蕎麦屋の閉店
論争が一段落したところで、陽太は雪乃が報告した情報と、父の論理、そして自身の仮説をすべて統合した。
「藤沢さん。あなたの言った『電波』と、僕が蔵で感じた『異臭』、そして父の言う『淘汰』の理論が、全て繋がりました。」
「晶が倒れた夜、蔵の床下から昇ってきたのは、石英の粉塵と機械油の匂いです。あの面は、あなたの言う通り、石英に似た素材でできたアンテナ。そして、晶やあなたの父が倒れたのは、面そのものの毒ではなく、面が集めた信号による脳の熱病だ。」
雪乃は、とろろ蕎麦のように乱れのない論理で応じた。「ええ。つまり、面は帝都にばら撒かれた末端の受信機。そして、伊集院邸の地下にあるのは、全ての知性の熱を一箇所に集め、統合するための巨大な送信機。」
「そうだ。知性を集めている。父はそれを『進化のフィルター』と呼びましたが、それは淘汰ではない。本当にやろうとしているのは、『知性の熱の収奪』だ。」
陽太はさらに続けた。「晶は、あまりに優秀で、知性の熱量が大きすぎた。面は、その巨大な熱量を一気に吸い上げた結果、晶の脳を空洞化させた。一方、僕の父が確認した医師たちは、強靭な知性の持ち主であり、彼らは『面を短時間使用した』。彼らの脳を完全に破壊せず、知性の熱のサンプルとして、その情報を抽出しようとしている。」
「では、長靴と海老の儀式は?」雪乃が尋ねた。
「長靴は、雪に触れるものです。つまり、雪の結晶を吸い込んだ長靴は、電波を最も強く受ける場所になった。父様は、崩壊した知性の熱を、海老と氷砂糖という冷たい甘さで体内に取り込み、空洞化を埋めようとした。しかし、それは設計した毒の儀式の一部だったのです。」
陽太は、湯呑みの中の熱い蕎麦湯を見つめた。
「帝都の知性をすべて吸い上げ、地下の機械でそれを冷たい結晶、すなわち『完全に合理化された単一の知性』に変換しようとしている。」
蕎麦屋の主人が閉店を知らせるために戸を叩いた。論争は終わり、二人は出口へと向かった。
陽太は、入り口で外套を羽織りながら、雪乃に最後の役割を託した。
雪乃は、残りの蕎麦湯を一口で飲み干すと、席を立った。彼女の強迫的な思考は、陽太の持つ科学と人知を超えた謎に、最も鋭利な「武器」を与えることになると、陽太は直感した。
二人は店を出て、再び雪が積もる街路を歩き始めた。
「わたくしの仮説は、こうですわ。」雪乃は歩きながら、手帳を取り出した。「大量に輸入されているのですから、中には偽物が混ざっている。死なない人々は、効き目の薄い偽物を使っているに違いない。」
―仮説: 「面の材質と偽物の存在」
「僕もそう考えました。だから、僕が持っている晶の面と、銀座で割った面を比べた。でも、あの黒い脂の匂いも、異様な光沢も、全く同じでした。」陽太は自分の懐にある面を確かめるように、コートの上から押さえた。
「ええ、物質的な違いはない。けれど、個体差はあり得るわ。」雪乃は、手帳のページを陽太に見せた。そこには、社交界の重鎮たちの名前と、面の使用状況が、几帳面に分類されていた。
「この方は、高名な法学博士。数日前に面を購入し、一日に一時間、書斎で瞑想しているだけだそうです。つまり、短時間使用。しかし、昨日、突然、講義中に『私の脳が、溶けた氷の泡になる!』と叫び、緊急入院しました。」
陽太は立ち止まった。「短時間使用でも……?晶ほどではないにせよ、急速に崩壊が始まっている。」
「さらに見て。この実業家。知性は決して高くない、むしろ凡庸な人物として有名です。しかし、面を顔に当てて瞑想を始めた途端、彼の頭も三日で空洞化しました。今朝、病院から昏睡状態だと連絡がありましたわ。」
雪乃の報告は、立ててきた三つの仮説を、次々と論破していった。
「馬鹿な……。知性の高低ではない。使用頻度や時間でもない。そして、偽物でもない……。」陽太は、頭を抱えた。「面が持つ『毒』は、使用者の属性や、使用方法に左右されない。つまり、全ての面が、誰にでも等しく致死的な本物ということになる。」
「ええ、その通りです。」雪乃は冷徹に言い放った。「我々が探し出すべきは、『死なない人々』の共通点ではない。面を使った人々の中に、なぜ晶君やお父様のように、急激に衰弱する人が出てくるのか、その『決定的なトリガー(引き金)』ですわ。」
陽太は、顔を上げた。蕎麦湯の美学に熱弁を振るっていた雪乃の目は、既に冷徹な探求者のそれに変わっていた。
雪乃が調べた情報により、一つの恐るべき共通点が見えてきた。
「不思議なの。面を飾るだけで満足している人、あるいは、ただ顔に当てる瞑想儀式をしている人は、緩やかな衰弱で済んでいる。でも、晶君や、一部の急激に悪化した人々は……面についている『何かを口に入れた』という噂が、ごく一部で囁かれているわ。」
陽太の脳裏に、あの蔵での光景が蘇る。晶が面を抱きしめ、舌を這わせたあの瞬間。
「ああ……美味だ。これこそが、僕の脳の空虚を満たしてくれる。」
そして、あの時の濃厚な鉄と獣脂の匂い。
「雪乃、分かった!死なない人々は、単に面を『顔に当てる』という行為で留まっている。だが、晶たち急激に崩壊した人々は、あの面から滲み出る黒い脂を、体内に取り入れたんだ!」
陽太は、その時、一つの恐ろしい可能性に気づいた。
「そして、その時、彼らは外から降る『雪』を同時に摂取したんじゃないか?あの黒い脂は、雪と混ざることで、初めて脳の障壁を易々と通過できる、特異な毒物へと変質するんだ!」
面から滲み出る黒い脂だけでは、ただの毒で済む。だが、空から降る『何か』(男の電波を浴びた結晶)と混ざり合うことで、それが脳の知性そのものへ到達する「経路」となる。
この「摂取」という行為こそが、晶の病状を決定づけた『決定的なトリガー』だった。
陽太は、この致死的な情報を意図的に隠し、面を「知恵向上」の呪物として売り捌いている元凶を探るため、面を大量に輸入したと噂される「大口の輸入問屋」を特定した。
問屋は古びた蔵を改装した、いかにも胡散臭い造りだった。昼間、陽太は雪乃と二人で問屋を訪ねるが、主人は警戒心が強く、「子供に売るものはない」と冷たく追い返された。
「駄目ね。昼間からこんなに警戒しているなんて。」雪乃は苛立ちを隠さない。
「ええ。奴らが裏で何を企んでいるか、夜に確かめるしかない!」
その夜、雪が激しく降り積もる中、二人は伊集院邸の蔵から持ち出した面を懐に忍ばせ、問屋の裏口へと身を潜めた。
冷たい風が吹きつける。問屋の裏口の荷物搬入口は、錆びた南京錠がかかっているが、陽太は父の工具箱から拝借した特殊な針金で、それを器用に開錠した。
きぃ……と蝶番の軋む音が、降り積もる雪の音に飲み込まれる。二人は、内部から漏れる脂と木材の混ざった異臭に耐えながら、闇の中に踏み込んだ。
問屋の内部は、雑然とした倉庫ではなかった。中央には、何十、何百という『知恵喰らいの面』が、まるで異様な軍隊のように、綺麗に棚に並べられている。その空間の隅には、まるで製粉機のような奇妙な機械が置かれ、微かに粉末状の雪の結晶が散らばっている。
「ここで、面を最終調整しているのね……。」雪乃が囁いた。
陽太は足元に目をやった。床には、細く汚れたレールが奥へと伸びている。奥の壁には、厚い鉄製の扉。
「この問屋は中継地点だ。面を配る拠点と、本拠地を結ぶ、連絡線があるはずだ!」
陽太が鉄扉に耳を当てた、その時。
倉庫の片隅、面が積み上げられた棚の影から、雪の積もった長靴を引きずる音が響いた。
二人は息を飲んだ。誰もいるはずのないこの倉庫に、何かがいる。
闇の中から、一人の人影が、極めてゆっくりとした動作で、静かに姿を現した。
それは、伊集院晶だった。
晶は、かつての聡明な輝きを失い、焦点の合わない目を宙に向けていた。顔色は雪のように白く、口元は乾き、外套も着ていない。彼は、寒さを感じている様子もなく、ただ、自身の存在を支える機能だけが残されている、空っぽの器のようだった。
「晶……!」陽太は衝動的に名を呼んだ。
その声に、晶は反応しなかった。しかし、彼の痩せ細った手が、奇妙な動作でゆっくりと持ち上がり、空気を掻き始めた。
そして、その指先は、雪乃が持っている布に包まれた『燃えない面』の方向を、正確に指差した。電波が、彼を面へと引き寄せているのだ。
晶は、乾いた唇を震わせ、か細い、だが異様に響く声で、雪乃へ向かって囁いた。
「我ガ知識ノ熱……ソコニ、アルカ?」
その声は、晶自身の声ではなかった。それは、彼の脳を空洞化させた、冷たい知性の残響だった。
晶は、まるで夢遊病者のように、一歩、また一歩と、雪乃と陽太へ向かって近づいてきた。その体からは、何の感情も生命の熱も感じられず、ただ、面への飢えだけが、彼の体を突き動かしている。
「香月君、動かないで!」雪乃は震えながらも、陽太の腕を掴んだ。「彼は、貴方を見ていない。面、面だけを追っているわ!」
晶は、彼らの存在そのものを認識せず、彼の空虚を埋めるための『知性の熱の容器』を求めて、静かに迫ってきた。雪乃のポケットにある面が、晶を引きつける致命的な磁石となっていた。
陽太は、軍刀を抜くこともできず、ただ、親友の変わり果てた姿に凍り付いていた。この問屋は、廃人となった者たちの、「空虚な器」を保管する場所でもあったのだ。
「走るわよ、香月君!」
雪乃は、恐怖を論理でねじ伏せ、晶から面を遠ざけるために、鉄扉の方向へと全力で走り出した。陽太は、親友の魂のない残骸に背を向け、雪乃を追った。
扉の奥には、薄い光が漏れている。陽太は、鉄扉を開け、雪乃を押し込むと、扉を乱暴に閉め、その奥へと潜り込んだ。
「藤沢さん。僕は今から蔵へ行く。君が父に解析させる『燃えない面』が必要だ。」
雪乃は、昨日陽太から受け取った面が包まれた布を、コートのポケットに深く押し込んだ。
「わたくしは、今から父の病院へ行くわ。父は合理的だが、家族を救うための医学的合理性には、必ず従う。わたくしが、面から得た情報を全て父に提示すれば、必ず解析を始めるはずよ。」
彼女は、湯呑みで温められた指先で陽太の腕に触れた。
「香月君、蕎麦湯を飲む順番の美学について、わたくしの意見は変わらない。しかし、美学が合理性を超える瞬間があることも、貴方と話して理解したわ。今、貴方が地下へ行くことは、最も合理性の低い、感情的な儀式だ。でも、その儀式こそが、男の完璧な論理を崩す、唯一のノイズになる。」
陽太は、彼女の言葉に力強く頷いた。彼女は、彼の探求心の最も理解ある共犯者だった。




