面と麺と、黒い影
雪乃は、人通りが途絶えた裏通りで、陽太を睨みつけた。
「なんですの、貴方! 香月さんの息子さんでしょう。こんなところで、乱暴な真似を!」
「馬鹿なことを言わないでください! あれは毒です! あれは……知恵を食らう、呪物なんです!」
陽太の必死さは、雪乃の怒りを一瞬で戸惑いに変えた。
「毒? そんな、ただの流行品を……。父様は、成功者がこぞって持つ、新時代の美術品だと。貴方、どうかしてるわ!」
雪乃はそう言い放ったが、陽太の凍てつくような眼差しに、何かただならぬものを感じ取った。陽太は割れた面を見つめながら、震える声で呟いた。
「君は、命を助かったんだ。信じられなくても、今日はこれで終わりにしてくれ!」
陽太はそう言い残し、雪乃の答えを聞く前に、雪の中へと駆け出そうとした。
雪乃は、割れた面の破片から、異様に甘ったるい、鉄の匂いが混じった異臭が立ち上るのを嗅ぎ、思わず息を詰めた。
陽太が雪の中へと走り去ろうとした、まさにその時。雪乃が背後から声をかけた。
「香月君、待ちなさい! 割った面は、弁償してもらいますわよ!」
雪乃は冷静さを取り戻し、貴族の娘としてのプライドから、損害賠償を突きつけてきた。陽太は立ち止まり、雪乃の方へ向き直る。
「弁償はします。ですが、その前に……」陽太は、どうにかしてこの場で彼女を引き留め、真実を伝えなければならないと焦った。脳裏に浮かんだのは、父が独逸から持ち帰ったばかりのカセットテープで、陽太がこっそり聞いていた古い江戸落語の一節だった。
陽太は、その落語に出てくる、無理やり相手を引き留める滑稽な台詞を、咄嗟に口にした。
「藤沢さん、もしよろしければ、『ちょっと蕎麦でも一杯、どうですか!?』」
雪乃は目を丸くした。「蕎麦? この華族街で、こんな雪の日に、そんな下町な誘い方を?」
「いえ、その、蕎麦です! もうすぐ午後二時を回ります! あの、間に合わなくなりますから!」
陽太は、あたかも蕎麦屋の閉店が世界で最も重要な問題であるかのように焦燥感をにじませながら、必死に取り繕った。「蕎麦屋が閉まる前に、知恵喰らいの面の真実について、話をさせてください! あの面が、単なる流行品ではないことを。そして、私の知る限り、あの面は……使用者の内面と、極めて近しい場所で連動している」
雪乃はそこで、急に顔を赤くして陽太を睨みつけた。
「香月君、待ちなさい! そもそも、貴方は何を言っているの? 先ほどから『面』だの『蕎麦』だの……もしかして、貴方!」
雪乃は、人差し指で陽太を指差した。
「貴方、あの『知恵喰らいの面』を、『知恵喰らいの麺』とでも勘違いしているの!? だから、蕎麦屋へ行こうなんて!?」
陽太は愕然とした。「い、違います! 面は、顔の仮面の面です!」
陽太は、熱に浮かされたように話し始めた。「晶は、あれを使うと『頭の中に図書館ができる』と言っていました。つまり、面は単に知恵を流し込むだけでなく、使用者の欲望や、脳の熱を映し出す鏡なのです。あの黒い脂は、我々の脳が発する『知識への飢え』を、形として滲み出させているのだと!」
陽太が「脳の熱」という言葉を発した、まさにその瞬間。
二人の緊迫した会話と、雪の静寂に満たされた通りを、一人の男が音もなく通り過ぎた。
男は、流行の洋装とはかけ離れた、古びた、分厚い黒いオーバーコートを纏っていた。雪が降っているにもかかわらず、その肩や帽子のつばには雪が積もっておらず、まるで男の周囲だけ、空気が歪んでいるかのように見えた。
男は、二人の騒ぎを一瞥もせず、まるでこの世の景色に興味がないかのように歩いていたが、割れた面の破片が立ち上らせる鉄と脂の匂い、そして陽太が放つ焦燥と探求心の「熱」を、明確に感じ取っていた。
彼の細い目の奥に、一瞬だけ冷たい光が走った。
(ふむ。割れた部品の信号が、こんなところでノイズを発しているか。そして、あの少年……)
男は、面について熱弁を振るう陽太を見た。陽太の知性は「中の上」だが、彼の持つ強靭な好奇心と感情は、男の求める「知性の器」とは異なる、予期せぬ要素だった。
(あのレベルの知性では、フィルターを通過せぬはず。しかし、彼の感情は、私が追うべき「知性」とは別の、強烈な信号を発している。これは……)
男は、陽太と雪乃のすぐ傍を通り過ぎた。彼らにとって、男はただの影、雪の中を急ぐ見知らぬ通行人でしかなかった。雪乃は恥ずかしさと怒りで陽太に夢中であり、陽太は説得の失敗で頭がいっぱいだったからだ。
二人が、真の危機とすれ違ったその瞬間、男は無言で雪の中へと溶けるように去って行った。
男の異質な気配が消えた後、陽太は興奮のあまり、一歩、雪乃に詰め寄った。その瞬間、陽太の肩に積もっていた雪が、どさりと音を立てて崩れ、冷たい塊が雪乃の襟元へ、直接、入り込んでしまった。
「ひっ!」
冷たい雪の塊が、上質な羅紗のコートの隙間から、雪乃の肌に触れる。雪乃は全身を硬直させ、次の瞬間、顔を真っ赤にして爆発した。
「な、なんですの! 貴方、わ、わざと!?」
「ち、違います! ただの雪崩で……!」
「言い訳はよして! 貴方まで、あの面で脳がおかしくなった変態ですわ! 人の顔を見て、雪をぶつけるなんて、下劣な真似を! そして、麺と面を間違えるなんて、馬鹿げています!」
雪乃は、陽太の父と同じく、「合理的」とはかけ離れた、感情的な誤解で陽太を糾弾した。
「もう結構です! 貴方とは関わりません。割れた面の弁償は、後日請求書を送ります! 変態!」
雪乃は、そう言い捨て、身を翻した。
しかし、去り際に雪乃は、一つだけ呟いた。その声は、雪に吸い込まれるように小さかった。
「……でも、父様の様子が、少し変なの。もし、貴方の話が少しでも本当なら……今度こそ、ちゃんと話しなさいよ!」
雪乃の震える声が陽太の耳に聞こえたが、陽太は、冷たい雪水で濡れ透けた彼女の胸元を直視できず、ただ雪に濡れた石畳を見つめるしかなかった。
(雪乃さんの父様まで……もう時間がない)
陽太は、去っていく雪乃の姿から、再び伊集院邸へと視線を移した。
男は、確かにこの近くにいた。そして、晶や雪乃の父に面を渡した元凶だ。




