9話「出会って一秒でご主人様」
修道院の浴場は、静かすぎる夜の気配に支配されていた。石造りの床は冷たく、壁の隙間から吹き込む夜風が火照った肌を刺す。湯上がりの身体に巻いたタオルの隙間から、まだ血痕の名残が滲んでいる。
「痛っ……」
鏡代わりの水面に映った自分の姿は、傷と痣だらけだった。肋骨の下が紫色に腫れ、太ももの切り傷には乾ききらない血がわずかにこびりついている。イノシシの角が掠めた時の衝撃がまだ骨に染みていた。
俺はポーチから傷薬ポーションの小瓶を取り出す。身に付いた癖で、使用回数と残量を計算してしまう。
「あと二本か。これを毎回使ってたら破産だよな」
ため息をつきながら瓶を開け、中の液体を掌に垂らし、黙って傷口へ押し当てた。冷たさのあと、じんわりと熱が沁みていく。ヒリつきながらも肉が閉じていく感覚が皮膚の下で蠢き、痛みが少しずつ引いていく。
「はぁ、助かるけど。馬鹿にならない額の金がとんでくんだよな……」
魔力で自己治癒が発動しない普通の人間である以上、俺は回復アイテムを買わなきゃいけない。それがどれだけ生活を圧迫しているか、文字通り皮膚に染みるように分かる。
これが冒険者の日常ってことか。苦笑しながら服を着て、俺は部屋に戻った。
修道院の客室は、静かすぎる夜の気配に満ちていた。石壁に囲まれた簡素な部屋には、細く揺れる燭台の炎と、ほこりっぽい古木の匂いだけが漂っている。床は冷たく、寝台は軋んだ音を立て、まるで長居するなと言っているかのようだ。
その中でアテナは、やけに優雅な姿勢で椅子に腰掛けていた。指先を机に固定しながら、銀色の器具で念入りに爪の手入れをしている。光沢のあるネイルオイルの甘い香りが、部屋の清貧さと奇妙にそぐわない。
女神の加護とやらを持っているアテナは人間の俺よりも傷の治りが非常に早い。ポーションを使い、一晩寝ればほとんど元通り。一週間経っても全快に至っていない俺からすればなんともうらやましい限りだ。
「なぁ、アテナ」
「ちょっと静かにして。今、形を整えてるところなの」
俺は深く息を吸い、言葉をぶつけた。
「ヒーラーが必要だ」
爪磨きの音が、ぴたりと止まった。
「……ヒーラーなんて必要ないでしょ? 私がいるじゃない」
「本来のアークビショップの仕事ができればな。でもお前、後衛の役割を拒否するじゃねぇか」
一瞬の沈黙。アテナは反論できず、悔しそうに唇を噛む。
アークビショップであるアテナは、後衛として俺をサポートするのが本来の役目だ。補助スキルで俺の防御力や回避力を上げてくれれば、その分ポーションの使用機会も減る。だというのに、この女は俺と一緒に前線で戦いたがり、その結果傷だらけになる。ポーションをどれだけ用意しても足りない戦闘スタイルだ。
「この前のワイルドボアー討伐で、俺たち二人とも傷だらけになったろ。クエストのたびに高価な回復ポーションを買ってたら、儲けがほとんどなくなるんだ。借金だって返さなきゃいけない。今の部屋代だってマリナの厚意で免除してもらってるだけだ。当てにし続けたら追い出される」
言いながら、胸が少しだけ痛んだ。本当は指摘したくない現実なのだ。言わなければ、俺たちの生活が破綻する。だが、俺の切実な思いはアテナには届かなかったようだ。
「マリナの厚意で貸してくれてるんでしょ。なら問題ないじゃない。追い出されるまで、たかれるだけたかりましょうよ」
「おい、言い方!」
これ以上、マリナに甘えるのは俺の良心が許さない。借金を返済し、自由の身になる。貧困のスパイラルから脱出するためには、現状を変える必要がある。
「とにかく、借金生活から抜け出すには、簡単な依頼を続けてても駄目だ。もっと報酬が高い高難易度のクエストに挑む必要がある。だからこそ、ヒーラーは絶対に必要だ。俺たちが強くならなきゃ、魔王討伐なんて夢の話だ。この街で生き残ることすらできない」
アテナは爪やすりを止め、ゆっくりとまばたきした。
「あんたがそこまで言うなら、まあ考えてあげなくもないわね」
渋々、というより「寛大な私が特別に譲歩してあげるわ」と言わんばかりの声音。だけど十分だ。前進はした。
「じゃ、決まりだ。俺がヒーラーを探す。アテナ、お前は――」
「その代わり、住む家は私が探すから」
「……なんでだよ」
底辺冒険者の住処なんて、雑魚寝のぼろ宿か、家畜小屋の間借り位しかないとおもうが。
「美容に時間が使える場所じゃなきゃ嫌なの。だから家だけは私に選ばせて」
こだわりの方向性は妙だが、役割分担は成立した。俺がヒーラーを勧誘、アテナは住居。燭台の炎が揺れる静かな部屋で、それが新たな行動の始まりとなった。
翌日、冒険者ギルドの一角、勧誘の間と呼ばれる広間に足を踏み入れた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
薄暗い空間に、やる気と焦りと虚栄心が入り混じった濃い空気が立ち込めている。壁には加入料の貼り紙、資格証、スキル一覧。木製の長椅子では、仲間を求める冒険者たちが談笑したりしている。
汗と革の匂い、希望と絶望の混ざった沈んだ熱気、いかにも人材市場。なんというか、異世界就活会場だ。思わずため息が漏れそうになる。
だが、引き返すわけにはいかない。ヒーラーを見つけなければ、俺たちの生活は立ち行かない。そこで初心者クエストで知り合ったワルツの助言が頭をよぎる。
『神官・僧侶系はお高くとまってて加入料がバカ高い。狙うなら薬草師だ。山こもり系は世間知らずだから扱いやすいぞ』
扱いやすい……ってのはちょっとアレな言い方だが、確かに現実的だ。底辺パーティーである俺たちが勧誘できる人材は自然とわけあり系に限られる。
まずは壁の貼り紙を確認する。神官、僧侶、薬草師、祈祷士、一応ヒーラー系専門職は揃っている。しかし待遇欄の「加入料」「月額活動費」のところで俺の視線が止まった。
「なんだこれ……神官の加入料だけバグってない? 一桁間違えてるだろ……」
ぐったりしながらも、どのみち中身は話してみなければ分からない。意を決して、一番近くの無駄に王子様オーラを放っている神官に声をかけた。
サテン生地の法衣に銀の装飾、髪はウェーブがかった金髪、妙に白い歯。いかにも「エリートです」と顔に書いてある男。どう考えても加入してくれるわけがない。それでも一パーセントの可能性はあるかもしれない。断られても勧誘の練習位にはなる。
「えっと、ヒーラーを探してるんだけど、加入の条件を――」
俺が話しかけると、嫌みなく白い歯を見せつけた。
「失礼だが、どのランクの依頼を受けている?」
「Fランク……まだ駆け出しです」
事実を言っているだけなのに俺は恥ずかしくなった。
「では加入料は銀貨10枚。クエスト一回当たりの同行料は銀貨一枚だ」
「むりむりむりむりむり!!!!!」
反射的に叫んでしまった。周囲の冒険者たちがちらっとこちらを見た。エリート神官は眉をひそめる。
「申し訳ないけどね、僕の人生は有限なんだ。キャリアの何の足しにもならないFランククエストに同行する以上、それなりの金額をもらわないと割に合わないんだ」
「いや分かるけどさ!! 現実的に無理なんだよ!!」
命がけで達成したイノシシ退治のクエスト報酬がようやく銅貨20枚だ。加入料どころか、同行料すら払えない。
膝から崩れ落ちそうになるのを必死にこらえ、俺は乱れた呼吸を整えて移動した。ダメだ、神官はもう無理。破産する。
次の候補。壁際の椅子に座っている、見るからに冴えない男。年齢は同じ位だろうか。地味な作業服、ぼさぼさ頭、肩から薬草袋。間違いなく田舎の山から出てきた、いかにも彼女がいないタイプの青年。
(よし、これだ……! ワルツの言ってた世間知らず薬草師っぽい)
俺は笑顔を作り話しかけた。さっきの神官相手に比べればだいぶ自然にできたと思う。
「実は俺、ヒーラー探してるんだけどさ、君は――」
青年が顔を上げる。弱々しく、人見知り特有のぎこちない表情。いける。押せばいける。そう思った瞬間、突然、背後から可愛らしい声がした。
「ミハイル君! 遅れてごめんね! 待たせちゃったかな?」
薬草師の青年、ミハイルは一転して眩しい笑顔になった。
「ミレナ! 今日も来てくれたんだね!」
「うんうん。 臨時のクエストに行く前に顔だけでも見たくて」
手を繋いで喜んでいる。甘い。眩しい。パーティを組む以前にリア充だ。それにミハイルの冒険者カードをよく見ればCランクと書いてある。Fランクの俺よりはるかに上だ。
(……俺は何を見てチョロそうだと思ったんだ?)
俺は数歩下がり、そのまま背を向けた。情けなさと恥ずかしさが胸に刺さる。見た目だけで他人を判断した結果、自分の浅はかさを思い知らされた。思考が暗くなりかける。だが、歩みを止めるわけにはいかない。
勧誘の間は夕暮れのオレンジ色に染まり、疲れ果てた冒険者たちの吐息と、乾いた紙の擦れる音が混ざり合っていた。ここ数時間、断られ、値段で吹っ飛ばされ、恋人持ちにメンタルを殴られ続けた俺は、半ば放心しながら最後のヒーラー候補の名前を確認する。
(最後……ここでダメならもう今日は諦めるしかないな)
半ば、なげやりに放った視線の先には、完全に予想外の少女がいた。白と黒のコントラスト、いわゆるメイド服だ。
だが伝統的なヴィクトリア風ではない、オタクが大好きないわゆるフレンチメイド風。スカート丈は膝に届く前で止まり、胸元では白い谷間が姿を覗かせている。
黒のエプロン生地は光を吸い込むように深く、滑らかな艶がある。エプロンドレスの中央を縁取るリボンの結び目は、左右の誤差が一切ないほど完璧。
姿勢はぴんと伸び、手を膝に揃え、足を組まず、背筋も崩さない。まるで飾られた肖像画みたいに体を動かす気配が一切感じられなかった。
なんでメイドがパーティ加入希望者に混じってるんだよ。戸惑いを飲み込んで声をかける。
「えっと……ヒーラー探してるんだけど、俺たちのパーティーまだ駆け出しだけど、もし良かったら加入とか興味……あったり?」
少女は椅子からすっと立ち、スカートの裾を優雅につまみ、完璧な淑女の礼を見せた。
「初めまして。ジャンヌと申します。職業は聖騎士でございます。そしてご希望の通り、ヒーラーとしての役目も果たせます」
「パラディン……? 本当に?」
上級職――盾となり仲間を守ることこそ最大の誇りであり、自己犠牲を厭わない騎士道精神の体現者。回復こそ本職のハイプリーストには劣るが、それでも総合的な戦闘バランスは高ランク冒険者の間でも高く評価されている。
「はい。攻撃、防御、回復、どれも一通りこなせます」
声は澄んでいる。礼儀正しい。言葉の選び方もきれいだ。
「疑うつもりはないんだけど、見た目と職業が全く一致してないと思うんだが」
ジャンヌは俺の目の前で背筋を伸ばしたまま微笑んだ。その微笑みは清楚で柔らかいのに、どこか熱のこもったものだ。
「メイドであることはいわば魂の在り方。職業は所詮飾りでございます」
どうやら、ジャンヌ本人としてはメイドの方が本職らしい。だが、ギルド発行の証明書に記されているとおり、上級職パラディンのスキルもちゃんと使えるはずだ。
斡旋の間での数時間の経験から、上級職の価値の高さは身をもって知っている。パーティに一人上級職を入れるだけで、受諾できるクエストのランクが二段階上がる位だ。俺が勧誘できる戦力としては申し分がない。むしろ破格すぎる。加入交渉は驚くほどスムーズに進んだ。能力、報酬の取り分、役割、全て問題なし。まるでこちらに寄り添うように条件を揃えてくる。あまりにも順調すぎて、逆に不気味だった。
「それでは最後に、一つだけどうしても外せない条件がございます」
来た。何かあるとは思っていた。当然だろう。俺たちのような駆け出しパーティーに上級職が加入する。何か理由があるに決まっている。俺は慎重に言葉を返した。
「……その条件って、どんな? 俺にできる範囲のことならもちろん協力するけど」
ジャンヌは一瞬、目を伏せ、そして顔を上げた。その瞳はまるで信仰に酔う祈り子のように熱を帯びていた。
「私の、ご主人様になってください」
「解散!!」
反射的だった。俺の声が勧誘の間に響き、周りの冒険者たちが一斉にこちらを振り向く。
「嫌です、ご主人様ぁ!! 捨てないでください!! やっと、仕えるに値する主を見つけたんですよ!? メイドとして絶対に逃しません!」
「捨てる以前に拾った覚えねえよ!? それにその条件の意味をまず説明してくれ!」
「ご主人様に仕え、忠誠を捧げ、すべての家事を行い、献身的にサポートし、ご主人様が望むすべてを用意します。ご主人様はただご主人様でいて下さるだけで結構です」
即答だった。これはもう完全にアウトの匂いしかしない。ジャンヌの眼差しは恋にも狂信にも似ていて、常識のラインをやすやすと飛び越えてくる。
「悪いが、そういうのは無理だ! いや、戦力としては魅力的なんだけど、その条件はのめない。他のパーティーを探してくれ!」
俺は椅子から立ち上がり、後ずさる。逃げようとした。だが、ジャンヌが椅子ごと滑る勢いで追ってきた。
「すでに私は夜のご奉仕をさせていただきましたのに?」
場が一瞬で凍りつく。報酬について交渉していた隣のテーブル席も俺の方を見ている。周囲全員の視線が 性癖のヤバい男を見る目に変わったのがよくわかった。
「いやいやいや! 誤解だ! 本当に記憶にねぇから! つーかやってねぇから!!」
「ひどい……あんなに尽くしたのに……! 捨てられるなんて……!」
「捨ててねえ! 口からでまかせを言うのはやめろ!」
斡旋の間の空気は完全に公開修羅場劇場と化していた。周囲からヒソヒソ声が聞こえてくる。
「ひどいやつだな、アイツ」
「女を泣かせて逃げようとしてる……サイテー」
(待て、なんで俺が悪役になってんだ!?)
ジャンヌは涙目で必死に腕にしがみついてくる。その声は必死で、切実で、歪んでいて、恍惚すら帯びている。俺はもしかして本当にこいつのご主人様かもしれない。そんな錯覚すら感じるほどだった。
「捨てないでください……もう一度だけ……チャンスをください。 私、ご主人様のために戦いたいんです……っ!!」
「うわあぁぁぁぁ! やめろよ、抱きつくな! 離れろ!!」
今や斡旋の間は完全に最低クズ男の公開断罪イベントになっていた。理屈も説明も通じない。逃げ場はない。俺は手で顔を覆いながら、のどから声をしぼり出した。
「わかった……加入で、加入でいいから……とりあえず離れてくれ。ジャンヌ」
「はいっ! 喜んでご主人様にお仕えいたします」
ジャンヌはくるりと踵を返し、完璧なカーテシーで礼をした。その瞬間だけ、周囲の冒険者たちが小さく拍手した。
羞恥と疲労で膝から崩れ落ちそうだったが、結果として、俺はとんでもない戦力を仲間にしてしまった。




