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進化のフィルター

雪は絶え間なく降り続き、帝都の華やかな熱狂を冷まそうとしているようだった。しかし、「知恵喰らいの面」の流行は、この静寂の中で、熱病のように加速していた。

陽太の知る限り、伊集院晶のように脳が空洞化し、急速に廃人となる者は後を絶たない。にもかかわらず、社交界では「面のおかげで集中力が倍加した」「学問上の難題を解けた」と触れ回る者もいる。

「なぜだ。同じ毒を食らって、なぜ死なない者がいる?」

陽太は自室の窓辺で、隣の伊集院邸の閉ざされた窓を見つめた。晶が最高の頭脳を持っていたからこそ、毒の作用も強かったのか?

そのとき、階下から父、香月陽介の足音が聞こえ、書斎で執筆をしていた父は、陽太の部屋の扉をノックもせずに開けた。最新の西洋医学を体現する医師である父の顔には、疲労の色よりも、ある種の興奮が浮かんでいた。

「陽太、お前はまだ、あの伊集院君のことで心を痛めているのかね?」

陽太は振り返った。「父様、晶は……あの面で、まるで知性を食い破られたようです。なのに、なぜ街では『成功』の象徴として広がっているのですか?」

陽介は細い眼鏡の奥の目を鋭く光らせ、静かに笑った。

「それは、自然な淘汰だよ、陽太。純粋な医学的見地から見れば、あれは『毒』だ。しかし、全ての者が中毒死しているわけではない」

「中毒死しない者もいる、それが問題なのです!」

「問題ではない!むしろ、真の知性を見分ける優れた試薬だ」

陽介は、真面目な顔で、まるで論文を読み上げるように淡々と続けた。

「私は、この面を、『進化のフィルター』と呼んでいる」

陽太は息を飲んだ。「フィルター、ですか?」

「そうだ。晶君のような、脆弱で未成熟な『天才』は、あの知的な刺激を脳が処理しきれず、自壊する。それは、彼の知性が、外部からの情報に耐えうる『強靭さ』を持っていなかった証拠だ」

陽太は、父の論理の冷酷さに震えた。「そんな! 晶は……ただの親友です! 医学は、患者を救うものでは?」

「医学は、人種の向上にも役立つ、最新の科学だ。陽太、私はこの面を装着して、短時間の瞑想を試みた医師数名の臨床データを取った。彼らは、皆、驚くべき集中力と、論理的思考力の向上を示している。彼らはフィルターを通過したのだ」

陽介は、陽太の肩に手を置き、その目を真っ直ぐに見つめた。彼の表情は、一分の迷いもなく、自らの論理を絶対だと信じ切っている。

「つまり、あの面は、真に強靭な知性を持つ者を選び出し、その能力を極限まで高める装置なのだよ。晶君の衰弱は、彼の『知性の器』が小さかっただけ。我々、香月家が奉じる科学の前に、感情的な同情は無意味だ」

「父様、論理はある意味完璧です。しかしあなたは……それは、非人道的で心がない」

「非人道的ではない。合理的なのだ」陽介はそう言い捨てると、満足げに微笑んだ。

「お前も、もっと合理的に物事を見る目を養いなさい。科学は、美しい淘汰を許容する」

父は、自分の部屋に戻る。陽太は、ただ重い静寂の中に立ち尽くした。

―仮説一:個人の知性の高さが、毒の致死性を上げる。

凡庸な知性を持つ者には、あの面は効かない、あるいはゆっくりとしか効かないのではないか。陽太の父、陽介も「脳の崩壊は急速な者に限られる」と話していた。この仮説は、陽太の心を重くした。凡庸で中の上である自分は、この毒に触れても平気なのかもしれない。だが、晶を救うためには、この毒の正体を知らねばならない。


その日、陽太は、銀座の大通りで、一つの影を見た。最新の西洋舶来品を扱う華美な店先に、黒い面が並んでいる。その前で、一人の少女が、迷うように面を手に取ろうとしていた。

黒髪を優雅なカーブで結い、上質な羅紗のコートを纏ったその少女は、陽太の父の大学病院の取引先である藤沢男爵家の令嬢、藤沢雪乃だった。

「お、お嬢様!その面は!」

陽太は思わず駆け寄り、雪乃の手から黒い面を叩き落とした。木彫りの面は、凍えた石畳の上で乾いた音を立てて割れ、煤けたような黒い脂を微かに滲ませた。

「な、何をなさるの、香月君! この面は私の父が……」

「ダメです! 買っちゃいけない!」陽太は興奮のあまり、声が裏返った。

「いえ、その、蕎麦です!もうすぐ午後二時を回ります!あの、間に合わなくなりますから!」

混乱の中で、口をついて出たのは、昨日と同じ言い訳。雪乃は唖然とした顔で陽太を凝視した。

「蕎麦屋が閉まる前に、『知恵喰らいのおもて』の真実について、話をさせてください! あの面が、単なる流行品ではないことを。そして、私の知る限り、あの面は……使用者の内面と、極めて近しい場所で連動している!」

雪乃はそこで、急に顔を赤くして陽太を睨みつけた。

「香月君、待ちなさい! そもそも、貴方は何を言っているの? 先ほどから『おもて』だの『蕎麦』だの……もしかして、貴方!」

雪乃は、人差し指で陽太を指差した。

「貴方、あの『知恵喰らいのおもて』を、『知恵喰らいのめん』とでも勘違いしているの!? だから、蕎麦屋へ行こうなんて!?」

陽太は愕然とした。「い、違います! おもては、顔の仮面の面です! 晶はあれを使って、頭がおかしくなったんです! 脳の熱が黒い脂になって……!」

「何を熱心に……。貴方まで、おかしくなったんじゃないの?」

雪乃が後ずさった、その瞬間だった。陽太が興奮して身を乗り出した反動で、肩に積もっていた雪が、どさりと音を立てて崩れ落ち、雪乃の襟元へ、直接、滑り落ちてしまった。

「ひゃうっ!」

冷たい雪の塊が、上質な羅紗のコートの隙間から、雪乃の肌に触れる。雪乃は全身を硬直させ、次の瞬間、顔を真っ赤にして爆発した。

「な、なんですの! 貴方、わ、わざと!?」

「ち、違います! ただの雪崩で……!」

「言い訳はよして! 貴方まで、あの面で脳がおかしくなった変態ですわ! 人の顔を見て、雪をぶつけるなんて、下劣な真似を! そして、麺と面を間違えるなんて、馬鹿げています!」

雪乃は、陽太の父と同じく、「合理的」とはかけ離れた、感情的な誤解で陽太を糾弾した。

「もう結構です! 貴方とは関わりません。割れた面の弁償は、後日請求書を送ります! 変態!」

雪乃は、捨て台詞を吐き捨て、身を翻した。その際、溶けた雪水で濡れたブラウスが肌に張り付き、布地を通して見えた肌の線が陽太の脳裏に焼き付いた。

陽太は、雪に濡れた石畳に一人取り残され、顔を直視できなかった。

しかし、去り際に雪乃は、立ち止まりもせず、一つだけ呟いた。その声は、雪に吸い込まれるように小さかった。

「……でも、父様の様子が、少し変なの。もし、貴方の話が少しでも本当なら……今度こそ、ちゃんと話しなさいよ!」


遠ざかる雪乃の背中を見送りながら、陽太は凍えながらも思考を巡らせた。

『父様の様子が、少し変なの』

雪乃の父もまた、晶や父陽介と同じく、面の影響を受けている可能性が高い。そして、あの面は、一度体内に入った知性を決して手放さない。

陽太は懐に入れた、あの「燃えない面」を強く握りしめた。この面は、晶が倒れた夜に蔵から持ち出したものだ。

もし、晶の脳が空洞化するほどの毒を生み出す面が、大量に帝都に流れ込んでいるなら、その源泉を断たねばならない。

『大口の輸入問屋』。

それは、伊集院家と香月家の後ろに潜む、見えない影。

そして、その異様な仮面と、晶の崩壊の接点、全ての始まりの場所。

陽太は踵を返した。

もう、迷いはなかった。父の冷酷な科学と、街を蝕む流行、そして雪乃の父を救うため、彼は孤独な戦いを決意した。

目指すは、伊集院邸の蔵の奥。

あの蔵の床板は、他の場所とは異なり、微かに浮いていた。陽太は晶が倒れた夜、異臭がその隙間から昇ってきているのを感じていた。

陽太は、雪で滑りやすい屋敷の塀を乗り越え、蔵へと忍び込んだ。

蔵の中は、外よりさらに冷え切っていた。陽太は床板の浮いた場所を探り当て、力を込めて押し開けた。

ヒュウ、と下から冷たい風が吹き上がってくる。風と共に、微かな機械油と、錆びた鉄の臭いが鼻をついた。

そこにあったのは、地下へと続く、急な梯子だった。

それは、帝都の地図にも載っていない、古い鉄道網の廃トンネルへと繋がっているように見えた。

陽太は、布に包んだ「燃えない面」を懐にしまい、雪明かりの届かない闇の奥、冷たい梯子へと足をかけた。



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