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白い機械(デア・ヴァイセ・マシーネ)

ヤコブスは、静かに陽太のほうへ歩み寄ってきた。床に落ちた面は、その存在を無視するように、高熱を発し続けている。

「君の親友の知識は、極上のワインだった。だが、君の知識はまだ青い。しかし、君の魂は、恐怖と好奇心で激しく震えている。それもまた、味わい深い。」

男は、陽太の首筋に顔を近づけた。冷たい銀髪が陽太の頬を掠め、ホルマリンと鉄の甘い匂いが、陽太の鼻腔を突いた。

「まだだな、今日のデザートは、別のものにしよう。」

ヤコブスの赤く光る瞳が、陽太の背後の雪乃を捉えた。雪乃は、陽太の逃亡を手助けするため、まだ蔵の中に留まっていたのだ。

「私にとって、知恵を吸うことと、血を吸うことに、大した違いはない。どちらも、命の最も濃いエキスだ。」

鋭い牙が、青白い光の中で鈍く光った。

「少女よ、そなたを私に捧げたまえ。」

雪乃の喉笛に、ヤコブスの吐息がかかった。それは凍てつくほど冷たいが、同時に甘い誘惑に満ちていた。ヤコブスは、華族の令嬢が持つ強迫的なまでの知性――完璧な論理と情報処理能力――に、抗いがたい魅力を感じていた。

陽太は、軍刀を抜く暇もなく、ただ「やめろ!」と叫ぶことしかできなかった。彼の怒りは、ヤコブスの持つ超越的な合理性の前に、ただのノイズとして霧散した。

ブシュッという、湿った鈍い音。

雪乃の顔から、急速に血の気が失われていく。同時に、彼女の瞳の奥にあった、強迫的なまでの理知の光が、急速に消え失せていった。彼女の脳から、すべての知性が、石英の電波に乗ってヤコブスへと流れ込んでいるのだ。その過程は、まるで乾いた大地が水を吸い上げるように、あまりにも迅速で、そして、静謐だった。

ヤコブスは恍惚とした表情で、雪乃の命のエキスを飲み干した。雪乃の体は、知性と血を同時に失い、まるで蝋人形のように冷たい床に崩れ落ちた。その口元には、乾いた雪の結晶がわずかに付着していた。彼女の最後の知恵は、あの「石英の通信網」の真実だったのだ。

大正の冬、雪に混じった石英片が降り積もるこの夜、知性の探求者であった藤沢雪乃は、その探究心の末に、命と知性の全てを吸い尽くされて絶命した。

蔵の外では、雪が降り続く。そして、街で、別の誰かが「知恵喰らいの面」を顔に当て、その黒い脂を舐めている。


「素晴らしい。完璧な論理だ。私の通信網の解析データまで含まれている。」

ヤコブスは、満足げに赤いネクタイを撫で、雪乃の遺体に一瞥もくれなかった。彼は陽太の存在も無視し、そのまま蔵の奥へと、音もなく消えていった。

陽太は、床に横たわる雪乃の冷たい手を握りしめることしかできなかった。友人の死、そしてその知性が、ヤコブスの糧になったという事実に、彼の脳は拒絶反応を起こした。彼の知性は、ヤコブスの理論を理解していたが、彼の感情は、それを決して許容できなかった。

ヤコブスが姿を消してから、数分。陽太は雪乃を抱きかかえ、その場から離れようとしたが、彼はすでに遅かった。

蔵は、音もなく、もぬけの殻となった。面が積まれていた棚は、まるで最初から何もなかったかのように消え失せ、ヤコブスの痕跡も、赤いネクタイも、すべてが降り積もった石英片の下に消え去っていた。ヤコブスは、雪乃の知性の吸収を完了した瞬間、彼の通信網を通じて、ここから完全に脱出したのだ。

雪乃の遺体が発見されたのは、翌朝、問屋の蔵だった。

その死を、警察は「急な病死」として処理した。裏では、藤沢家と香月家(父)が必死に揉み消しに動いた。華族の娘の急死と、香月家が関わる独逸の新技術。全てが世間に露呈することを恐れた彼らの、冷酷な合理性だった。表向きは何も起こらなかった。

陽太は、雪乃が己の命と引き換えに明らかにした「石英通信網」の真実、そして「燃えない面」の秘密を胸に、孤独な復讐を誓った。


陽太は数週間、ヤコブスの追跡に没頭した。

晶の空虚な姿、雪乃の命の灯が消える瞬間が、彼の脳裏から離れなかった。悲しみや怒りは、やがて冷たい探求心へと変質した。彼は、父の合理性とは異なる、復讐という名の感情を燃料に、ヤコブスの理論を独学で学び続けた。

面を巡る社交界の記録、独逸からの輸入ルート、そしてヤコブスが残したという「雪の通信機」に関する断片的な記録。陽太は、すべてを統合する必要があった。彼は、晶と雪乃の姿を脳裏に焼き付けながら、ただただ、ヤコブスの理論を学び続けた。

知性とは何か。命とは何か。

ヤコブスの理論は、あまりに完璧だった。彼の理論では、陽太の命も、感情も、ただの「ノイズ」か「エネルギー源」でしかなかった。この完璧な論理を打ち破るには、感情ではなく、より完璧な論理が必要だった。

そして、その知識の探求の果て、陽太は一つの極秘情報に辿り着く。

ヤコブスが帝都に来た真の目的。それは、単に知恵を吸い上げることではなかった。

ヤコブスは、集めた膨大な知性、雪乃の知識も含めた知性を使い、究極の「思考する機械」を完成させようとしていたのだ。

その機械は、独逸の秘密結社が開発を進めていた、石英の結晶と人間の脳髄を融合させた、巨大な演算装置――後世に『白い機械デア・ヴァイセ・マシーネ』と呼ばれるものの試作機だった。

ヤコブスは、この帝都の「知識の熱」を、この機械に流し込み、「感情を持たず、完全に合理的な単一の知性」を創造しようとしていたのだ。彼の狙いは、世界を支配することでも、富を得ることでもない。彼の合理性の究極の追求――感情というノイズを排除した、完璧な知性の創造こそが目的だった。


陽太は、父の書斎に忍び込んだ。父は、雪乃の死を隠蔽したことで、疲労困憊していたが、陽太には目もくれなかった。

陽太が探したのは、雪乃が命と引き換えに父に託したはずの「燃えない面」の解析データだった。

彼は、父の机の鍵を開け、一通のレポートを見つけた。それは、雪乃の父に渡された面が、香月陽介によって解析された結果だった。

レポートには、ヤコブスの電波の対抗周波数を示す数式と、面が持つ石英結晶の構造を破壊するための、超高周波の発生装置の設計図が書かれていた。

「成功したんだ、雪乃……!」

雪乃の「完璧でなければならない」という強迫的な探求心は、ヤコブスの完璧な理論の裏を突き、対抗策の論理を、陽介という合理主義者を通じて具現化させたのだ。

陽太は、軍刀を外套の内側に隠し、父の解析レポートを懐に入れた。

すべての点と点が、今、一本の線で繋がった。

ヤコブスは、雪乃の知性を携え、そして「白い機械」と共に、帝都の地下深くに潜んでいる。

陽太は、夜の帳が降りた伊集院邸の裏庭へ、たった一人で再び向かった。彼はもう、無知なノイズではなかった。彼は、知性と感情、そして復讐の熱を燃料に、ヤコブスの完璧な世界を破壊するために武装した、人間という名の最終兵器となっていた。

目指すは、伊集院邸の蔵の奥。地下へと続く冷たい梯子の先にある、白い機械デア・ヴァイセ・マシーネの脈動する空間だ。



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