1話「門前払い」
世界がひっくり返るような光の渦のあと、俺は固い大地の感触と、鼻を刺す生土の匂いで意識を取り戻した。目を開けると、そこは見知らぬ大地だった。気がつけば、女神アテナの巻き添えで異世界転生。ショート動画よりも早い展開に頭は追いつかないまま、俺たちは城塞都市の門前に立っていた。街の名前はエルフェンウッドらしい。
靴越しに伝わってくるのは、舗装されたアスファルトの平坦さじゃない。中世独特の角ばった石の感触だ。
「……なあ、アテナ。これ、夢じゃないよな?」
隣に立つ女。金髪で、やたらと神々しいドレス姿の女神は、一瞬だけきょとんとした顔をした。そして、あからさまに面倒くさそうにため息をつく。
「もう。しつこいわね」
そう言うと、彼女はいきなり自分の頬をつねった。次に、俺の腕をつねる。
「いっ!」
「ほら。痛いでしょ。残念ながらこれは現実」
痛みは、はっきりしていた。笑い飛ばせないくらい、ちゃんと痛い。心臓の鼓動がやけにうるさい。周囲に立つ人間たちの視線が、言葉にならない圧力となって肌に突き刺さる。
俺、本当に異世界に来たんだ。その事実が、今さらになって腹の底に落ちてきた。背中を冷たい汗が流れる。
アテナは周囲を一瞥し、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。だが、それも一瞬だ。
「ま、細かいことは後でいいわ」
次の瞬間には、いつもの自信満々な表情に戻っていた。
「まずは街に入りましょ。魔王はとりあえず後回しよ。拠点がないと話にならないもの」
俺は目の前を見上げた。門前には荷馬車と商人、槍を持った神像に向かって、祈りを捧げている旅人。そして鎧を着た兵士。ファンタジーの一場面を切り抜いてそのまま現実に貼ったような光景に、思わず感動を覚える。
「街へ入りたいなら、入場料は一人銀貨三枚だ」
背筋を伸ばした衛兵が、無表情のまま告げた。槍の石突きが地面にコツンと響く。俺は反射的にジーンズのポケットへ指を滑らせ、レシートと自転車の鍵を取り出して顔をしかめる。アテナも同じく空っぽの白い手のひらを見せ、肩をすくめた。
一文無しで異世界デビューかよ。入場料位はサービスとして用意して欲しかった。
「規定は規定。払えないなら引き返してもらおう」
衛兵の声音はてこでも動く気配がなかった。俺の心が先に折れそうになる。だが、金髪を夜風のように揺らしたアテナが俺の袖を引いた。
「ここは私に任せなさい」
声はひそやかだが、目は冴えた狩人のそれだった。
「何か作戦でもあるのか?」
「大丈夫よ、あんたは適当に私に合わせて」
そう言うやいなや、アテナは地面に膝から崩れ落ちた。大理石みたいに白い脚が汚れ、その瞳に瞬時に涙が浮かぶ。まさかの即興演技。舞台の上なら、主演女優賞間違いなしだ。
「どうかお情けをいただけませんか。魔王軍に故郷を焼かれ、山賊にはお金を奪われ、私たちにはもう何もないんです……」
適度に嗚咽を混ぜたソプラノが門前のざわめきと好奇心を吸い寄せる。馬鹿馬鹿しいとは思ったが、俺もとっさに腹を押さえて咳をした。そして、「た、助けてください……」と精いっぱいの震え声を乗せた。俺の人生史上、最高の演技。
「嘘だな」
衛兵は瞬きすら惜しむように告げた。
「服も靴も新しい。手の爪が整い過ぎている。山賊に襲われた難民がそんな清潔さを保てるわけがない」
予想はしていたが、一分の隙もない論破である。衛兵の眼は槍の矛先のように鋭く光っていた。
アテナは瞳の涙を瞬時に蒸発させ、ふっと笑った。
「それなら、プランBよ!」
アテナはゆっくりと立ち上がり、胸元を強調した。白磁の谷間が零れ落ちそうになり、あたりの空気が甘い香に染まる。俺も思わず息を呑んだ。衛兵の喉仏がわずかに上下する。
「ねぇ……疲れてるでしょ。 中に入れてくれたら、特別なお礼をしてあげるわよ」
声は蜜のようにとろけ、その指先が衛兵の胸当てをゆっくりとなぞった。並の男ならとっくに陥落している。だが、衛兵は咳ばらいをして言った。
「公務中だ。入場料を払えないなら引き返してもらおう」
砕け散る色香。衛兵は無表情のまま一歩後ろへ下がり、槍をまっすぐに構えなおした。その動きには一分の隙もない。
こいつ、煩悩を捨てた修行僧か? アテナのこめかみがピクピク、と痙攣したのを俺は見逃さなかった。
その時、遠くからドスン、ドスンと地鳴りが響いた。振り向くと緑色の巨体――オークの傭兵部隊が巡回してきた。筋骨隆々の体躯、豚のような鼻にむき出しの牙。腕の太さは丸太ぐらいありそうだ。周囲の旅人がそそくさと列を開ける。
「人間が門前でクダを巻いてるって?」
隊長格らしきオークが低い声を響かせた。衛兵が手短に状況を説明する。その様子を見ているだけで、衛兵の緊張の程がうかがえる。オークは俺たちを見下ろし鼻を鳴らす。
説得が通用する相手ではなさそうだ。嘘がばれたら、何をされるかわかったもんじゃない。
「アテナ、一旦引き返して、別の方法を考えようぜ」
「引き返す? 私たちにはまだ、プランCがあるでしょ」
例えプランZまで実行しても、この状況を打開できないことはもうわかっていた。だが、アテナはそんなこともお構いなしに、澄んだ声で高らかに宣言した。
「聞いて! 私たちの本当の正体は魔王を討つ勇者パーティなのよ!」
いつパーティ結成した? 怒涛の急展開だがもう止められない。衛兵とオークが同時に噴き出し、旅人と商人の笑い声が混ざり合う。
「勇者様一行が色仕掛けとは滑稽だな!」
「まずは財布を召喚してみろよ!」
飛んでくるのは大人たちの嘲笑と子供たちが投げる小石。地面に落ちるたび、俺の羞恥心が削られていく。
屈辱に震えたアテナは、とうとう限界を超えた。肩を小刻みに震わせたまま、門前の中央に歩み出る。周囲は失笑と好奇の視線で満ちている。それでもアテナは両手を広げ、堂々と立ち止まった。
「黙りなさい。モブキャラ共!」
空気が一瞬だけ静まった。誰も求めていないのに、アテナは演説を始める。
「わたしこそは自由と解放の女神、アテナ! そして、この男は魔王を倒すため、天より遣わされた選ばれし勇者、シンジよ!」
衛兵たちが顔を見合わせ、「知らんぞ、そんな勇者」と小声で言う。当たり前だ。俺は誤爆でこの異世界へと転生した哀れな小市民。魔王を倒し、世界を救うなどという崇高な大儀など一度も持ったことはない。オークはあきれ果てたのか、街の中へと戻ってしまった。アテナは気づかぬふりをして続けた。
「恐れる必要はないわ。わたし達は富や名誉を求めているんじゃない。ただ皆の未来を、この街の未来を守るために来たのよ」
妙に熱のこもった演説だが、観衆は呆れ顔だ。アテナはさらに高らかに叫ぶ。
「後世の歴史家は必ずこう語るわ。全ては今日、この場所から始まった、と」
そして決めポーズ。片腕を高く掲げ、空を指差し、勝利を確信した女の笑み。
「勇者パーティの誕生を、歴史の新たな幕開けを、全世界は今日噛みしめるのよ!」
静寂が満ちた。演説を終えた興奮か、アテナの顔は上気している。次の瞬間、群衆のどこかからひときわ乾いた声が響いた。
「それで、勇者パーティである証拠は?」
「そうだよ。お姉ちゃん、ずっと適当なことしゃべってるだけじゃん」
はじめは小さな笑いだったが、やがて大きな嘲笑へと変わっていく。アテナは一瞬だけ瞳を揺らしたが、強引に笑みを貼り付けた。あくまでも強気を貫くらしい。
「いいわ。見せてあげる、私たちが勇者である証を。刮目しなさい。歴史が変わる瞬間を!」
その時だった。オークが桶を抱えて戻ってきた。鼻孔を突き刺すアンモニア臭に、本能が警鐘を鳴らす。
「門前を騒がせた罰だ。受け取れ、勇者パーティー!」
振り上げられる桶。アテナが「待って!」と叫ぶ間もなく茶色の内容物が俺たち目掛けて放物線を描いた。
バシャッ。生ぬるく、重い、そして尋常じゃなく臭い。
茶褐色の粘液が髪を伝い、首筋を這い、シャツの襟元へ流れ込む。五感すべてが拒絶のサイレンを鳴らし、猛烈な吐き気がこみ上げてくる。オークは楽しげに顔を歪めた。
「演説は聞かせてもらったぜ。勇者の証明は簡単だ。強い者、それが勇者だ。うんこまみれの勇者なんて聞いたことないぜ」
アテナご自慢の金髪も、今や泥まみれの小麦畑だ。彼女は怒りに震えながら唇を噛む。
「この……ブタ野郎ッ! 覚えてなさいよ、必ずあんた達に後悔させてやるわ!」
威勢こそいいが、今の俺たちは完全には笑いもの。門前は既に爆笑の渦だ。子どもが鼻をつまんで跳ね回り、商人が腹を抱えて転げる。聖職者風の老人すら肩を震わせている。
「これで歓迎は終わりだ。生きているうちはせいぜい笑い者として楽しませてくれ」
くぐもった嗤いを残し、オークは去っていく。衛兵も民衆も、誰一人手を貸さない。勇者パーティー、ここに完全敗北。
アテナの肩が震えている。涙と怒りと羞恥がないまぜになった表情で、言葉にならない声しかだせていない。俺はアテナの手を掴んだ。
「……行こう」
俺たちは視線を合わせると同時に踵を返した。笑い声を背に、全力で駆ける。風は冷たく、汚れた臭いだけが付きまとう。石畳が土に変わり、やがて干草の匂う草原へ。息が切れ、遠くに見える外壁の漆喰が小さくなった頃、俺たちは草むらへ倒れ込んだ。
「屈辱よ……女神であるこの私があんな……あんな真似をされるなんて!」
握りしめた拳を震わせながらアテナが言葉を発した。化粧も髪も汚れ、ドレスは泥にまみれ、目だけが真っ赤に充血している。
俺は視界の上の空に腕を伸ばした。野花の香りさえ糞尿の臭いに塗り潰される。乾いた笑いしかでてこなかった。。
「異世界、マジでハードモードじゃねえか……」
俺とアテナの異世界転生。英雄譚の幕開けどころか、うんこまみれの底辺スタート。正直ここから巻き返せる気がしない。
しばらく沈黙が続いた後、アテナが立ち上がった。汚物に塗れた美貌は、それでも凛としていた。
「決めたわ、シンジ。あのオークたちにしかるべき報いを必ず受けさせるわ。そして、あの街の民衆達も見返してやる。そうね、今度はあの門を馬車に乗って正面から堂々とくぐってやる。金を稼いで、風呂に入って、最高のドレスでね!」
彼女の瞳に灯る炎は逆境を物ともせず輝いていた。自尊心が粉々に砕けたというのに、アテナはその欠片を逆に燃料として燃やしたようだ。俺は思わず吹きだした。
「なら、特等席はお前に譲ってやるよ。女神様。俺は御者あたりがお似合いかな」
「バカ言わない! あんたも特等席に乗るのよ。そして、 わたしたち二人で証明するの。伝説の勇者パーティーだってことを」
草原に夕陽が差し、ふたりの影が重なる。臭いも、屈辱も、今なら全部まとめて笑い飛ばせそうだ。もう何も失うものはない。だからこそ、次は上がるだけだ。俺たちの物語が、ようやく始まる気がした。
俺は拳を固め、立ち上がる。
「よし、まずは水場だ。池でも川でもいい、臭いを落とすぞ」
アテナが金髪を振り上げ、夕焼け空に叫ぶ。
「勇者パーティ! 全軍、進撃ッ!」
こうして、俺たちのクソまみれの冒険が始まった。




