15話「前座」
アーマードタートルに敗走してから数日後。あの巨体に叩き潰された記憶は、まだ筋肉と骨の奥に生々しく残っていた。きしんだ肋骨の痛みはジャンヌの回復魔法でとうに癒えているはずなのに、森へ向かう足どりは重い。
夜明け前の森は、冷たかった。空気は冬の水みたいに透明で、呼吸をするたび鼻の奥に痛みが走る。クエストの達成期限は今日までだ。達成できなければキャンセル料を払うことになる。まさに負けられない戦いだった。
道を進みながら、俺たち四人は言葉少なに歩く。
アテナは腕を組み、いつもの尊大な表情を保とうと頑張っているが、金色の指輪をはめた指先が小さく震えていた。ジャンヌは対照的に、張りつめた沈黙の中で礼儀正しく一歩一歩を踏みしめている。
そして、ただ一人。新たに加入したヴィヴィアナだけがご機嫌だった。銀髪を揺らしながら、鼻歌まじりで歩く。指先ではカードをシャッフルし、まるで散歩中の貴族令嬢のような余裕さえ漂わせている。
エルフェンウッドで初めて出会った時から思ってはいたが、この女、神経の構造が根本的に違う。
「……着く前に、作戦を最終確認しましょう」
アテナが振りかえって言った。緊張を隠すためか、いつもより声に気品を乗せている。
俺は足を止め、全員を見回した。
「そうだな、まずは森の中ではなるべく戦いたくない。アーマードタートルと前回やり合った場所まで行ったら、そこから俺が開けた平地へ誘導する」
「敵の攻撃は私がお嬢様と奥様の前に立ち、防ぎ切ります」
ジャンヌが迷いなく頷く。アッシュブラウンの髪が震え、盾の金具が微かに触れ合って音を立てた。
「私は後方から《加速の祝福》と《守護の聖印》。あんたたちを支援しつつ、状況に応じて攻撃をする振りをして敵を牽制。これでいいんでしょ?」
アテナは完璧な作戦であると強調するように頷いた。ここまでは、パーティーとして理想の布陣だ。視線が自然とヴィヴィアナへ向く。彼女は指を口元に当て、悪戯っぽく微笑んだ。
「私はチャンスを見つけたら、魔法を撃つわ。敵の動きを見て、勝てる賭けに乗る。それでいい?」
癪に障るほど自信に満ちた声。だが、ロードメイジの火力がなければ勝ち筋がないのも事実だった。
「オッケーだ。ヴィヴィアナが全力で撃てる状況を作る。それが俺たちの役目だ」
俺はそう言いながら、自分でも驚くほど声が震えていないことに気づいた。異世界ではそれなりに修羅場をくぐった。まともな神経じゃやってけないことは確かだ。
「よし。アーマードタートルの生息地はすぐそこだ。行くぞ」
アテナが小さく祈りを捧げ、ジャンヌは盾を抱きしめるように構える。ヴィヴィアナは、まるで宝探しの前夜の子供のような表情で微笑んだ。
森の奥へ進む。地面は柔らかく、靴底に湿り気が吸いつく。どこからともなく、腐敗臭がひとしずく漂う。風が弱く、音が立たない。対照的に、心臓の鼓動だけが大きく聞こえる。
ほどなく暗い木々の切れ目が現れた。そこで俺は思わず息を呑んだ。
前回戦った場所は、荒野のように変貌していた。砕けた甲羅と血の池。尖った岩肌がえぐれ、地面は裂け、煙の残り香が漂う。そして、その中心にアーマードタートルの死骸を別の巨大モンスターが貪っていた。
肉を咀嚼する鈍い音が、森全体に響き渡る。シェルバスター。尾の一撃で盾を砕き、牙で鎧ごと冒険者を噛み砕くと噂される、討伐難度A級の怪物。恐竜のアンキロサウルスにそっくりだ。
口元から垂れた血が、夜露のように赤く土へ滴り落ちる。視線が合った。獣の咆哮。空気が震え、地面が揺れた。膝の震えを止められない。
「……待て待て待て! いや、これってやばくね? なんでアーマードタートルがやられてんだよ!」
「帰るわよシンジ!! こんなのアーマードタートルの上位互換モンスターじゃない!! 無理に決まってるわ!!」
アテナの声が裏返る。だがジャンヌは震えながらも盾を構えて前に立った。
「ご主人様、奥様……どうか、背をお任せください」
その一歩前に銀髪の魔法師が、ひとりで前に出た。ヴィヴィアナは咲き誇るように微笑む。恐怖も緊張も一切なく、ただ戦いを歓迎する瞳だけがある。
「なるほど。アーマードタートルは前座だったのね。いいじゃない。賭けごたえがあるもの」
声は艷やかで、狂気と期待が混ざり合っていた。背筋に冷たい汗が滲む。
もしかして俺たち、とんでもない奴を仲間に入れたのか?
だが、もう退路はない。勝つしかない。倒すしかない。
シェルバスターが咆哮し、地を割るような第一歩を踏み出した瞬間、俺は叫んだ。
「全員構えろ! ここからだッ!!」




