7話「スライムのお約束」
武器屋での騒動から数時間後。俺はアテナと別れ、冒険者ギルドの講堂へと足を向けていた。初心者向けの「ガイダンス・クエスト」が今日行われると聞いたのだ。同じ、初心者でも、上級職のアテナは高ランク冒険者による個人指導。一方、初級職の俺はグループガイダンスだ。スタートラインの時点で既に差が出ている。世知辛い話だ。
ギルドの裏手に広がる講堂は、木造りの大部屋だった。壁には古びた盾や槍が掛けられ、床には踏み慣らされた土の匂いが漂う。まだ朝の涼しさが残る時間帯なのに、すでに汗の匂いが混ざっていた。
中へ入ると、十数名の若者が集まっていた。ほとんどが男だ。だが、どこか緊張感がなかった。椅子にだらしなく座り、剣を杖代わりにして顎を乗せ、配られた資料を丸めて膝に置いている。
「なあ、これって参加したら冒険者としての活動実績になるんだよな?」
「なるなる。ギルドに言われて来ただけだし」
「俺なんか今月で二回目だぜ」
俺はそいつらの会話を聞きながら、内心でツッコミを入れた。ガイダンス・クエストは冒険者への輝かしい第一歩じゃなかったのか。なのに、どう見ても、「とりあえず出席しとくかみたいな」空気感。緊張した表情で剣を抱えている者もいるが、そいつらは極少数。
そして、その若者だらけの一団の中に、一人だけ明らかに年齢のおかしい男がいた。
四十歳くらい。日に焼けた顔。少し腹の出た体。新品の革鎧だけ妙にぴかぴかしている。
膝の上には剣。その横には、なぜかパンの入った籠。なんだ、この人。俺が空いている椅子へ座ると、その中年男が待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「おう、そこの兄ちゃん! 初参加か?」
話しかけるときの距離の詰め方が妙に自然だった。
「あ、ああ。新人だよ。名前はシンジ」
「俺はワルツ。よろしくな!」
ものすごく力強く手を差し出された。握る。痛い。無駄に握力が強い。
「ワルツさんは……戦闘経験とかあるんですか?」
「ない!」
即答だった。清々しいくらいないらしい。
「じゃあ、今までは何を?」
「パン屋だ」
「パン屋?」
思わず聞き返した。ワルツは胸を張った。
「二十二年だ」
長え。むしろそっちの方がベテランじゃねえか。
「じゃあ……なんで冒険者に?」
その瞬間、ワルツの表情が変わった。遠くを見る。講堂の壁ではなく、その向こうにある何かを見る目だ。
「俺さ……ある日、気づいちまったんだ」
「ええと、何に?」
「俺の人生、このままパン焼いて終わっていいのかって」
急に重い話が始まった。中年の危機というやつか。
「朝の四時に起きて、小麦粉こねて、窯に火入れて。昼までパン売って、夜は翌日の仕込み。毎日毎日それだ」
「いや、立派な仕事じゃないですか」
「そういう話じゃない!」
いきなり怒鳴られた。周囲の新人がちらっとこちらを見る。ワルツは拳を握った。
「俺はもっと何かできるはずなんだ。もっとこう……でかいことが!」
「でかいこと」
「英雄とか!」
四十歳の中年パン屋が、真顔で言った。
「……ちなみに家族は?」
「妻と娘だ」
「家族いるの!? パン屋は!?」
「弟子に任せた」
「急だな!」
ワルツは鼻を鳴らした。
「妻にも猛反対されたさ。『四十にもなって何言ってるの』ってな」
そりゃ言うだろ。
「娘なんて泣きながら、『パパ、お願いだから普通にパン焼いてて』だぞ?」
「めちゃくちゃまともな娘さんじゃないですか」
「でも俺には分かる」
ワルツは静かに剣の柄を握った。
「これは俺の人生の第二章なんだ。俺はこれから何者かになれる。きっとなるんだ」
なんだろう。言ってることは割と切実なのに、どうしてこんなに不安になるんだ。
そんな会話をしていたとき、講堂の空気が一変した。コツコツと硬い革ブーツの足音が響く。振り返った瞬間、男たちの喉が一斉に鳴った。褐色の肌。陽光を思わせる金の髪。
引き締まった脚に金属のガードルが輝き、胸元のプレートアーマーは体の線を描きながら鎧の重みを主張している。まるで闘技場の戦女神がそのまま降りてきたかのようだった。
男たちの値踏みする視線が、反射的に集まる。
「……すごい、美人じゃね?」「今日は当たりの日だな」
男たちがざわつく中、女騎士は冷徹な眼差しで全員を見回した。
「静かに。これより初心者クエストの説明を行う。私は指導役のカリスだ」
その声は澄んでいながら、どこか切れ味のある剣を思わせる。
「まずは質問だ。実戦で、魔物と戦った経験がある者はこの中にいるか」
誰も手を挙げなかった。三秒ほど経ってから、後方の男が恐る恐る手を上げた。
「……登録用紙には剣術経験ありって書きました」
カリスの視線が、その男に刺さる。
「ほう。どの流派だ?」
「流派?」
男はきょとんとした顔をした。
「……料理店で十二年、包丁を使ってました」
講堂が静まり返った。カリスは瞬きを一度した。
「もう一度聞く。剣術の経験は?」
「だから包丁です。毎日使ってました。魚も肉も捌けます」
「それを剣術経験として申告したのか?」
「受付の人に『刃物を日常的に扱っていたなら有りでいいですよ』って」
カリスがゆっくり天井を仰いだ。俺は思わず口を挟む。
「いや、それ剣士じゃなくて料理人だろ」
男は不満そうにこちらを見る。
「でも刃物だぞ?」
「ゴブリンを三枚に下ろす気かよ」
小さな笑いが起こった。男は少しむっとしながら続ける。
「だが肉の筋を見て、刃を入れる場所を判断するのは得意だぞ」
「急に実戦で役立ちそうなこと言うな!」
カリスは眉間を押さえた。
「……座れ。少なくとも今は、剣術経験なしとして扱う」
「包丁歴十二年なのに?」
「座れ!」
男は渋々腰を下ろした。俺はカリスの手元にある名簿をちらりと見た。剣術経験者――七名。嫌な予感がした。たぶん、この数字を信用しない方がいい。
「わかった。お前たちはルーキー。戦闘経験については問わない。だが、戦闘に備えて体を鍛えてきた者はいるだろう? 挙手してくれ」
カリスの大して期待していない声に、講堂は沈黙に沈んだ。手を上げる者は、俺を含めて誰一人いなかった。カリスの顎が震えた。怒りではない、失望だ。俺が言うのもおかしな話だが、こいつら何しに来たんだ。
「農作業でも何でもいい! 日常的に体を動かしている者!」
そこでワルツが勢いよく手を挙げた。
「はい!」
カリスの表情が少し明るくなる。
「おお。何をしていた?」
「パンをこねてました!」
「……パン?」
「毎日三十キロの生地をですよ! 腕力には自信があります!」
ワルツは誇らしげに両腕を曲げた。確かに妙に前腕が太い。カリスは数秒考えたあと、
「……まあ、いい。体は確かに使っているな」
「でしょう!」
なぜ勝ち誇る。
「俺はパン屋として二十二年間、基礎体力を培ってきた。それを今こそ戦場で――」
「座れ」
「はい」
カリスは眉間に手を当てて、深くため息をつく。多分、人生について考えている。
「今日は基礎中の基礎、初心者向けのクエストを選んでもらう。選択肢は二つ」
カリスは指を二本立てた。。
「スライム退治か、ゴブリン退治。多数決で決める」
言った瞬間、男たちの手が一斉に上がった。
「スライム!!」「スライムでお願いします!!」
ワルツまで即答で手を上げた。
「……理由を聞いても?」
カリスの目はすでに疑っている。
「えっと……なんか、スライムって、こう……ねばねばで……」「服とか溶けたり……?」
男たちは妙に目を輝かせている。カリスは口元を引きつらせ、深く、非常に深くため息をついた。そして。
「はぁ……全く……お前ら、最高だよ!」
皮肉と怒気が混ざりきった声が、講堂に響き渡った。
ギルドから湖までの道は、思った以上に重苦しかった。鼻を刺す刺激臭が風に乗って漂ってくる。生ゴミが腐ったような酸っぱい臭いと、油のような焦げた臭いが混ざり合い、鼻の奥がちくりと痛む。
「なあシンジ。あそこで漂ってるのって……」
「たぶん、湖からの匂いだな」
ワルツは顔を歪ませながらもも、前を歩き続けた。彼の背中から滲む汗の匂いと、風に乗る腐臭が混ざり合い、空気はひどく生温かい。
「ひどいな、これ」
湖が視界に入ると、俺は思わず顔をしかめた。
町の生活排水や処理されていない廃棄物がすべてこの湖に投げ込まれている。話には聞いたが、実際に見ると想像以上だった。空き瓶、腐った野菜、古びた布、家畜の死骸。それらが折り重なり、湖面には無数の「道」ができていた。まるでゴミの迷路だ。
「スライムはこういうところに大量発生する。汚水と腐敗物を栄養に増殖するからな」
カリスは説明しながら、腰の剣を軽く叩いた。
「くれぐれも一匹ずつグループで取り囲んで確実に仕留めろ。走り回るな。いいな?」
だが、男たちは聞いていなかった。
「見ろよ、カリスさんの脚……」「うお、太ももヤバ……」
「お前ら真面目に聞いてるのか!」
女騎士の怒号が響いたが、男たちの興奮は止まらなかった。そして、全員が一斉に走り出した。
「スライム狩りだぁぁぁ!!」
「あっ、馬鹿! やめろ、だから走るなと言っている!!」
カリスの声は虚しく、ゴミの迷路に吸い込まれていった。
「行くぞシンジ!」
「待てってば、ワルツ!」
「俺の伝説はここから始まるんだ!」
四十歳の中年が、十八歳くらいの若者たちと同じ速度でゴミの迷路へ突っ込んでいった。
その背中だけは妙に輝いていた。五分後。
「うわあああああ!! ズボンがああああ!!」
スライムたちは無秩序に見えて、意外と狡猾だった。男たちが突き進むと、スライムはぷるりと震え、道の奥へと誘導していく。
「なんか一本道になってきたぞ?」「お、おかしくねぇか……?」
ゴミの壁が左右に迫り、前方は袋小路。剣を振るおうと思っても、隣の冒険者に当たってしまう。後ろを振り返れば、シャコッと音を立てながらスライムが道を塞いでいた。
「う、うわああああ!!」「やめ、くるな!!」
とたんに粘液が飛び散り、男たちの服が次々と溶けていく。
「あっつ!? やばっ、鎧が溶ける!!」
「ちょ、ちょっと待って! ズボン! ズボンが!!」
悲鳴と絶叫が湖畔にこだました。粘液が安物の鎧を溶かし、男たちを裸に剝いていく。そしてワルツは、半裸で剣を構えながら叫んでいた。
「こんなの、俺が想像してた冒険と違う!!」
「何想像してたんだよ!」
「もっとこう、姫を助けるとか!」
「初心者講習だぞ!」
カリスの怒号が飛んだ。
「だから、お前ら私の命令を聞けと言ったのだ!」
半裸、いやほぼ全裸の男たちが泣き叫びながら、助けを求めている。ベテランのカリス教官でさえ目をそらしたくなる地獄のような光景。
俺はその混乱の中、黒いスライムの動きに目を奪われた。誰かが転び、剣先が石に当たった瞬間、火花が散った。黒いスライムが一瞬引いた。
「……あれ? 黒いやつだけ、火に近づかない?」
腰に吊ったランタンの炎を近づけると、距離を詰めてきた黒スライムがびくりと震えて離れた。油やタール系独特の匂いが鼻をついた。
「こいつら、中に燃えるものを溜め込んでるのか?」
だとすれば火を嫌うのは当然だ。
「……いける!」
俺はランタンを逆手に持ち、冒険者の基本スキルである《投石》の構えを取った。
「投石……応用!!」
ランタンを黒スライムめがけて投げつける。炎が爆ぜ、黒スライムは悲鳴のような振動を発した。同時に、ぱんっと音を立てて二つに分裂した。
「分裂した……! でも、弱ってる……!」
分裂したスライムは粘度が下がり、明らかに動きが鈍い。
「今だ! みんな、戦え!」
俺が叫ぶと、半裸の冒険者たちが鬨の声を上げ、一斉に武器を構えた。その中でワルツが、剣を天に掲げた。
「聞いたかお前ら!! シンジが突破口を開いたぞ!!」
いや、聞こえてるよ。
「ここからが俺たちの反撃だ!!」
なんでお前が指揮官みたいになってんだよ。
「俺たちはこんなところで死ぬために冒険者になったんじゃねえ!!」
「おおおおお!!」
なぜか周りも乗った。
「俺には妻がいる! 娘がいる! 店には弟子がいる! 俺達はこんな姿で死ねねえ!!」
全裸寸前だからな。
「生きて帰るぞおおおお!!」
「うおおおおお!!」
士気だけは異様に高まった。火の手が上がった黒スライムは逃げ惑い、その他のスライムも袋小路の端へ追い詰められていく。やがて。
「終わったぁぁぁぁ!!」
男たちの歓声が湖畔に響いた。
クエスト終了後。一同は近くの川で体についた粘液を洗い流していた。冷たい水が肌を刺すように流れていく。俺も川に手を浸しながら、長く息を吐いた。
「シンジ!」
振り向くと、そこにはワルツとカリスが立っていた。ワルツは、さっきまで全裸寸前で泣き叫んでいたとは思えないほど晴れやかな顔をしている。勢いよく肩を叩かれる。
「本当にありがとうな! お前のおかげで俺達、死なずに済んだ!」
「まあ……俺も必死だったから。たまたまうまくいっただけさ」
「いや、それだけじゃねえ」
ワルツは妙に真剣な顔になった。少しだけ視線を落とす。
「俺、正直なところさ。冒険者になれば、何かが変わると思ってたんだ」
俺は黙って聞いた。
「パン屋やって、家庭持って、毎日同じこと繰り返して。別に不幸だったわけじゃない。でも……俺、このまま何者にもならず終わるのかなって」
さっきまでの大袈裟さが消えていた。
「だから冒険者になった」
ワルツは苦笑する。
「で、初日から半裸ってわけか」
「ああ」
ワルツは川辺にいる新人たちを見た。破れた服を抱えながら笑っている者。傷を見せ合っている者。さっきまで知らなかった者同士が、もう名前を呼び合っている。
「死ぬかと思った。でも……悪くなかった」
ワルツが言った。そして俺を見る。
「少なくとも今日の俺は、昨日パンを焼いてた俺とは違う気がする」
「……パン屋のワルツも十分社会の役に立ってると思うけど」
「そういうこと言うな。パン屋に戻りたくなるだろ」
「戻れよ」
「戻らねえ!」
いつもの調子に戻った。その時、カリスが口を開いた。
「シンジと言ったか。今日は助かった。お前の機転がなければ、私は裸の野郎どもをまとめて埋葬する羽目になっていた」
ワルツが頷く。
「それは絵面がひでえな」
「お前もその一人になりそうだった」
「……はい」
カリスの目が少しだけ柔らいだ。
「お前には見どころがあるな」
余計な言葉はない。だが、その一言は妙に重かった。この世界に来てから、初めて自分の存在を現場の人間に認められた気がした。俺は水面を見つめ、静かに拳を握った。
「……ありがとうございます」
自分でも驚くほど素直な言葉だった。すると横でワルツが、
「教官殿。俺にも何か言葉は?」
と手を挙げた。カリスが見る。
「……お前はまず命令を聞け。あと家族に謝れ」
「どうして!?」
「四十歳で妻子を置いて冒険者になり、初日に全裸になった男に他に言うことがあるか?」
「全裸じゃない! 腰布は残った!」
「誤差だろ! そんなもん!」
俺が突っ込むと周囲から笑いが起きた。ワルツも笑った。少しだけ照れくさそうに。カリスは踵を返す。
「集まれ」
短い号令だったが、川辺に散らばっていた冒険者たちが自然と顔を上げた。裸に近い者。破れた装備を抱えた者。放心したままの者。誰一人、英雄の顔はしていない。
いや、ワルツだけは若干している気がするが、気のせいだろう。カリスは全員が集まるのを待ってから口を開いた。
「聞け。今までのお前たちは、紙の上での冒険者だった。書類がそう呼んでいただけだ。実力も覚悟も関係なくな」
だらしなかった男たちの表情が引き締まる。
「だが今日、死なずに戻ってきた。それだけで一つだけ違う」
ワルツが静かに聞いていた。さっきまでとは違う顔だった。
「今日からお前たちは、書類が作った冒険者じゃない。生き残った冒険者だ。隣にいるやつは、仲間かもしれないし、明日には死体かもしれない」
隣の男が息を呑む。
「だが、今日ここに立っている以上、そいつは同じ現場をくぐった人間だ。利用しろ。学べ。追い抜け。それができなければ、次は書類に名前が残らない」
一拍置いて。
「これからの健闘を祈る。以上だ」
拍手は起きなかった。だが誰も目を伏せてはいなかった。この戦いで生き延びたという事実。それだけで十分だった。隣でワルツが、静かに拳を握っている。
「……シンジ。俺、今日のこと家族に話すぜ」
「そうか」
ワルツは遠くを見る。
「『初陣。敵の包囲網を突破し、仲間と共に窮地を脱出。生還』」
「嘘ではないけど! なんで英雄譚みたいになってるんだよ! 服が溶けたことも言えよ!」
「それは軍事機密だ」
「何がだよ!」
こうして俺は、この世界で最初の冒険者仲間を得た。四十歳。妻子持ち。元パン屋。そしてたぶん、自分の人生を実際より五割くらい大きく語る男だった。




