7話「スライムのお約束」
武器屋での騒動から数時間後。俺はアテナと別れ、冒険者ギルドの講堂へと足を向けていた。初心者向けの「ガイダンス・クエスト」が今日行われると聞いたのだ。同じ、初心者でも、上級職のアテナは高ランク冒険者による個人指導。一方、初級職の俺はグループガイダンスだ。スタートラインの時点で既に差が出ている。世知辛い話だ。
ギルドの裏手に広がる講堂は、木造りの大部屋だった。壁には古びた盾や槍が掛けられ、床には踏み慣らされた土の匂いが漂う。まだ朝の涼しさが残る時間帯なのに、すでに汗の匂いが混ざっていた。
中へ入ると、十数名の若者が集まっていた。ほとんどが男だ。だが、どこか緊張感がなかった。椅子にだらしなく座り、剣を杖代わりにして顎を乗せ、配られた資料を丸めて膝に置いている。
「なあ、これって参加したら冒険者としての活動実績になるんだよな?」
「なるなる。ギルドに言われて来ただけだし」
「俺なんか今月で二回目だぜ」
俺はそいつらの会話を聞きながら、内心でツッコミを入れた。ガイダンス・クエストは冒険者への輝かしい第一歩じゃなかったのか。なのに、どう見ても、「とりあえず出席しとくかみたいな」空気感。緊張した表情で剣を抱えている者もいるが、そいつらは極少数。
「おう、そこの兄ちゃん。初参加か?」
空いている椅子を見つけ座った途端、隣の男が俺に声を掛けた。日に焼けた肌に素朴な顔つき。話しかけるときの距離の詰め方が妙に自然だ。
「ああ。新人だよ。名前はシンジだ」
「俺はワルツ。よろしくな!」
ワルツは気さくに手を差し出してきた。俺は握手しながら、彼がやけにこの場の空気になじんでいることに気づく。
「ワルツさんは戦闘経験とかあるんですか?」
「いや全然なあ。俺、実家が農家でさ。兄貴が跡継ぎになって、俺は土地も仕事も中途半端でよ。一旗上げようとこっちに出てきたんだ」
豪快に笑ったその表情は、どこか寂しさを奥に隠しているようにも見えた。
そんな会話をしていたとき、講堂の空気が一変した。コツコツと硬い革ブーツの足音が響く。振り返った瞬間、男たちの喉が一斉に鳴った。褐色の肌。陽光を思わせる金の髪。
引き締まった脚に金属のガードルが輝き、胸元のプレートアーマーは体の線を描きながら鎧の重みを主張している。まるで闘技場の戦女神がそのまま降りてきたかのようだった。
男たちの値踏みする視線が、反射的に集まる。
「……すごい、美人じゃね?」「今日は当たりの日だな」
男たちがざわつく中、女騎士は冷徹な眼差しで全員を見回した。
「静かに。これより初心者クエストの説明を行う。私は指導役のカリスだ」
その声は澄んでいながら、どこか切れ味のある剣を思わせる。
「まずは質問だ。実戦で、魔物と戦った経験がある者はこの中にいるか」
誰も手を挙げなかったが、三秒ほど経ってから、後方の男が立ち上がった。
「……登録用紙には“有”って書きました」
カリスの視線がその男に刺さる。
「その実態は?」
「イマジナリー訓練で、イマジナリーゴブリンを……」
イマジナリーって何だ。要するにそれって妄想だろ。カリスは一瞬の間の後「座れ」と言った。
「わかった。お前たちはルーキー。戦闘経験については問わない。だが、戦闘に備えて体を鍛えてきた者はいるだろう? 挙手してくれ」
カリスの大して期待していない声に、講堂は沈黙に沈んだ。手を上げる者は、俺を含めて誰一人いなかった。カリスは眉間に手を当てて、深くため息をつく。
「農作業でも何でもいい! 日常的に体を動かしている者!」
また沈黙。カリスの顎が震えた。怒りではない、失望だ。俺が言うのもおかしな話だが、こいつら何しに来たんだ。
「……まあいい。今日は基礎中の基礎、初心者向けのクエストを選んでもらう。選択肢は二つ」
カリスは指を二本立てた。
「スライム退治か、ゴブリン退治。多数決で決める」
言った瞬間、男たちの手が一斉に上がった。
「スライム!!」「スライムでお願いします!!」
ワルツまで即答で手を上げた。
「……理由を聞いても?」
カリスの目はすでに疑っている。
「えっと……なんか、スライムって、こう……ねばねばで……」「服とか溶けたり……?」
男たちは妙に目を輝かせている。カリスは口元を引きつらせ、深く、非常に深くため息をついた。そして。
「はぁ……全く……お前ら、最高だよ!」
皮肉と怒気が混ざりきった声が、講堂に響き渡った。
ギルドから湖までの道は、思った以上に重苦しかった。鼻を刺す刺激臭が風に乗って漂ってくる。生ゴミが腐ったような酸っぱい臭いと、油のような焦げた臭いが混ざり合い、鼻の奥がちくりと痛む。
「なあシンジ。あそこで漂ってるのって……」
「たぶん、湖からの匂いだな」
ワルツは顔を歪ませながらもも、前を歩き続けた。彼の背中から滲む汗の匂いと、風に乗る腐臭が混ざり合い、空気はひどく生温かい。
「ひどいな、これ」
湖が視界に入ると、俺は思わず顔をしかめた。
町の生活排水や処理されていない廃棄物がすべてこの湖に投げ込まれている。話には聞いたが、実際に見ると想像以上だった。空き瓶、腐った野菜、古びた布、家畜の死骸。それらが折り重なり、湖面には無数の「道」ができていた。まるでゴミの迷路だ。
「スライムはこういうところに大量発生する。汚水と腐敗物を栄養に増殖するからな」
カリスは説明しながら、腰の剣を軽く叩いた。
「くれぐれも一匹ずつグループで取り囲んで確実に仕留めろ。走り回るな。いいな?」
だが、男たちは聞いていなかった。
「見ろよ、カリスさんの脚……」「うお、太ももヤバ……」
「お前ら真面目に聞いてるのか!」
女騎士の怒号が響いたが、男たちの興奮は止まらなかった。そして、全員が一斉に走り出した。
「スライム狩りだぁぁぁ!!」
「あっ、馬鹿! やめろ、だから走るなと言っている!!」
カリスの声は虚しく、ゴミの迷路に吸い込まれていった。スライムたちは無秩序に見えて、意外と狡猾だった。男たちが突き進むと、スライムはぷるりと震え、道の奥へと誘導していく。
「なんか一本道になってきたぞ?」「お、おかしくねぇか……?」
ゴミの壁が左右に迫り、前方は袋小路。剣を振るおうと思っても、隣の冒険者に当たってしまう。後ろを振り返れば、シャコッと音を立てながらスライムが道を塞いでいた。
「う、うわああああ!!」「やめ、くるな!!」
とたんに粘液が飛び散り、男たちの服が次々と溶けていく。
「あっつ!? やばっ、鎧が溶ける!!」
「ちょ、ちょっと待って! ズボン! ズボンが!!」
悲鳴と絶叫が湖畔にこだました。粘液が安物の鎧を溶かし、男たちを裸に剝いていく。
「だから、お前ら私の命令を聞けと言ったのだ!」
半
裸、いやほぼ全裸の男たちが泣き叫びながら、助けを求めている。ベテランのカリス教官でさえ目をそらしたくなる地獄のような光景。
俺はその混乱の中、黒いスライムの動きに目を奪われた。誰かが転び、剣先が石に当たった瞬間、火花が散った。黒いスライムが一瞬引いた。
「……あれ? 黒いやつだけ、火に近づかない?」
腰に吊ったランタンの炎を近づけると、距離を詰めてきた黒スライムがびくりと震えて離れた。油やタール系独特の匂いが鼻をついた。
「こいつら、中に燃えるものを溜め込んでるのか?」
だとすれば火を嫌うのは当然だ。
「……いける!」
俺はランタンを逆手に持ち、冒険者の基本スキルである《投石》の構えを取った。
「投石……応用!!」
ランタンを黒スライムめがけて投げつける。炎が爆ぜ、黒スライムは悲鳴のような振動を発した。同時に、ぱんっと音を立てて二つに分裂した。
「分裂……! でも、弱ってる……!」
分裂したスライムは粘度が下がり、明らかに動きが鈍い。
「今だ! みんな、戦え!」
俺が叫ぶと、半裸の冒険者たちが鬨の声を上げ、一斉に武器を構えた。
火の手が上がった黒スライムは逃げ惑い、その他のスライムたちも袋小路の端に追い詰められていく。そして。
「終わったぁぁぁぁ!!」
男たちの歓声が湖畔に響いた。
クエスト終了後。一同は近くの川で体についた粘液を洗い流していた。冷たい水が肌を刺すように流れていくが、それがむしろ心地よかった。俺も川に手を浸しながら息をついた。
「シンジ、だったか?」
声をかけられ、振り向く。そこにはワルツとカリスが立っていた。ワルツは、さっきまでの地獄が嘘みたいな笑顔を浮かべている。一方のカリスは腕を組み、相変わらず険しい表情だが目だけは、ほんの少し柔らいでいた。
カリスは淡々とした口調で言った。
「今日は助かった。お前の機転がなければ、私は裸の野郎どもをまとめて埋葬する羽目になっていた」
ワルツが勢いよく俺の肩を叩く。
「本当にありがとうな! シンジ、お前のおかげで俺、死なずに済んだぜ!」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。こんなふうに、真正面から感謝されたのは、いつ以来だろう。
「お前には見どころがあるな」
カリスが短く言った。余計な言葉はない。だが、その一言は、妙に重かった。この世界に来てから、初めて自分の存在を現場の人間に認められた気がした。
俺は水面を見つめ、静かに拳を握る。
「……俺、頑張ってみます」
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。カリスは、それに頷きも否定もせず、ただ一度だけ俺を見た。
「その言葉を、今日ここにいる全員に聞かせたいものだ」
そう言って、彼女は踵を返す。
「集まれ」
短い号令だったが、川辺に散らばっていた冒険者たちが、自然と顔を上げた。裸に近い者。破れた装備を抱えた者。放心したままの者。誰一人、英雄の顔はしていない。だが敗北者でもなかった。
カリスは全員が集まるのを待ってから、口を開いた。
「聞け。今までのお前たちは、紙の上での冒険者だった。書類がそう呼んでいただけだ。実力も、覚悟も、関係なくな。だが今日、死なずに戻ってきた。それだけで、一つだけ違う」
だらしなかった男たちの表情が引き締まる。
「今日からお前たちは、書類が作った冒険者じゃない。生き残った冒険者だ。隣にいるやつは、仲間かもしれないし、明日には死体かもしれない」
隣の男が息を呑む。
「だが、今日ここに立っている以上、そいつは同じ現場をくぐった人間だ。利用しろ。学べ。追い抜け。それができなければ、次は書類に名前が残らない。これからの健闘を祈る。以上だ」
拍手は起きなかった。だが誰も目を伏せてはいなかった。この戦いで生き延びたという事実。それだけで十分だった。




