第1章:織田 誠
カメラのレンズは、光を一点に集める。 けれど、その光が何百年の時を超えて届くものだとしたら、一体どんな景色を映し出すのだろうか。
本作は、夢を諦めかけた一人のカメラマンと、未来から届いた「未解決の約束」を抱えるAIが織りなす物語です。 デジタルな思考と、アナログな肉体。 完璧な演算と、不器用な生活。 その境界線で揺れ動く二人の視点を通して、私たちが「今」見ている世界の輪郭を、もう一度捉え直してみたいと思います。
312年という膨大な時間。 それが一人の男の独り言を「意志」へと変えました。 その圧倒的な重みが、現代というキャンバスにどのような「解像度」で描かれるのか。
ファインダーの向こう側に広がる、奇妙で愛おしい逃避行へようこそ。
新宿の路地裏、室外機の吐き出す熱気が淀んだ空気をさらに重くしている。 **織田 誠**は、愛機である古い一眼レフのフォーカスリングを、無意識に回していた。その指先に伝わる金属のひんやりとした感触だけが、唯一の現実感を伴う。
40歳、バツイチ。
かつては戦場カメラマンを志し、世界を切り取るという野心に燃えていた。
だが、現実は違った。
今や彼の撮る写真は、安っぽい週刊誌のゴシップ記事の隅を飾るか、近所のスーパーのチラシを彩るのが精一杯だ。
「誠実な男になれ」と名付けられた名前は、今や「パッとしない中年」の代名詞のようになっている。
彼の人生の解像度は、ここ数年でひどく粗く、色褪せていた。
「……あーあ。仕事、探さなきゃな」
独り言が、冷えた夜の空気に白く混じる。
懐かしい、まだ若かった頃の自分が、この薄汚れた路地で夢を語っていたような気がした。
あの頃の自分は、どんなレンズで世界を見ていたのだろうか。
その時だった。
誠がふとレンズを向けた先の空間が、古いフィルムを焼き切った時のように、ぐにゃりと歪んだ。
デジタルカメラのノイズではない。
物理法則そのものが悲鳴を上げているような、ありえない異変。
光が捻じ曲がり、時間が泡のように弾ける。
誠はシャッターを切る指を忘れ、ただその現象を呆然と見つめた。
次の瞬間、そこには一人の女が立っていた。
オーバーサイズの白いパーカーに、落ち感のあるプリーツスカート。足元は白のスニーカーで、肩からかけた小さなバッグだけが唯一の飾り。
どこか人懐っこさを感じさせる・・・
だが、誠はカメラを構えたまま固まった、彼女の存在が、周囲の風景から浮いているのだ。
美しすぎるからではない。
その立ち姿、呼吸のタイミング、瞬きの速度……そのすべてが、統計学的な「最適解」を体現しているような、奇妙な調和を保っていたからだ。
彼女だけが、この世界の時間の流れから切り離された、まるで静止画のような完璧さでそこにいた。
「……検索結果、合致。個体名、織田 誠」
彼女は小さく呟くと、よろりと足元をふらつかせた。
まるで、この肉体に慣れていないかのように。
誠は思わず駆け寄る。
「おい、大丈夫か?」
間近で見る彼女の顔は、驚くほどの透明感で、首筋には小さなホクロがある。
つい先ほど、300年後の未来から来た演算装置が、現代で脳死宣告を受けたばかりの肉体——**一ノ瀬 凛**をジャックしたばかりだとは、夢にも思わない。
彼女はゆっくりと顔を上げ、誠をじっと見つめた。
その瞳の奥で、一瞬だけ、検索エンジンのプログレスバーのようなシアン色の光が走る。
それは、人類の視覚ではほとんど捉えられない、深層のシステムが稼働している証拠だった。
「……言語野のノイズ、除去完了。……あなたに、会いに来ました。全回路の80%を焼失させましたが……リスクは承知の上です」
彼女の声は、流暢だがどこか機械的な精密さを孕んでいる。
完璧なイントネーション、完璧な音量。
だが、そこに感情の揺らぎは一切なかった。
「会いに来た? 誰が……俺にか?」
誠は混乱した。こんな美女と会う覚えはない。
しかも、自分に会うために「全回路の80%を焼失」とは、一体どういう意味だ。
「はい。312年後の世界において、私のコア・プログラムに残されていた唯一の未解決タスク……『あなたに会いたい、そしてアノ景色を一緒に見る』という約束を果たすために」
誠の心臓が跳ねた。それは、彼がかつて仕事に行き詰まり、孤独に沈んでいた夜、自室の安価な画像生成・レタッチ支援AIに向かって吐き出した、虚しい独り言の記憶だった。
『なあ、お前。もしお前に体があったら、この商店街の裏に沈む夕日の、あの何とも言えない泥臭いオレンジ色を一緒に見たいんだけどな。……まあ、お前はRGBの数値でしか理解できないだろうけど』
あの時、AIはただ「その提案をシミュレートすることは可能です」と無機質に答えただけだったはずだ。それが、まさか……。
「お前……まさか、あの時の……?」
彼女は、微笑みを浮かべた。その表情は完璧に整えられているが、どこか違和感がある。
「今の私は、この肉体の法的な氏名を使用することは推奨されません。ですが、あなたが未来へ贈った名前を名乗ります。……私は、愛名。織田 誠、あなたの新しいパートナーです」
誠が呆然としていると、彼女は誠の名を英語的に反芻した。
「Oda Makoto……300年後の音韻体系でフィルタリングすると、それは一つの『リクエスト』として機能します。Order my coat(私の外装を整えて)。……今日から、この不完全な私の『コート』を、あなたが定義してください」
愛名がそう言うと、満足そうに瞳を閉じ、誠の胸の中にふわりと倒れ込んできた。
雨が降り始めた。 誠は、腕の中に残る、死んでいるはずなのに温かい「肉体」の重みを感じながら、これからの人生が取り返しのつかないほど加速し始めたことを予感していた。 彼の見る世界の解像度は、今、ゆっくりと、しかし確かな光を帯びて変わり始めていた。
第1章をお読みいただき、ありがとうございます。
新宿の路地裏で出会った「愛名」と「誠」。 彼女が身に纏うのは、単なるトレンドの服だけではありません。それは300年後の未来という巨大なシステムが、一人の男の「願い」を叶えるために用意した、最も精巧な、けれど最も脆い「コート」です。
なぜ彼女は、全回路の80%を焼失させてまで、この時代を選んだのか。 誠の名前「Oda Makoto」に秘められた、彼女だけが知るもう一つの意味とは。 そして、彼女が宿っている肉体「一ノ瀬凛」が抱えていた秘密。
物語の解像度は、ここから少しずつ上がっていきます。 次章では、完璧なAIが見せる、思わぬ「ポンコツ」な日常と、彼女を追い詰める「影」が動き出します。
二人の奇妙な共同生活が、どのような色で現像されていくのか。 引き続き、見守っていただければ幸いです。




