冷たい理へ
伊集院邸の蔵で、地下への入り口を見つけた直後。
陽太は、懐中時計の激しい振動に促され、雪乃が待つ香月邸へ走り戻った。蔵から急ぎ戻った陽太を、雪乃は自室の書斎で待っていた。顔は青ざめ、目には恐怖の色が浮かんでいた。
「香月君……貴方の言ったことは、本当だったのかもしれないわ。」
雪乃の父である藤沢男爵が、面を購入し、「夜中に奇行を始めた」という報を聞き、雪乃は陽太の言葉が事実であったと悟る。父は面を飾棚に置いているだけで、顔には当てていないという。
「昨夜のことです。父は突然、普段は蔵に仕舞ってある雪かき用の長靴を履き、真夜中の台所へ行ったのです。そして、独逸製コンロの上で、生きた海老を丸ごと、氷砂糖で煮詰め始めました。まるで、『知恵は、冷たい甘さの中にある』とでも言いたげに、調理台の上の全てを、真っ白な氷砂糖の山にしてしまったのです。」
陽太はゾッとした。晶が「知識を食べる味」と言って面を舐めたことと、雪乃の父の「冷たい甘さ」への執着が重なった。面は、使用者とその周囲の人間を、知識への倒錯した飢えへと導くのだ。
「そして、その最中も、面を飾っている書斎の方向を見ながら、『美味だ』と呟いているんです。まるで、何かに操られているかのように……。極めつけは、調理が終わった後、その氷砂糖まみれの海老を、全て雪用の長靴の中へ流し込んだのです。まるで長靴が、彼の脳の空虚な部分を埋める『器』であるかのように。」
「なんと……。」陽太の脳裏に、父の言葉が蘇った。『脳の空洞化』。
「そして、今朝からは、まるで赤ん坊のように、簡単な言葉も話せなくなってしまって……。ただ、『雪、雪……』と繰り返すばかりで。」
「やはり、触れただけでも危険なのか……」陽太は焦燥に駆られた。雪乃の父が面を触れていないにもかかわらず、急速に知性を失ったという事実は、陽太の「使用頻度」の仮説を根底から覆した。
「ところで、昨日食べ損ねたお蕎麦でも、付き合っていただけますか?」陽太は、溢れそうな焦燥を隠すように、冗談めかして言った。
雪乃はため息をついた。「まったく、貴方の誘い方はおかしいわ。でも、父の様子を見て、頭が混乱している。何か、普通じゃない話を聞く必要があるわね。」
二人は華族街を抜け、昨日、陽太が主張した蕎麦屋へ向かって歩き始めた。雪は止んだものの、道にはまだ雪が積もり、冷たい空気が張り詰めていた。
二人が辿り着いた蕎麦屋は、華族街の喧騒から離れた場所にある、古いが清潔さを保った店だった。閉店間際という焦燥感が、二人の緊迫感をさらに加速させた。
「これが蕎麦ですね……。昨日は、蕎麦と『面』を間違えるなんて失礼しましたわ。」雪乃は、店内の清潔さを確認するように周囲を見回しながら言った。
陽太は、恥ずかしさから顔を赤らめたまま、二種類の蕎麦を注文した。
「藤沢さんの性格なら、これしかないと思って。」
雪乃の前に置かれたのは、『とろろ蕎麦』だった。真っ白なとろろが、つゆに静かに横たわっている。
「完璧ね。とろろは蕎麦に均等に絡まり、一体化する。これは、知性が乱れなく、完璧な秩序を保つ状態を視覚化していますわ。」雪乃は、強迫的な性質そのままに、蕎麦のトッピングについて真面目に論じた。「全てが混然一体となり、乱れがない状態。わたくしの求める『完全なる統合』を表しているわ。」
一方、陽太の前に置かれたのは、『たぬき蕎麦』。
「貴方がたぬき? 何か、合理的ではないわね。」雪乃は怪訝な顔をした。
「いえ、たぬきこそ合理的です!」陽太は熱弁した。「あの面が、外からの知恵ではなく、使用者の内面から『脂』を滲ませるように、たぬき蕎麦も、衣という外側の飾りが、つゆの中でじわじわと自分の油を溶け出させて、つゆという本質を変化させる。つまり、『内面からの変質』を象徴しているんです!」
雪乃は目を細めた。「……貴方、本当に全てをその『面』の毒と結びつけているのね。少々、気持ち悪いわ。」
蕎麦を啜り終え、熱い蕎麦湯が運ばれてきた。二人は、湯呑みを前に再び議論を始めた。
「私は、蕎麦湯は最初に飲むべきだと考えています。」雪乃は、湯呑みを持ち上げながら主張した。「蕎麦を食べることで、胃は消化液を分泌し、胃壁は刺激を受けています。先に蕎麦湯で胃を温め、消化を円滑にすることで、蕎麦という栄養を最大限に効率よく摂取するのが、最も合理的な手順ですわ。」
「違います、藤沢さん!」陽太は、テーブルを叩く勢いで反論した。「蕎麦湯は、最後に残されたつゆの塩分を、最適に調整するための知恵です! あの、蕎麦を打ち上げた後の豊かな風味と澱粉を、最も美味しく味わうための、完了の儀式なんです。」
陽太は、カセットテープの落語知識で蕎麦を誘っただけに、この儀式に譲れない美学を感じていた。
「合理的ではないわ。統計で見ましょう。」雪乃は真顔で言った。「わたくしの調べでは、蕎麦湯を飲むタイミングについて、『食後』と回答した者が全体の約8割を占めますが、これは『慣習』によるもので、『医学的・栄養学的合理性』を鑑みれば、食前あるいは食中がより適切だという海外の研究結果も出ていますわ。貴方の言う『完了の儀式』は、感情的な慣習に過ぎません!」
「しかし、蕎麦の美学は、単なる合理性ではない!」
二人は、蕎麦湯の飲む順番という、どうでもいい議題で真剣に火花を散らした。しかし、その根底には、「合理性」を追求する雪乃と、「見えない真実」を探求する陽太という、それぞれの探究心が明確に反映されていた。雪乃は「統計」や「医学的合理性」を武器とし、陽太は「儀式」や「内面からの変質」という非合理的な真実に賭けていた。
「あのね、香月君。わたくし、ああいう流行品を見ると、試さずにはいられない性なのよ。」雪乃が、唐突に口を開いた。
「流行品?」
「そう。例えば、父が新しく買った『独逸式の完璧な書斎』。あそこにあるものは、椅子の配置から本の種類まで、全てが『あるべき形』で収まっていなければ、わたくし、落ち着かないの。少しでも歪んでいると、それを直すまで、何も手につかない」
雪乃は、自分の指先をじっと見つめながら続けた。
「あの面もそう。『知性を極限まで高める』という、あまりにも完璧な触れ込み。それが本当かどうか、試して証明しなければならないという衝動に駆られたのよ。中途半端な知識や結果は、許せない。」
彼女の言葉は、まるで自己紹介のようであり、彼女が面を買い求めた理由でもあった。陽太は、その「完璧でなければならない」という雪乃の強迫的な性質が、恐怖に打ち勝ち、情報収集能力の徹底ぶりに繋がっているのだと理解した。
「藤沢さんのそういう性格が、きっとこの謎を解くのに必要だ。」陽太は言った。「晶は、毎日使った。でも、お父様は飾っているだけ。この差が、生死を分けたかもしれない。」
「ええ。だからこそ、わたくし、考えたの。」雪乃は、ぴたりと立ち止まり、陽太をまっすぐ見つめた。
その目には、昨日までの怒りや羞恥はなく、ただ、鋭い論理的な光が宿っていた。
「わたくし、父の書斎に飾られている面を観察したの。晶さんの面を貴方が割ってしまったでしょう?だから、父の面を調べてみたのよ」
雪乃は、冷静な声で、驚くべき情報を話し始めた。
「面は、木彫りではないわ。表面の黒い脂の下にあるのは、石英に似た、ごく微細な結晶構造を持った素材よ。そして、その結晶は、特定周波数の電波に共鳴して、微細な熱を発している」
陽太は息を詰めた。「電波……高周波信号!!」
面は、知恵を吸い取るためのアンテナなのだ。
「そして、その熱に触れた雪が、僅かに結晶の形を変える。わたくしは、父の書斎に置かれた雪の標本を調べたの。普通の雪とは違う、不純な結晶が混じっているわ」
雪乃は言葉を続けた。「その不純物が、まるで知識を食べる『酵母』のように振る舞い、脳の熱と反応し、長期間にわたり脳の情報を吸い上げている。雪乃の父は、飾っていただけで、面の発する熱と、雪の結晶を吸い込むことで、ゆっくりと知性を蝕まれていたのだ。
「だから、お父様は『冷たい甘さ』を求めたのね。脳を空洞化させる冷たい雪の結晶を、身体で埋め合わせようとして……」陽太は理解した。海老と氷砂糖と長靴。それは、崩壊した知性が生み出した、究極の『冷たい知識を食らう儀式』だったのだ。
陽太は、雪乃の知性の強靭さに感嘆した。彼女の「完璧でなければならない」という強迫観念が、恐怖に屈せず、誰も気づかないような科学的な裏付けを可能にしたのだ。
「藤沢さん、もう蕎麦を食べている場合じゃない。」
陽太は立ち止まり、雪乃をまっすぐ見つめた。彼の目は、既に決意の色に満ちている。
「この面の元凶は、伊集院邸の地下にいる。この面と、雪を媒体にした電波を使って、帝都中の人間の知性を吸い上げようとしている。」
雪乃は冷静に頷いた。「わたくしの情報も、貴方の話と完全に符合するわ。あの面は、ただの呪物ではない。科学兵器よ。そして、その制御塔が地下にあるのね」
「僕は今からそこへ行く。晶を、そして、毒に侵された全ての人を救うために。君には、協力してほしいことがある。」
陽太は、自室の暖炉に入れても燃えなかった、あの『燃えない面』を懐から取り出し、雪乃に差し出した。布に包まれた面は、異様な重さと冷たさを放っていた。
「これを、父様に預けてほしい。父は今、面を『進化のフィルター』だと信じ込んでいる。父なら、この面を解析し、電波の対抗策、あるいは破壊方法を見つけ出せるかもしれない。君の情報収集能力で、父を説得してほしい。」
雪乃は、一瞬の戸惑いもなく面を受け取った。彼女の指先が、布越しに伝わる知識の毒の冷たさを感じ取る。
「わかったわ。わたくしは、裏付けのない感情論では動かない。しかし、この論理的な危機と、貴方の行動力。それこそが、今、必要とされている『完璧な組み合わせ』だわ。」
雪乃は陽太の目を見て微笑んだ。それは、昨日までの華族の令嬢としての表情ではなかった。




