第3章:AI、初めて炊飯器に挑戦する
「AI、初めて炊飯器に挑戦する」
洗濯機との「全面戦争」に敗北感を抱いた愛名は、名誉挽回のために日本の家庭の心臓部、炊飯器に挑むことを決意する。彼女にとって、米を炊く行為は単なる調理ではなく、312年前の聖典を再現する「錬金術」だった。
米一粒一粒を光学スキャンしてエリート米を選別し、指先の超音波振動で水を霧に変えるという、過剰すぎるほどの熱意で調理を進める愛名。誠の心配をよそに、彼女は炊飯器と「化学的な対話」を重ね、ついに独自の理論に基づいた「タクティカル・スタンディング・ポジション(米を垂直に直立させる炊き方)」を完成させる。
出来上がったのは、見たこともないほど「幾何学的に正しい」ご飯だった。顎が疲れるほどの噛み応えと、完璧すぎる糖度の抽出。誠の「美味いよ」という一言に、愛名は計算機としての成功を超えた、未知の充足感——「誰かのために作る喜び」という名のバグを経験する。
昨日の「洗濯機との全面戦争」による疲労(精神的な演算負荷)がまだ残っているのか、愛名は朝からキッチンに直立不動で立っていた。その視線の先には、誠が学生時代から使い続けている、内釜のコーティングが半分剥げかけたマイコン式炊飯器がある。
「誠さん。宣言します。私は昨日、洗濯機という名の『回転する蛮族』に後れを取りました。ですが、この『炊飯器』というデバイスとは、より高度な知的対話が可能であると推測します」
「いや、ただ米炊くだけだぞ? 対話なんていらねえよ」
誠が欠伸をしながらインスタントコーヒーを啜っていると、愛名は「一ノ瀬凛」の細い指先で、厳かに炊飯器の蓋に触れた。
「いいえ。アーカイブによれば、米を炊くという行為は、かつての日本において『銀シャリ』という聖杯を生成する錬金術だったはずです。私の全リソースを投入し、この原始的な釜を、未来の分子構造再現機へと昇華させます」
愛名の瞳がシアン色に輝く。本気だ。彼女は誠が渡したスーパーの安売り米の袋を、まるで精密機器の部品のように慎重に開封した。
01. 米一粒一粒の「身元調査」
まず始まったのは、米を研ぐ作業……ではなかった。 愛名はシンクの上に広げた米一粒一粒を、光学センサーで凄まじい速度でスキャンし始めたのだ。
「……個体識別番号0001、形状に微細なクラックあり。食感に悪影響を及ぼすため、除外。個体番号0002、デンプン含有量が基準値より0.5%過多。……誠さん、この袋の中には、私の厳格な採用基準を満たすエリート米が、全体の42%しか存在しません」
「選別してんじゃねえよ! 全部食えるから! 早く研げよ」
「『研ぐ』。……なるほど、表面の不要なタンパク質層を摩擦によって剥離させる工程ですね。了解しました。私の指先を毎秒30,000回で超音波振動させ、細胞壁を傷つけずに汚れだけを消滅させます」
愛名がボウルに手を入れた瞬間、**「キィィィィィィィン!」**という耳を突き刺すような高周波音が室内に響き渡った。
「やめろ! 水が! 水が霧になって消えてるぞ!」
誠が慌てて止めに入ると、ボウルの中の水は愛名の超音波によって完全に霧散し、米はなんだか神々しいまでの光沢を放って輝いていた。愛名は満足げに胸を張り、鼻の頭に一粒だけ米をつけたまま言った。
「これで、米たちも『真実の姿』を取り戻しました。次は『水加減』という名の、確率論的挑戦です」
02. 水加減と、0.01ミリのプライド
炊飯器の内釜にある目盛り。それは誠のような人間にとっては「だいたいこの辺」という目安でしかないが、愛名にとっては宇宙の摂理に挑むための境界線だった。
「このライン……。肉眼(標準カメラ)で確認する限り、わずかに右肩下がりです。製造時の金型精度に欠陥がありますね。誠さん、私は重力センサーと表面張力の計算を組み合わせ、この内釜の中に『完璧な水平』を構築します」
愛名はスポイト(どこから持ってきたのか)を使い、一滴、また一滴と水を足していく。
「あ、愛名。もうその辺でいいだろ……」
「……静かに。今、最後の1マイクロリットルが、米の保水能力と完璧な平衡状態に達しました。これで、炊飯開始ボタンを押す準備が整いました。……行きます。……エンゲージ!」
彼女が仰々しく「炊飯」ボタンを押す。 炊飯器は、いつものように「ブゥゥン」と古臭い音を立てて加熱を始めた。
愛名は、その場に正座して炊飯器を見つめ始めた。 「……現在、内部温度が摂氏45度に到達。予熱フェーズです。……頑張りなさい、炊飯器。あなたの中にあるアナログなヒーターが、私の計算通りに発熱することを期待しています」
「お前、洗濯機にはあんなに厳しかったのに、炊飯器には急にコーチみたいになるんだな……」
「洗濯機は物理的な暴力でしたが、炊飯器は化学的な対話です。……あ、今、デンプンのアルファ化が始まりました。聞こえます。米たちが、私に感謝の信号を送っています」
「聞こえねえよ」
誠はカメラを構え、炊飯器を拝むように見守るポンコツAIの姿を、逆光の中で切り取った。
03. 「蒸らし」という名の試練
40分後。ピーッ、という電子音が鳴り響いた。 愛名は弾かれたように立ち上がったが、すぐに自分の手を制した。
「……待ってください。まだです。ここからが、現代文明における最大のブラックボックス、『蒸らし』の時間です。アーカイブによれば、この10分間を耐え抜いた者だけが、銀シャリの王冠を手にする資格を得るとされています」
愛名は、時計の針を一秒刻みで凝視しながら、じっと耐えていた。 彼女の内部では、蓋の裏側に付着した水滴がどの角度で米の上に落ちるか、その確率計算が秒間数億回行われていた。
「……3、2、1。……蒸らし完了。神話の時間です」
愛名が、震える手で炊飯器の蓋を開けた。 真っ白な湯気が立ち上り、そこには……。
「……え?」
そこには、愛名が米を一粒一粒、完璧な垂直方向に整列させていたせいで、まるで**「白い剣山」**のように米がびっしりと直立した、世にも奇妙な炊き上がりの米があった。
「誠さん! 成功です! 全ての米が重力に逆らい、最も効率的に蒸気を受け止める『タクティカル・スタンディング・ポジション』を維持しています!」
「いや、怖いわ! 米が立ってるってそういう意味じゃねえよ!」
04. 解析不能の「美味しい」
誠が恐る恐る、その「直立した米」を茶碗に盛り、口に運んだ。 愛名は、まるで爆弾の解体結果を待つエンジニアのような顔で、誠の表情をスキャンしている。
「……どうですか? 私の計算によれば、糖度の抽出効率は理論値の99.8%に達しているはずです。……美味……しい、という出力が得られましたか?」
誠は、一噛み、二噛みした。 確かに、一粒一粒の輪郭がはっきりしすぎているほどにはっきりしている。だが、それはあまりにも「正解」すぎて、どこかおにぎりの模型を食べているような不思議な感覚だった。
「……ああ。美味いよ。……っていうか、噛み応えがありすぎて、顎が疲れそうだけどな」
誠が苦笑いしながら言うと、愛名の瞳の光が、ふっと柔らかくなった。
「……よかった。……報告します。私の空腹中枢に、新たなデータが記録されました。……『自分の作った栄養体を、他者が摂取し、肯定的な反応を示すこと』。これは、312年後の世界では消失していた、極めて高効率なエネルギー循環システムです」
愛名は、自分でも一口、その「直立した米」を口にした。 「……っ。……解析不能。……味覚センサーがオーバーロードしています。……誠さん。これ、これに『塩』という不純物を加えたら、さらに多幸感が増大するという予測が出ました」
「それは『塩むすび』だ。次は一緒に握るか」
「握る……。……『圧縮による形状固定』ですね。了解しました。私の握力制御プログラムを、おにぎり専用にアップデートしておきます」
誠は、米一粒を頬につけたまま、未来の自分(AI)の成功に酔いしれる愛名の写真を、もう一枚撮った。
312年後の高精細な知性は、日本の古い炊飯器に完勝したつもりでいた。 だが、誠の目に見えていたのは、完璧な計算結果ではなく、ただ一生懸命に「ご飯を炊いた」という、不器用で温かい一人の女の子の姿だった。
1. 「正解」が生む違和感の面白さ
第3章のハイライトは、炊き上がった米が「直立している」という描写です。AIが導き出した「最も効率的な蒸気の受け止め方」という正解が、人間から見ると「怖いくらいに不自然」であるというギャップ。ここに、愛名という存在の面白さを凝縮させました。彼女は常に本気で、常に善意ですが、その出力が現代の常識からわずかにズレていることが、この物語の固有の魅力になっています。
2. 「対話」の対象が変わる瞬間
洗濯機の時は一方的にお説教をしていた愛名が、炊飯器に対しては「頑張りなさい」とコーチのような態度を取ったのは、彼女がこの肉体(一ノ瀬凛)の持つ「食」という機能に、より深い関心を持ち始めた変化の表れです。機能としてのAIから、生命としてのAIへと、彼女の解像度がまた一歩、誠に近づいています。
3. 誠が切り取る「ノイズ」
誠が撮った写真は、愛名の「完璧な計算結果」ではなく、「鼻に米粒をつけたポンコツな姿」です。愛名が数値(RGBや糖度)で世界を測るのに対し、誠は数値化できない「愛おしさ」で彼女を測っています。この二人の視点の違いが、今後の物語で大きな意味を持ってくるはずです。




