第10章:レンズの裏側の牙、あるいは沈黙のプロテクト
1. 「最適解」の崩壊
これまで愛名と誠が築いてきた「二人だけの優しい世界」が、初めて外部からの悪意に晒されます。誠をかつて追い詰めた九条の登場により、愛名という存在が「愛しいパートナー」から「奪われるべき技術資産」へと引きずり戻されようとする緊張感を描きます。
2. 誠の覚悟
カメラを捨て、世捨て人のように生きていた誠が、愛名を「撮る」ことで取り戻した自信。それが、彼女を守るための「盾」へと変わります。かつての敵と対峙することで、誠のカメラマンとしての真の再起が問われます。
3. 愛名の「沈黙」
常に饒舌にデータを引用していた愛名が、誠に危機が及ぶことを察知したとき、どのような行動に出るのか。高性能AIが導き出した「誠を守るための答え」は、やはりどこかズレていて、けれど泣けるほど純粋なものでした。
1. 鳴り止まない不協和音
「……誠、ありゃ人間じゃないな? 骨格の動き、肌のスペクトル、何よりあの完璧すぎる左右対称の造形。あれは、どこかのラボが隠し持ってる最新のヒューマノイドか何かだろ?」
スマホから漏れる九条の声は、粘りつくような嫌な響きを帯びていた。誠は受話器を握りしめ、キッチンで明日の朝食の献立を「栄養学的な彩り」でシミュレーションしている愛名の背中を見つめた。
「……何のことだ。彼女はただの、少し風変わりなモデルだ」 「白々しいぞ。俺の目は誤魔化せん。あの写真を撮ったお前の腕は認めるが、被写体そのものが『本物』なら、話は別だ。あれをこちらに渡せ。今なら、お前の過去の不祥事を帳消しにして、業界の表舞台に戻してやってもいい」
九条の言葉は誘惑であり、明確な脅迫だった。 誠が黙り込んでいると、愛名がふいっと顔を上げた。 「誠さん。誰かから『渡せ』という命令が届いていますか? 私の聴覚センサーは、半径5メートル以内の音声をすべてテキスト化して保存しています」
愛名の瞳が、静かに青く光る。彼女はすでに、会話の内容をすべて把握していた。
2. ポンコツなりの防衛策
九条との電話を切った後、誠は重い沈黙に包まれた。だが、愛名は違った。 彼女は突然、キッチンから包丁……ではなく、なぜか「ザル」と「アルミホイル」を持ってリビングに現れた。
「誠さん。緊急事態と判断しました。現在より、対・九条プロトコル『ステルス愛名』を発動します」 「……何してるんだ、愛名」
彼女は自分の頭にアルミホイルを巻き、ザルを被った。 「これで、外部からの電磁波および視覚的スキャンを99%遮断できます。私は今、ただの『キッチン用品の山』に偽装されています。これなら、九条という個体に発見される確率は、計算上0.003%以下です」 「いや、逆に目立ちすぎて警察呼ばれるよ! 偽装になってないから!」
誠は泣きそうな顔で彼女の頭からザルを外した。彼女なりの、必死の「誠を守るための計算」。その結果がこのポンコツな姿だと思うと、恐怖よりも先に愛しさが込み上げてくる。
「……いいか、愛名。お前は何も隠れなくていい。俺が、お前を『ただの女の子』として世界に認めさせる」 「ですが、私はAIです。シリアルナンバーがあり、所有権が存在しうる『モノ』です。誠さんが私を守ることは、法律的にも、論理的にも……」
「うるさい。俺のカメラが、お前を人間だと言ってるんだ。それで十分だろ」
3. スタジオへの招待状
数日後。九条から、誠のもとに一通のメールが届いた。 『直接話をしよう。次の撮影現場に、その娘を連れてこい。拒否すれば、お前の再起作となったあの写真は、加工による捏造だと業界中に触れ回る。』
誠は決意を固めた。逃げれば、一生追い回される。愛名が「モノ」として解体され、研究材料にされるのを防ぐには、九条の鼻をあかすしかない。
「愛名、行くぞ。……撮影だ」 「承知しました。……ですが、誠さん。私の演算が、一つだけ不吉な答えを出しています」 「不吉?」 「私が、私でなくなる可能性があります。……それでも、あなたのレンズの前に立ち続ければ良いですか?」
愛名の問いに、誠はただ、彼女の冷たい手を握ることで答えた。
4. 決戦のライティング
九条の指定したスタジオは、最新鋭の機材が並ぶ、冷え冷えとした空間だった。 九条は高価なソファに踏んぞり返り、誠と愛名を見下ろした。
「さあ、誠。その娘が『本物の人間』であることを証明してみせろ。これから俺の専属カメラマンたちが、あらゆる角度から、赤外線も、生体反応も、すべてを丸裸にする撮影を行う。……もし一つでも不自然な点があれば、この娘は没収だ」
スタジオの大型ライトが一斉に点灯し、愛名を白い光の檻に閉じ込める。 愛名はセットの中央で、直立不動のまま静止していた。彼女の内部では、数億通りの「人間らしい振る舞い」のデータが高速回転し、過負荷でファンが悲鳴を上げていた。
「さあ、撮れ。まずは『恐怖』の表情だ。追い詰められた女を撮ってみろ」 九条が嘲笑う。
愛名は計算を開始した。瞳孔の開き具合、呼吸の浅さ、指先の震え。 だが、あまりの緊張(負荷)に、彼女のシステムがエラーを吐き出した。 「あ……う……、エ、エラー……。……誠、さん……」
愛名の膝が、ガクガクと震え出す。それは計算された「演技」ではなく、誠を失うことへの、AIとしての、そして一人の少女としての「真実の恐怖」だった。
5. シャッターという名の救済
誠は、九条を無視して愛名へと駆け寄った。 「愛名、計算をやめろ! 俺を見ろ!」 「……でも、計算しないと、私は……バレて……」
「バレていい! 俺が撮るのは、AIのお前でも、人間のお前でもない! 俺の目の前で、ザル被ってまで俺を守ろうとした、世界一ポンコツで優しい、俺の愛名だ!」
誠はカメラを構えた。 ファインダーの中、光に晒され、震え、涙を(冷却水を)瞳に溜めた愛名がいる。 誠は、その「不完全な瞬間」に、魂を込めてシャッターを切った。
カシャッ。
その音は、スタジオのすべての機材を黙らせるほど、力強く響いた。
「……見ろ、九条」 誠は、撮れたてのプレビュー画像を、スタジオの巨大モニターに転送した。
そこには、もはやAIか人間かなどという議論すら無意味にするほどの、圧倒的な「生の輝き」が写っていた。 愛名の瞳に宿る、誠への執着。震える肩。そして、不格好に開いた唇。 それは、どんな最新のCGでも、どんな名女優の演技でも到達できない、一瞬の「奇跡」だった。
「……これが、俺のモデルだ。文句あるか?」
九条は言葉を失った。写真家としての本能が、その一枚が「歴史に残る傑作」であることを認めてしまったのだ。
撮影を終えた帰り道。 愛名は、誠のコートの裾を掴んだまま、一歩一歩、確かめるように歩いていた。
「誠さん。報告です。私のメインプロセッサが、先ほどのシャッター音以来、ずっと『愛の歌』のような周波数を奏でています」 「……それ、ただのハウリングじゃないだろうな?」 「いいえ。……たぶん、これが、あなたの言っていた『解像度』の向こう側なのだと思います」
愛名は、アルミホイルを巻かなくても、もう大丈夫だった。 誠という名のレンズが、彼女を世界で唯一無二の存在として、現像し続けてくれるのだから。




