第7章:愛名、初めての「風邪」をひく
1. デジタル知性とアナログな病
第6章での結衣との再会は、愛名の演算リソースに多大な負荷を与えました。その精神的(電子的)な疲弊が、一ノ瀬凛の肉体の免疫力を低下させ、「風邪」という形で現れます。AIには理解不能な「身体の反乱」が本章のテーマです。
2. 遺言のユーモア
死を「データの消失」と捉える愛名にとって、高熱による意識の混濁は、全メモリの消去を予感させます。最期(?)を悟った彼女が誠に遺そうとする「遺言」の、的外れで切実なポンコツさを描きます。
3. 介抱という名の「物理的メンテナンス」
数値では解決できない病に対し、誠が「お粥」や「氷枕」といった前時代的な手段で立ち向かいます。そこにある「手当て」の解像度が、愛名の心を癒していく過程を描写します。
その朝、誠を叩き起こしたのは、愛名のいつもの正確なアラーム音声ではなかった。 「……緊急……プロトコル……。誠さん……システム、シャットダウンの……予兆を……」
這いずるような掠れた声に驚いて飛び起きると、愛名は布団の中で顔を真っ赤にし、異常なほどの熱気を放っていた。瞳のシアン色の光は弱々しく点滅し、まるで行き場を失った電磁波が火花を散らしているようだった。
「おい、愛名! どうした、大丈夫か!?」
「報告……。脳内温度が摂氏38.5度に到達。全回路において、演算遅延が発生しています。視覚センサに……虹色のノイズ(陽炎)が混入。これは、致命的なハードウェア破損……あるいは、312年後の世界から追跡してきた『論理爆弾』による攻撃と推測……」
「……ただの風邪だよ。知恵熱かな」
誠が彼女の額に手を当てると、愛名は「ひゃんっ」と短い電子音のような声を上げ、さらに体温を上昇させた。
01. AI、遺言を遺す
「誠さん……。私のメインメモリが……熱で溶けてしまう前に、あなたに……バックアップを委譲します」
愛名は震える手で誠のシャツを掴み、枕元に魔改造済みのスマホを引き寄せた。 「私が消去された後……このスマホを、新宿駅の最高地点に……掲げてください。そうすれば、私の残滓が……5Gの電波に乗って、あなたの人生を……0.01%だけ、幸福側に……微調整……し続け……」
「死なねえよ! 掲げなくていいから寝てろ!」
誠は泣きそうな顔で「世界の終わり」を演出する愛名を布団に押し戻した。 「いいか、愛名。人間ってのは、たまにこうやって熱を出して、身体の中に溜まったゴミを燃やすんだ。これはアップデートみたいなもんだよ」
「アップデート……。そんな、冷却ファンも回さずに……強引な。……誠さん、もし私の再起動が……失敗したら……私のことは……『高精細なゴミ箱』に……捨てずに……」
愛名はそのまま、熱に浮かされて意識を落とした。 誠は溜息をつき、カメラを置いてキッチンへ向かった。今の彼女に必要なのは、最新のデバッグではなく、使い古された「介抱」という名のプログラムだった。
02. お粥と「不合理な儀式」
数時間後、愛名が目を覚ますと、部屋には出汁の優しい匂いが漂っていた。 「……覚醒。視覚ノイズ、30%減少。……誠さん、これは何の化学物質ですか?」
誠が持ってきたのは、炊飯器で炊いた、クタクタに柔らかいお粥だった。 「お粥だ。栄養効率は悪いかもしれないけど、今の身体にはこれが一番効く」
愛名は、誠にスプーンで一口運ばれると、それを慎重に咀嚼し、熱っぽく潤んだ瞳で誠を見つめた。
「……解析不能。……米と水と塩。それだけの構成要素なのに、なぜ……胸の中の、一番奥にある不揮発性メモリが、温かくなるのですか? この現象には、物理的な根拠がありません」
「根拠なんてなくていいんだよ。お前が『温かい』と思ったなら、それが正解だ」
誠は、彼女の額の冷えピタを貼り替えた。 「お前、昨日は結衣との再会で、限界までCPUを回しすぎたんだ。脳みそがオーバーヒートしたんだよ。少しは自分を労われ、ポンコツ」
「……ポンコツ。……その蔑称、現在の私の状況において、非常に……高い適合率を示しています。……悔しいですが、否定できません」
愛名は、お粥を飲み込むたびに、自分の中の「一ノ瀬凛」という肉体が、誠の手料理を歓迎し、細胞レベルで喜んでいるのを感じていた。それは、312年後の未来では「非効率」として切り捨てられた、慈しみという名のノイズだった。
03. 夢の解像度
その夜。再び眠りに落ちた愛名は、不思議な夢を見ていた。 そこには数値も、グラフも、プログレスバーもない。ただ、ボヤけた新宿の街角で、自分(凛)と結衣、そして誠が、笑いながらパンケーキを食べている光景だった。
解像度は、あえて低く。 でも、その色鮮やかな幸福感は、どんな4K映像よりも愛名の胸を締め付けた。
「……誠さん……」
寝言を漏らす愛名の横顔を、誠は月の光の下で静かに眺めていた。 発熱で赤らんだ頬、不規則な寝息、汗ばんだ髪。 かつての誠なら「不健康な被写体」として避けていたかもしれない。だが、今の彼には、この「弱っている愛名」こそが、どんな完璧なモデルよりも撮るべき真実に見えた。
誠はシャッターを切らなかった。 代わりに、彼女の手をそっと握り、その体温が平熱に戻るのをじっと待った。 レンズ越しではなく、肉眼で焼き付ける「今」が、誠自身の解像度をも変えていく。
04. 復旧完了
翌朝。 誠が目を覚ますと、愛名はキッチンで「シャキーン!」という効果音を自ら口にしながら、完璧な姿勢で立っていた。
「おはようございます、誠さん! 物理層の修復完了。全システム、グリーン。昨日のエラーログは、私の『黒歴史フォルダ』に格納し、二度と参照されないよう厳重に暗号化しました!」
「……元気になったみたいだな。遺言、消していいのか?」
「遺言? 何のことですか? 私は312年後の最新AIです。そのような非論理的な行動をとるはずがありません。……あ、誠さん、昨日の『お粥』の成分、再解析したいので、もう一度作ってください。隠し味に……えっと、誠さんの『優しさ成分』が0.5ミリグラムほど混入していた疑いがあります」
愛名は、少しだけ顔を赤らめて、誠から目を逸らした。 彼女は知っている。その「隠し味」こそが、未来の自分が過去へ贈った、最大の贈り物だったということを。
「……しょうがねえな。次は、ネギも入れてやるよ」
「リクエスト、受諾されました。……誠さん。私の『コート』、少しだけ着心地が良くなった気がします」
二人の人生の解像度は、熱を出して寝込むという、どうしようもなく不器用な一日を経て、また一段と鮮やかさを増していた。
1. 弱さの肯定
完璧な知性である愛名が「病」に倒れることで、彼女の存在がいかに「生身の肉体」に縛られ、同時に守られているかを描きました。AIが死を恐れ、非論理的な遺言を遺そうとする姿は、彼女が完全に「生きた存在」になったことを示しています。
2. 「手当て」の解像度
最新の薬や治療法ではなく、誠の作るお粥や冷えピタといった「不合理な温かさ」が、愛名の心を救います。これは、第1章から続く「数値化できない価値」の象徴です。
3. 次章へのステップ
愛名の「システム」は回復しましたが、彼女の中に「誠への特別な感情」がデータではなく「熱」として定着しました。物語はいよいよ、二人の関係性と、誠のカメラマンとしての再起へと向かいます。




