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~澄んだ風~

枕元のスマートフォンをタップすると、ロック画面には「16:00」という数字が無機質に並んでいた。  また一日が終わろうとしている。  重力を数倍に感じるような気だるさを引きずりながら、俺はベッドから身体を起こした。


 布団の上に座り込む。まだ覚醒しきらない頭に、ふと空白の時間が生まれた。  ――それがまずかったのかもしれない。  嫌でも過去の記憶が呼び起こされてしまう。


 俺は昔から「親切」をモットーにして生きてきたつもりだった。  誰かが困っていたら手を貸す。誰もやりたがらない雑務を引き受ける。  宿題の答えを見せてやったり、予備のレポート用紙をあげたり、自分の持っているものを分け与えることだってよくあった。  最初の頃はうまくいっていたのだろう。「ありがとう」「助かるよ」「悪いね」など、感謝や相手が感じる多少の申し訳なさといった感情が伝わり、そのやり取りが心地よく、俺の居場所はそこにあった。


 だが、親切というのは、繰り返せば「日常」になり、やがて「権利」へと変質する。  いつしか感謝の言葉は消え、俺が動くことが周囲にとっての「当たり前」になった。  宿題の答えを見せるのも、自分の作業が終わってなくとも他人を手伝うことも。  そんな空気に息苦しくなって、俺は少し周りとの距離をとることにした。


 しかし、そんな俺の事情など、クラスメイトには関係のないことだった。  俺が手を貸さなくなった途端、周囲の空気は冷ややかなものに変わった。まるで、親切という機能を持たない俺には、もう何の価値もないとでも言うように。  俺はそんな露骨な態度の変化に、ただ力なく苦笑いすることしかできなかった。  直接言われたわけじゃない。けれど、教室の隅から聞こえてくる声が、俺の胸をえぐる。 「自分から手伝うって言ってきたくせに、急にやめるとかありえなくない?」 「無責任だよね」


 その言葉は、呪いのように俺を縛り付けた。  ――確かに、最初に「やるよ」と言ったのは俺だ。  だったら、一度始めたことは、死ぬまでやり続けなきゃいけないのか?  勝手に作り上げられた義務感と、終わりのない奉仕へのプレッシャー。そんなものが泥のように積み重なって、ある日、俺の中で何かがプツリと切れた。  それが、高校一年の夏のことだ。


 それから、約一年。  俺は世界との関わりを断ち、この部屋に引きこもり続けている。


 ふう、と重い溜息が漏れた。  目覚めて早々、余計なことを考えすぎてしまったようだ。 「……水」  かすれた声が、無意識に漏れた。  俺はのろりと身体を動かした。


 部屋を出て、廊下を歩く。  この一角はまだ、俺の部屋と同じよどんだ空気が溜まっている。  L字型に折れ曲がった階段の、最初の一辺を下る。壁に囲まれたこの数段は、まだ何も感じない。ただ惰性で足を運ぶだけだ。


 踊り場で身体の向きを変え、折り返しの角を曲がった、その時だった。


 ふわり、と空気が変わった。


 残りの階段はあと五、六段。  俺はまだ真下を向き、自分のつま先だけを見つめて降りていく。  けれど、視覚より先に、鼻腔をくすぐるものがあった。  川の水気を含んだ湿り気と、夏の草の青い匂い。  ――心地よい匂いだ。  無意識に深く息を吸い込みながら、一段、また一段と降りていく。


 三段、二段……。  降りるたびに、匂いは濃くなり、足元に流れてくる空気の層が変わっていくのを感じる。


 そして、最後の一段に足を下ろした瞬間。


 ぶわっ、と。


 たっぷりと水気を含んだ風の波が、全身を優しく包み込んだ。  叩きつけるような強さはなく、まるで身体の輪郭を撫でていくように、滑らかに通り抜けていく。  伸びた髪が、風に乗ってふわりと持ち上がり、さらさらと揺れる。


 その心地よい涼やかさに誘われるように、俺はゆっくりと顔を上げた。  視界いっぱいに、淡い夕暮れの空と河川敷の緑が広がる。


 不思議だった。  その柔らかな風が通り抜けただけなのに、動画サイトの巡回で頭に溜め込んだノイズも、胸の奥にへばりついていた黒い感情も、嘘のように軽くなっていく。  風が、俺の中の要らないものを、優しく撫でて持ち去ってくれたような気がした。


 ああ、と息が漏れる。


 何かが終わって、何かが始まった。  そんな予感だけが、静かに俺の心を満たしていた。


 どれくらいの時間、そうして立ち尽くしていただろうか。  俺はただ、窓枠というキャンバスの中で、刻一刻と色を変えていく淡い空と、風に揺れる河川敷の草波を眺めていた。


 ガチャン、と。  背後の玄関で、鍵が開く音がした。


「……っ」


 その日常的な金属音に、俺は弾かれたように我に返った。  魔法が解けたような心許なさを感じて振り返ると、リビングのドアが開き、母さんが買い物袋を提げて入ってくるところだった。


「あら、起きてたの」


 母さんは俺と、そして開け放たれた窓を交互に見て、ふんわりと目を細めた。

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