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地下への決意

陽太が自室で雪景色を見つめていると、階下から父、香月陽介の足音が聞こえ、書斎で執筆をしていた父は、陽太の部屋の扉をノックもせずに開けた。最新の西洋医学を体現する医師である父の顔には、疲労の色よりも、ある種の興奮が浮かんでいた。

「陽太、お前はまだ、あの伊集院君のことで心を痛めているのかね?」

陽太は振り返った。「父様、晶は……あの面で、まるで知性を食い破られたようです。なのに、なぜ街では『成功』の象徴として広がっているのですか?」

陽介は細い眼鏡の奥の目を鋭く光らせ、静かに笑った。

「それは、自然な淘汰だよ、陽太。純粋な医学的見地から見れば、あれは『毒』だ。しかし、全ての者が中毒死しているわけではない」

「中毒死しない者もいる、それが問題なのです!」

「問題ではない!むしろ、真の知性を見分ける優れた試薬だ」

陽介は、真面目な顔で、まるで論文を読み上げるように淡々と続けた。「私は、この面を、『進化のフィルター』と呼んでいる」

陽太は息を飲んだ。「フィルター、ですか?」

「そうだ。晶君のような、脆弱で未成熟な『天才』は、あの知的な刺激を脳が処理しきれず、自壊する。それは、彼の知性が、外部からの情報に耐えうる『強靭さ』を持っていなかった証拠だ」

陽太は、父の論理の冷酷さに震えた。「そんな! 晶は……ただの親友です! 医学は、患者を救うものでは?」

「医学は、人種の向上にも役立つ、最新の科学だ。陽太、私はこの面を装着して、短時間の瞑想を試みた医師数名の臨床データを取った。彼らは、皆、驚くべき集中力と、論理的思考力の向上を示している。彼らはフィルターを通過したのだ」

陽介は、陽太の肩に手を置き、その目を真っ直ぐに見つめた。彼の表情は、一分の迷いもなく、自らの論理を絶対だと信じ切っている。

「つまり、あの面は、真に強靭な知性を持つ者を選び出し、その能力を極限まで高める装置なのだよ。晶君の衰弱は、彼の『知性の器』が小さかっただけ。我々、香月家が奉じる科学の前に、感情的な同情は無意味だ」

「父様、論理はある意味完璧です。しかしあなたは……それは、非人道的で心がない。」

「非人道的ではない。合理的なのだ。」陽介はそう言い捨てると、満足げに微笑んだ。

「お前も、もっと合理的に物事を見る目を養いなさい。科学は、美しい淘汰を許容する。」

父は、自分の部屋に戻る。陽太は、ただ重い静寂の中に立ち尽くした。


陽太は、雪に濡れた石畳に立ち尽くし、ただ、彼女が去った方向を凝視していた。

雪乃は、捨て台詞を吐き捨て、身を翻した。華族街の令嬢の上質な羅紗のコートは、雪に濡れ、その優雅さを失っていた。冷たさと羞恥、そして怒りだけが、その背中から陽太へと向かって放たれる。

しかし、去り際に雪乃は、一つだけ呟いた。その声は、雪に吸い込まれるように小さかった。

「……でも、父様の様子が、少し変なの。もし、貴方の話が少しでも本当なら……今度こそ、ちゃんと話しなさいよ!」

雪乃の震える声が陽太の耳に張り付いた。

陽太は雪乃の顔面を直視はできなかった。それどころか、視線は先ほどまで雪が溶けて濡れていた彼女の胸元の、透けて見える白い布地から、どうしても離れなかった。あの凍える雪の中で、恥辱と怒りを耐え忍び、それでもなお、父の異変を案じて言葉を残した、彼女の人間の熱。

晶を救うため、そしてこの毒の正体を突き止めるため、自分は一人ではないかもしれない。そのかすかな期待だけが、彼の胸に灯った。

陽太は、雪に濡れた石畳に立ち尽くし、ただ、彼女が去った方向を凝視していた。

(変態、か……)

自嘲的な笑いが喉の奥で詰まった。彼の行動は確かに滑稽で、衝動的で、論理的ではなかった。しかし、父の冷酷な合理性とは異なる、感情という名の熱が、彼を突き動かしていた。

晶を救うため、そしてこの街を蝕む毒の正体を突き止めるため、自分は一人ではないかもしれない。雪乃が残したかすかな期待だけが、彼の胸に灯った。彼女は、父の論理とは無縁の、感情という名のヒントを彼に託したのだ。

その時、陽太の胸ポケットにある布に包まれた物体が、微かに冷たさを放った。昨日、暖炉に入れても燃えなかった『知恵喰らいの面』だ。男がすぐ傍を通り過ぎたとき、この面もまた、異様な高周波を放っていたように感じた。

「知性の器が小さかっただけ」という父の言葉と、雪乃の言葉が陽太の頭の中で交差する。

――晶は、最高の頭脳を持っていたからこそ、毒に耐えられずに自壊した。

――父の知り合いの医師たちは、「強靭な知性」ゆえにフィルターを通過し、能力が向上した。

――そして、自分はどうだ? 凡庸で中の上。

陽太は、自らの凡庸さこそが、男が設計した完璧な「進化のフィルター」のロジックから外れた、唯一の例外かもしれないと直感した。毒を食らってもすぐに死なない、フィルターを通過も強化もされない、ただ邪魔な「ノイズ」として存在し続ける、自分という器。そのノイズこそが、今、男を追跡できる唯一の武器になるかもしれない。


陽太は自宅には戻らず、人目を避け、裏路地を通り抜け、隣家の伊集院邸へと向かった。雪は降り続け、屋敷の塀は、まるで巨大な白い壁となって陽太を拒んでいる。

彼は塀を乗り越え、雪が深く積もった伊集院邸の庭へと足を踏み入れた。足跡はすぐに雪に埋もれていく。この白い沈黙の中で、すべてが起き、すべてが隠蔽されていくのだ。

蔵は、庭の隅で、冷たい白い雪を被って佇んでいた。数日前、晶があの面を顔に当てた時、陽太は恐怖で逃げ帰ったが、今はもう、恐怖よりも、真実への探求心が上回っていた。

蔵の中に入ると、鼻につくカビと古書の匂いの中に、かすかに機械油の匂いが混じっている。陽太は外套の下に、父の書斎から持ち出した軍刀を隠し持っていた。彼は、科学では解決できないものには、非合理的な方法で対抗するしかないと悟っていた。

「晶……」

陽太は、以前、晶が倒れたときに異臭が昇っていた、床の隅の浮いた床板を探した。雪乃の父まで危険に晒されている今、猶予はない。陽太は床板に手をかけ、全身の力を込めて引き剥がした。

「ギチ……ッ」

床板は、凍結した木材が擦れる厭らしい音を立てて持ち上がった。そこにあったのは、石材がむき出しになった、深淵のような四角い開口部だった。

開口部の縁は、古いレンガで縁取られていた。下からは、冷蔵庫の中のような冷気と共に、機械油と、かすかな石英の粉塵の匂いが昇ってきた。

陽太は、懐中電灯を点灯させ、その冷たい光を穴の奥に差し向けた。鉄の梯子が、垂直に、光の届かない闇へと伸びている。

男が言っていた「石英の結晶」を連想させる、硬く、冷たい匂いだ。

陽太は、布に包んだ『燃えない面』を、上着の内ポケットの最も奥深くに押し込んだ。軍刀の柄を握り直し、梯子に手をかける。

その瞬間、陽太の外套の内ポケットで、自室の電話に結びつけていた小さな懐中時計が、激しく振動し始めた。雪乃が、非常の知らせを入れたのだ。

陽太は焦燥に駆られ、梯子から手を離した。彼の直感が叫んでいた。

今、地下へ行くよりも、雪乃からの情報の方が重要だ。


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