流行する悪夢
晶が倒れてから三日が経った。
伊集院邸の門は固く閉ざされ、雪が絶え間なく降り積もる庭は、白い沈黙の中にあった。父・陽介は、大学病院の解剖室にこもりきりで、その恐ろしい病の正体を探っていた。
陽太は、晶が倒れた夜、衝動的に伊集院邸の蔵から持ち出した『知恵喰らいの面』を、自室の暖炉の前に置いていた。仮面の表面は、乾いたように見えるが、微かに鉄と獣脂の甘い匂いを放っている。
「これが、晶の頭を食った……」
陽太は憎悪にかられ、暖炉にくべられた炎を見つめた。科学で解明できないなら、人知を超えた方法でこの「穢れ」を断ち切るしかない。
陽太は火かき棒で仮面を突き、暖炉の真っ赤な熾火の上に乗せた。
ジィィ……。
普通なら、木彫りの仮面はすぐに煤け、燃え上がるはずだった。しかし、その仮面は違った。
熾火に触れた部分から、燃えるのではなく、黒い脂汗が滲み出し、ねっとりと泡を立て始めたのだ。炎はその脂を弾き、青白い煙を上げた。
「うっ……」
陽太は思わず鼻を覆って身を引いた。
その煙は、獣の脂が焦げる匂いではなく、ホルマリンの奥に潜む、脳髄が焼けるような異臭を放っていたからだ。
仮面は、炎に耐えていた。それどころか、炎の熱で表面の脂が活性化し、異様な光沢を増している。まるで、「知識を食らうタンパク質」そのものが、どんな高熱にも屈しない、この世の理から外れた物質であるかのように。
陽太は戦慄した。
「燃えない……! こいつは、壊れない……!」
陽太は急いで仮面を火かき棒で炉から引き上げ、冷たい床の上に放り出した。仮面は黒い脂を滴らせながら、鈍く光っていた。
この仮面を破壊することは、僕の小さな力では不可能だ。
陽太は焦燥感に駆られ、冷え切った仮面を布で乱暴に包み込むと、厚手の外套を羽織り、部屋を飛び出した。
その翌日、事態は陽太の予想を遥かに超える速度で悪化し始めていた。
学校が臨時休校になり、憂鬱な気分で情報を求めて街を歩いていた陽太は、銀座の大通りで、信じられない光景を目にした。
そこかしこの西洋骨董店や、新しく出来た雑貨屋の店頭に、あの黒い仮面が並べられていたのだ。
「奇品独逸直輸入 『知恵喰らいの面』。知性向上、集中力増進の霊験あり!」
「家運隆盛の秘密の美術品! 新時代の成功者には必須!」
店先に並ぶチラシの文句は、晶が語った「知恵が流れ込む」という話と全く同じだった。
一軒の店に入り、陽太は震える声で主人に尋ねた。
「この仮面は……独逸から来たのですか?」
「ああ、坊や。これはつい先日、大口の輸入問屋が大量に持ち込んだ品でね。なんでも、向こうの博覧会で『頭が良くなる呪物』として評判になったらしい。飛ぶように売れているよ! 貴族や学者の間でね!」
大口の輸入問屋。晶の父と同じく、富裕層の間で「流行」として持ち込まれたのだ。
陽太は、店の奥に積み上げられた、数十個の『知恵喰らいの面』を見た。どれも煤けた黒い脂を塗り固めたような、あの醜い光沢を放っている。それは、晶の脳を食い破った「禁忌の種」が、今や雪崩のように帝都に流れ込んでいることを意味していた。
陽太は、足がすくむのを感じた。
彼は知っていた。この仮面がもたらすのは「知恵」ではない。それは、「脳が自己を誤認し、空洞化していく」という、科学を超えた破滅だ。
「ダメだ、放っておけば、街中の人間の頭の中が、白い空洞になってしまう!」
陽太は店を飛び出し、雪の降りしきる大通りを駆け抜けた。
どうすればいい? 警察? 父さん? いや、誰も信じない。現に目の前で、人々は「知恵」を求めて仮面を買い漁っている。
その時、通りの向こうから、見覚えのある人影が歩いてくるのが見えた。
豪奢な毛皮のコートに身を包んだ令嬢、雪乃だ。彼女もまた、何か思い詰めたような表情で、骨董店の方を見つめていた。
「雪乃さん!」
陽太は息を切らして駆け寄った。雪乃は驚いたように目を丸くする。
「あら、香月君? こんな雪の中で、何をそんなに……」
「だ、ダメです! 買っちゃいけない!」
陽太は混乱のあまり、言葉が上滑りした。頭の中は「面の危険性」と「どう説明するか」でショート寸前だった。
「いえ、その、蕎麦です! もうすぐ午後二時を回ります! あの、間に合わなくなりますから!」
「はあ?」雪乃は眉をひそめた。「何をおっしゃってるの?」
「蕎麦屋が閉まる前に、『知恵喰らいの面』の真実について、話をさせてください! あの面が、単なる流行品ではないことを。そして、私の知る限り、あの面は……使用者の内面と、極めて近しい場所で連動しているんです!」
雪乃はそこで、急に顔を赤くして陽太を睨みつけた。
「香月君、待ちなさい! そもそも、貴方は何を言っているの? 先ほどから『面』だの『蕎麦』だの……もしかして、貴方!」
彼女はビシッと指を差した。
「貴方、あの『知恵喰らいの面』を、『知恵喰らいの麺』とでも勘違いしているの!? だから、蕎麦屋へ行こうなんて!?」
「い、違います! 面は、顔の仮面の面です! 晶はあれを使って、頭がおかしくなったんです!」
陽太は必死に一歩踏み出した。
「あれを使うと、脳の熱が黒い脂になって……!」
「脂……? 今度はラーメンの話? 貴方、本当におかしくなったの?」
雪乃が後ずさった、その瞬間だった。
陽太の頭上の街路樹から、積もったばかりの雪の塊が、どさりと音を立てて崩れ落ちた。
不運にも、その雪塊は雪乃の無防備な首筋へ――襟元が少し開いた、上質な羅紗のコートの隙間へと、直撃した。
「ひゃうっ!?」
可愛らしい悲鳴と共に、体温で溶けた雪水が、背中から胸元へと流れ落ちる。
雪乃は硬直した後、瞬時に顔を真っ赤にして爆発した。
「な、なんですの! 貴方、わ、わざと!?」
「ち、違います! 雪崩です!」
「言い訳はよして! 貴方まで、あの面で脳がおかしくなった変態ですわ! 人の顔を見て雪をぶつけるなんて、下劣な真似を……!」
陽太は弁解しようとしたが、視線が釘付けになってしまった。
濡れたコートの襟元、薄い絹のブラウスが透け、その下の柔らかな肌の白さと、冷たさに震える慎ましい膨らみが、薄っすらと浮かび上がっていたからだ。
「み、見たわね!? 変態! もう結構です!」
雪乃は怒りと羞恥で涙目になり、身を翻して駆け出した。
しかし、数歩進んだところで、彼女はふと立ち止まり、振り返らずに呟いた。
「……でも、父様の様子が、少し変なの。もし、貴方の話が少しでも本当なら……今度こそ、ちゃんと話しなさいよ!」
遠ざかる雪乃の背中を見送りながら、陽太は雪の中に立ち尽くした。
濡れた服のまま去っていった彼女の言葉が、重くのしかかる。
『父様の様子が、少し変なの』
雪乃の父もまた、華族であり、新しいもの好きだ。もし、彼があの面を手にしていたら?
晶の屋敷で見た惨劇が、今度は雪乃の家でも起きようとしているのかもしれない。いや、もう始まっているのだ。
陽太は懐に入れたメモ帳と、布に包んだ「燃えない面」を強く握りしめた。
逃げている場合じゃない。




