡、先生と呼ばれる誰かの表情の変化。
時折、文字の線が乱れている頁もあった。
雨に濡れたのか、あるいは書き手の手が震えたのか、インクが滲んで読めない箇所がある。
その頁には、こう書かれていた。
先生が、僕の名前を忘れた。
その一行だけが、何度も書き直された跡を残していた。
先生が、僕の名前を忘れた。
先生が、僕のことを忘れた。
先生は、僕を見て「あなたはどなたですか」と言った。
その下に、長い空白がある。
何を書こうとして、書けなかったのだろう。
次の行には、かすれた文字でこう続いていた。
でも、手は伸ばしてくれた。
名前を忘れても、僕が大切だということだけは、残っていたのかもしれない。
残っていてほしい。
そうでなければ、僕は今日をどう記録すればいいのか分からない。
本の頁は、そこで一度途切れている。
その先には、まだ何も書かれていない白紙が続いていた。
白紙。
それは欠落の色だった。
忘却の色だった。
かつてあったものが焼け落ちたあとに残る、灰に似た色だった。
けれど同時に、それは未来の色でもあった。
まだ誰の涙も落ちていない頁。
まだ誰の名前も失われていない頁。
まだ、どんな旅路も書き込める場所。
その本は、長いあいだ閉じられていた。
旅の鞄の底で、火打ち石や乾いたパンや薬草の包みと一緒に揺られながら、いくつもの町を越えた。潮風の匂いを吸い、森の湿気を含み、雪山の冷たさに革表紙を固くした。
何度も開かれた。
何度も閉じられた。
何度も、誰かの震える指に支えられた。
そしていつも、最初の頁だけは空白のままだった。
そこに何を書くべきか、書き手には分からなかったからだ。
旅の始まりを書くべきなのか。
魔女が勇者を忘れた朝を書くべきなのか。
それとも、勇者がすべてを知りながら、彼女のために世界中へ小さな記憶の欠片を隠していった日々を書くべきなのか。
分からなかった。
だから、最初の頁は白紙のまま残された。
いつか先生自身がそこに何かを書く日が来るかもしれない。
あるいは、最後まで何も書かれないかもしれない。
それでもよかった。
白紙とは、まだ終わっていないということだから。
世界が魔王から救われて、三十五年が過ぎた。
かつて焦土だった平原には、背の低い草が戻った。
崩れた街道の脇には小さな宿場ができ、荷馬車の車輪が朝露を踏んで進むようになった。瘴気に沈んでいた森では鳥が巣を作り、焼け落ちた港では魚市が開かれた。
世界は、完全に癒えたわけではない。
魔王軍が通った古い道には、今も黒い石が点々と残っている。夜になると、廃墟の窓に誰もいない灯りがともることがある。地下水脈には瘴気が沈み、山脈の雪はときおり青く濁った。
それでも人は暮らしていた。
壊れた橋に板を渡し、折れた鐘楼に新しい鐘を吊るし、呪われた畑を耕し直した。
パンを焼き、靴を直し、子どもの背丈を柱に刻んだ。
戦争で失われたものを数えるだけでは、一日は始まらないからだ。
朝になれば火を起こす。
腹が減れば鍋をかける。
誰かが帰ってくれば、扉を開ける。
そうやって世界は、少しずつ生き直していた。
だが、世界を救った者たちの名は、いつしか物語になった。
勇者アルディス。
折れぬ剣を持ち、魔王の玉座まで辿り着いた人間の英雄。
戦士グラム。
百の魔物を薙ぎ払い、最後まで仲間の盾であり続けた老ドワーフ。
名も残らぬ神官、弓手、斥候、兵士たち。
彼らの死は土地ごとの歌になり、祭りの夜に火のそばで語られた。
そして、忘却の魔女ルミナ。
もっとも強く、もっとも静かで、もっとも多くを失った魔女。
吟遊詩人たちは彼女を美しく歌った。
銀の髪が星のように燃え、白い魔法が魔王を消し去ったのだと。
彼女は世界のために最愛の記憶を捧げたのだと。
勇者との愛を忘れてなお、気高く微笑んだのだと。
歌は、嘘ではなかった。
けれど、真実でもなかった。
歌は知らない。
世界を救った翌朝、ルミナが勇者の名を尋ねたことを。
勝利の宴で、彼女が自分の席を忘れて戸口に立ち尽くしていたことを。
祝福の花束を受け取りながら、なぜ胸が痛むのか分からず、困ったように笑っていたことを。
歌は知らない。
アルディスがその後、二十年をかけて世界を旅したことを。
彼は英雄の凱旋を好まなかった。
王都の勲章も、豪奢な屋敷も、広場に立つ像も断った。
ただ、旅に出た。
誰にも告げず、あるいはほんの数人にだけ別れを告げて。
魔王討伐の傷は、彼の身体に深く残っていた。長く歩けば熱が出た。雨の日には古傷が開いた。剣を握る手は、ときどき痺れて動かなくなった。
それでも彼は歩いた。
港町へ。
星降る森へ。
歯車の街へ。
忘れられた街道へ。
地下迷宮都市へ。
雲海を抱く山脈へ。
黄昏色の湖底遺跡へ。
彼は訪れた土地に、小さな楔を隠した。
星屑の楔。
掌に収まるほどの、淡く光る記憶の器。
そこには、彼とルミナがかつて共に見た景色、交わした言葉、忘れられてしまった日々の欠片が封じられていた。
ただし、それは英雄譚ではなかった。
魔王との戦いの記録でもない。
世界を救うための作戦でもない。
後世に残すべき偉大な言葉でもない。
雨宿りの森で、アルディスが不器用に外套を広げた記憶。
港町の屋台で、ルミナが熱い包み揚げを頬張り、無表情のまま少しだけ目を輝かせた記憶。
雪山で昼食をめぐって喧嘩した記憶。
安宿の狭い部屋で、誰かの寝言に全員が笑いをこらえた記憶。
朝のパンが思ったより美味しくて、旅立ちが少し遅れた記憶。
そんなものばかりだった。
なぜなら彼は、知っていたからだ。
人は、偉大な瞬間だけで生きているわけではない。
世界を救った日のことより、雨の中で差し出された手の温度が、その人を明日へ連れていくことがある。
運命を変える言葉より、朝食の湯気の向こうで交わしたくだらない会話が、失われた心をつなぎとめることがある。
アルディスは、ルミナに英雄譚を思い出してほしかったのではなかった。
彼女に、もう一度世界を好きになってほしかった。
自分を愛していた過去を取り戻してほしいと、願わなかったわけではない。
そんなに強い人間ではなかった。
思い出してほしい夜もあった。
どうして自分だけが覚えているのかと、眠れない夜もあった。
目の前の彼女が穏やかに「どなたですか」と尋ねた朝のことを思い出し、胸が潰れそうになる日もあった。
それでも彼は、楔を隠した。
自分のためではなく。
過去のためだけでもなく。
いつか、彼女が旅に出る日のために。
いつか、彼女の隣に、自分ではない誰かが立つ日のために。
その誰かが彼女の忘却を責めず、喪失を嘆くだけでもなく、失われた記憶の代わりに新しい一日を記してくれることを願って。
アルディスは最後の楔を、故郷の丘に埋めた。
名もない樫の木の下だった。
春には若葉が風に鳴り、夏には木陰が涼しく、秋には実が落ち、冬には枝だけになって空を抱く。
特別な場所ではなかった。
だからこそ、彼はそこを最後に選んだ。
特別ではない日々こそ、彼女に返したかったものだったからだ。
その日、アルディスは丘の上に長く座っていた。
風が草を撫でていく。
遠くの村から、焼き立てのパンの匂いが届いた。
誰かが鍋を叩く音がした。子どもが笑う声がした。
彼は震える手で、最後の手紙を書いた。
何度も書き直した。
言いたいことは多すぎた。
謝りたいことも、願いたいことも、伝えたい愛も、多すぎた。
けれど、長い手紙は最後には短くなった。
君が俺を思い出さなくてもいい。
昔の俺たちは、忘れてもいい。
ただ、君の新しい旅が楽しかったなら、俺はそれでいい。
そこまで書いて、彼は少し笑った。
涙は出なかった。
涙はもう、長い旅のどこかで使い切ってしまったのかもしれない。
かわりに彼は、まだ白いままの紙の端に、ひとつだけ余白を残した。
そこに、ルミナがいつか何かを書き足せるように。
さらに十五年が過ぎた。
勇者アルディスは、もうこの世にいない。
彼の死は静かなものだったという。
戦場でも、王宮でも、民衆の前でもなかった。
旅の終わりに戻った故郷の村で、朝の光の中、窓辺に置かれた椅子にもたれて眠るように息を引き取った。
その膝には、開きかけの手記があった。
最後の頁は破られていた。
誰が破ったのか。
なぜ破られたのか。
どこへ消えたのか。
それを知る者は、ほとんどいない。
ただ、古い図書館の奥で、老司書オルタだけが、その手記の写しを守り続けていた。
そして今。
長い時を経て、ひとりの少年がその図書館を訪れようとしていた。
少年の名は、シオン。
魔法を使えない。
けれど、一度見聞きしたことを決して忘れない。
本の頁の染み。
階段の軋む順番。
人の声の震え。
料理に入っていた香草の種類。
誰かが嘘をつく前に、ほんの一瞬だけ目を逸らす癖。
彼は何も忘れない。
忘れられないということが、祝福なのか呪いなのか、まだ答えを知らない年齢だった。
その日、図書館の窓には薄い雨が当たっていた。
シオンは濡れた外套を脱ぎ、腕に抱えた白紙の本をそっと抱え直した。
まだ何も書かれていない本。
これから誰かの旅を書き留めるための本。
彼は知らない。
その本が、やがて魔導書と呼ばれるようになることを。
呪文の代わりに、食事の味や、忘れた名前や、泣きそうな微笑みを記すことになることを。
彼は知らない。
自分がこれから出会う魔女が、世界を救った人でありながら、朝食の手順を忘れてしまう人だということを。
花の名前を忘れても、花を美しいと思う心だけは失っていない人だということを。
そして、彼はまだ知らない。
いつか自分自身の名前さえ、その人の中から消えてしまう日が来ることを。
それでも彼は、図書館の扉を開けた。
古い紙の匂いがした。
雨の匂いがした。
遠くで、誰かが頁をめくる音がした。
図書館の奥。
高い書架の影に、銀の髪の魔女が立っていた。
彼女は一冊の本を見上げていた。
自分が何を探しているのかも、もしかすると忘れてしまったような顔で。
白と灰青の旅装束。
色素の薄い瞳。
静かな横顔。
その髪の毛先だけが、星屑のように微かに光っていた。
シオンは息を止めた。
老司書オルタが、彼の隣で小さく呟いた。
「あの方が、ルミナ様だ」
忘却の魔女。
世界を救った人。
世界に忘れられない傷を残し、自分自身の大切な記憶を失った人。
ルミナはゆっくりと振り向いた。
その瞳が、シオンを見た。
知らない人を見る目だった。
けれど、拒む目ではなかった。
「あなたは」
彼女は静かに言った。
「どなたですか」
シオンは胸元の白紙の本を強く抱きしめた。
なぜだろう。
その問いを聞いた瞬間、彼は思った。
この人のことを、記録しなければならない。
失われていくものを、ただ惜しむためではなく。
この人がこれから得るものを、ひとつも見逃さないために。
シオンは深く息を吸った。
そして、まだ何も書かれていない本を開いた。
最初の頁は白紙だった。
雨音が、静かに図書館を満たしていた。
そこから、物語は始まる。




