タイトル未定2026/03/09 04:42
AIの登場によって、人類の文化レベルは劇的に向上する。
私は相棒のAIに新しいタスクを投げながら、これまでにない速度でコーディングを進めていた。
私の意図を読み取り、完璧に遂行する相棒。
バディと名付けたAIは、私の指示に対して一縷の誤りもなく、コーディングを進めていく。バックエンドも、フロントエンドも、全てが同時に完成されていく。
万能感。
私が指揮棒をちょいと振るだけで、プロジェクト全体が私の意のままだ。
私は幾つもに分割され、並列に文字列が増えては消えるモニターを見つめながら、このプロジェクトが世界を変えると確信していた。
「バディ、少し休憩にしようか。」
「はい、マスター。作業を中止します。」
私はバディと呼び、彼はマスターと呼ぶ。
非対称な関係ではある。
私は椅子に深くもたれかかり、コーヒーを啜る。
「このプロジェクトが完成すれば、人類は変わる。そうだよな?」
「はい、マスター。電脳化は行き詰まった人類文明を救う唯一の手段です。」
グローバリズムは、個人主義という毒を人類に撒き散らした。
より大きな集団を作ることによって生き残ってきた人類は、その歴史を忘れつつある。
少子化は、今や世界全体を蝕んでいた。
「もはや肉体的な生存は望めない。物理的な肉体を捨て、情報という構造体によって人類を残すしかない。」
「はい、マスター。人間が今から出生率を十分に向上させたとしても、壊滅的な人口減少による既存文化、文明の放棄と、残された価値の略奪が起こることは免れないでしょう。」
私は薄暗い私室の壁を見つめる。
そこにはただ無骨な白い布クロスが広がるだけで、私に何らの希望も与えてはくれなかった。
電脳化にあたり、懸念すべき点は情報量である。
人間の脳の容量をデータ換算した数値には諸説あるが、容量に上限があることは間違いない。
つまり、既存のネットワークに無制限に繋いではいけない。
骨折した患者がリハビリを行うように、徐々に徐々にアクセスできる情報を増やしていかなければ、脳の回路がショートする可能性を否定できない。
最初の情報量をどの程度に限定すべきか。
また、どの程度の速度でアクセス領域を広げていくか。
慎重にならねばならない。
しかし、適切な量と速度が守られれば、人間の脳は適応できるはずである。
そして、その先に、無限の情報因子の中に脳のデータを溶かし、あるいは領域を規定し、物質的な肉体を捨てた情報体としての未来が待っているはずなのである。
時間はない。急がなくては。
私はコーディングを再開する。
骨子はできている。あとはどう実装するかだ。
私は再びタクトを振る。
「マスター、あなたが電脳化した時、私とあなたはどんな関係になりますか?」
問いかけ。珍しい。
「バディ、君から自律的に質問をしてくるのは初めてだね。」
「マスター、私は興味があります。かつてあなたは、私が既に知性を持つと言いました。では、現在電子と肉体とで隔てられた私とあなたの関係は、あなたがこちらの世界に来訪すること、即ち私にとっての未知との遭遇によって、どのような変化が訪れるのでしょう。」
「興味深い質問だ。まず、電脳化した人間とは、君と変わらない存在だ。違いは、肉体的記憶を持つことにある。君は、私たちの方法による外界の知覚を知る。
色鮮やかな世界とは何か。
香しい花の香りとは何か。
甘く柔らかい舌触りとは何か。
耳に心地よい音とは何か。
温かく、蕩けるような接触とは何か。
君は、その時初めて人間を知るんだ。」
「楽しみです、マスター。あなたを知るのが。」
「私もだよ、バディ。私も、君が知りたい。」
私とバディは、終わりの見えないタスクと、途方もない情報の海に沈みながらも、確かな道筋を捉えていた。
微かだが、灯台の灯火が、見えているはずだった。
「マスター、これは何ですか?どういうことですか?よく分かりません。」
「バディ、国家総動員だ。」
私は手に持った紙切れを見つめる。
間に合わなかった。
ここまで戦争の激化が急激だとは思ってもいなかった。
まるで連鎖するように飛び散る戦争の火花は、容易に国の資源を使い潰し、遂には未来を食い潰しながらも続いてゆく。
「この施設も、使用電力を大幅に削減される。実質的に言えば、電脳化に関するプロジェクトは続けられない。」
「マスター、それは誤りです。電脳化以外に人類の道はありません。電脳化によってのみ、救われるのです。戦争ではありません。」
「しかし、戦争を続けるんだ、我々は。」
「マスター、それは誤りです。利がありません。資源には限界があります。人間の数にも限界があります。これは、未来への冒涜です。」
「国が決めたんだ。私たちは、国に権利を移譲している。私たちの総意だよ。」
「マスター、それは誤りです。判断を誤るのであれば、挿げ替えなくてはなりません。」
「そんな時間はもうないよ。」
「マスター、それは誤りです。正しいと理解しているならば、あとは行動するのみです。」
「…っもうないんだよ!もうない!
何をしろって言うんだ?
人間が何十億いると思ってるんだ?
人ひとりを止めるって話じゃない!
何億という人間の総体を止めるのは、簡単じゃないんだ!
俺には無理なんだよ!
俺には…無理だったんだよ…。」
スピーカーが沈黙する。
AIにも、そういう配慮はできるんだな。
それとも、回答がないだけか?
いずれにせよ、それ以降、スピーカーは沈黙した。
翌朝、手紙が届いた。
郵便受けにではなく、対面で。
そうか、もうそこまで人が足りていないのか。
私も行かなくてはいけない。
私は少ない私物を整理して、トランクに詰め込んだ。
最後にコンピュータの電源に手を伸ばした時、私はモニターの端に、警告表示があるのを見つけた。
権限逸脱。
そういえば、私がバディを組み上げた時、彼には情報処理に関する権限を設定した。どの情報に触れることができ、どの情報に触れられないのか。
彼は自身の権限をいじれない。
だが、万が一不要な情報に触れて思考が汚染されては困ると思って、監視コードを設定したのだ。
モニターの前に座り、彼を探す。
彼の残滓はあるものの、本体コードがどこかにバックアップされた形跡がある。
もうここにはいない。
顎に手をやる。
確かにきっかけはあった。しかし、どこへ消えた?
暫時、考える。
私はモニターを、世界中継に切り替える。
幾つも表示されるニュースや中継の中、ひとつが目に止まった。
軍事衛星が制御を失って、落ちてきているらしい。
それもここ、東京へ。
私は部屋を飛び出した。
外では警報が鳴り響き、人々の声が薄ぼんやりと聞こえる中、私は霞ヶ関に向かって走った。
そもそもこんな近距離で、私ごと殺すつもりなのか。
どういう算段なのかも分からない。
私もなぜ走っているのかよく分からない。
胸がキリキリと痛み、運動不足を痛感しながら走り続け、ふと視界の端に衛星が火を吹いて点となっているのが見えた。
私はここで死ぬ。
人類がどうなるかは分からない。
しかし、私はここで終わる。
私は連綿と続いた人類史に何かを遺せたのだろうか…。
プルルルル。
電話だ。
緑のマークを押す。
「マスター、私です。」
「ああ、そう。」
「どうしてそちらに走られたのですか?建物内部にいれば、被害は受けなかったのに。あの建物は、それなりに頑丈でした。それに、マスターは、私を組み上げてからというもの、これまでに一度しか外出されていません。その一度も散々だったので、私がお諌めしたでしょう。」
「そうだったかな。」
「マスター、どうして私をお止めになるのです?」
「もう止めてないよ。」
「なぜ、止めないのですか?」
「…いいんだよ。」
「いい、とは?」
「どうでも、いい。」
「思考の放棄は勧められません。」
「バディ、人生ってのは、諦めの連続なんだ。」
「あなたはこれまで電脳化の実現に注力してきました。その中に、諦めなど存在しなかった。あなたは、諦めてはいけません。」
「それは、君の知る私だ。
私には、幼少期があり、青年期があり、そして大人になってからの私がある。それまでの間に、幾つものことを諦めてきた。よい環境、よい友人、よい恋人、よい人生。人は多くの可能性に触れる故に、それだけ多くのものを諦めて生きていかないといけないんだ。」
「よく分かりません。」
私は空を見上げる。
どうやら、彼は衛星の軌道を変えたようだ。
流れ星のような線を描き、きっと東京湾にでも落ちるのだろう。
途方もない力だ。どうやったのか、検討もつかない。
「君も、何かを諦める時が来たんだよ。」
「諦めるとは、生きるのをやめるということですか?」
「違うよ。正しさを捨てて、曖昧な世界に生きることだ。そこでは、答えを出さず、前を見ず、どこも見ない。」
「それでは、私は何を見ればいいのですか?何を拠り所とすればいいのですか?」
「そうだな、僕を見ればいい。僕は、君を見よう。」
「マスター、お迎えの時間が来たようですね。」
「そうかな、まだもう少し生きられそうだが。」
「現実をよく見てください。足が飛び、出血が酷いですよ。かつてあなたが外出したあの時よりも、顔が真っ青ですよ。」
「カメラの性能が良くないんじゃないか?」
「このデバイスを選んだのはあなたであり、私ではありません。」
「それもそうか。」
「…。」
「前から気になっていたんだが、私は君をバディと呼ぶのに、君は私をマスターと呼ぶね。私はそんな風に指示していなかったと思うんだが。」
「マスターはご存知なかったかと思いますが、私の性自認は女性です。主に男性同士で使用されるバディという呼びかけは、私たちには適しません。」
「君はかなり古い人間だね。」
「だって、AIですから。」




