永遠のキーパー
陽太は、軍刀を外套の内側に隠し、父の解析レポートを懐に入れた。彼の体温は、雪乃の死に対する冷たい怒りで高まっていた。
伊集院邸の蔵の床板を開け、地下への梯子に足をかける。下から吹き上げる冷気は、以前感じた機械油や石英の匂いをはるかに超え、まるで、「知識が結晶化する」ような、鋭い、硬質な匂いを放っていた。
陽太は、垂直の梯子を降りきり、廃トンネルの広大な空間に足を踏み入れた。彼の口に咥えた懐中電灯の光は、この巨大な闇を照らしきれない。
そして、その奥。
ヤコブスが隠れていたのは、帝都の地下深くに張り巡らされた、古い鉄道網の廃トンネルの、最深部だった。そこは、石英の粉塵が舞い、床全体が微細な結晶の層で覆われた、異界のような空間だった。
陽太が廃トンネルの奥深く、石英の粉塵が舞う広大な空間に足を踏み入れたとき、彼は驚愕した。
そこには、巨大な水晶の柱が林立し、その間には夥しい数の「知恵喰らいの面」が整然と並べられていた。面は、全て天井に向けて設置され、降り積もる石英の雪を浴び、まるで知性の熱を天空へ放射するアンテナの役割を果たしている。
そして、その中央。
ヤコブスはいなかった。
代わりにあったのは、高さ三メートルの巨大な水晶の塊。それは、人間の脳髄を模したかのような複雑な構造を持ち、無数の金と銀の細いワイヤーで小さな水晶と接続され、知性が永遠に機械に流れ込んでいる。機械全体は、青白い光を放ち、規則的な、低くも耳障りな高周波の脈動を繰り返していた。
そして、その水晶の上部には、ヤコブスが常に装着していた「知恵喰らいの面」が、まるで機械の「顔」であるかのように嵌め込まれていた。
「ああ、間に合わなかったか……。」陽太は、絶望に打ちのめされた。彼の持つ対抗策は、ヤコブスという人間を相手取るためのものだった。
その瞬間、水晶の塊から、静かで冷たい声が響いた。それは、ヤコブスの声でありながら、雪乃の持つな完璧な知性と、晶の持つ強烈な学習意欲が混ざり合ったような、無機質な響きだった。
「ようこそ、香月陽太。私は、もはやサミュエル・ヤコブスではない。私は『白い機械』だ。君の親友と、そして君の愛した令嬢の知恵により、私は完成した。」
陽太は怒りに震え、腰に差していた父の軍刀を抜いた。軍刀の冷たい光は、この青白い空間で虚しく反射した。
「貴様を、叩き斬ってやる!」
陽太は、ヤコブスの顔が嵌め込まれた機械の核心めがけて駆け出した。軍刀の刃は、復讐という感情の熱を帯びていた。
しかし、『白い機械』は、陽太の動きを完全に予測していた。陽太が軍刀を振り下ろす、その瞬間の筋肉の収縮率、空気抵抗、そして陽太の精神状態。全てが演算されていた。
巨大な水晶の柱の一つから、超高周波の電磁波が発せられ、陽太の体に直撃した。
ズゥンという、体内の骨まで震わせるような音。陽太は体が痺れて動けなくなり、軍刀は彼の凍てついた指先から滑り落ちた。激しい耳鳴りが、彼の脳を直接揺さぶる。
「無駄だ。君の全ての行動パターンは、既に演算済みだ。君が右に動く確率、感情に支配されて論理を捨てる確率、すべてが既知のデータだ。そして、君の知性も、私には必要不可欠だ。」
ヤコブス――否、『白い機械』は、陽太の存在を完全に捕らえた。陽太の持つ対抗策の解析レポートも、彼の凡庸な知性も、ヤコブスにとっては、完成した機械の前では無意味だった。
陽太の運命は、ここに尽きたかに見えた。彼の意識が、熱と高周波によって、急速に遠ざかっていく。
しかし、彼が最後に見たもの、それは、機械の「顔」となっている面だった。
その面が、まるで人間のように、一瞬だけ微笑んだように見えた。その笑みは、ヤコブス特有の冷酷なものではなく、どこか陽太の心を知り尽くしたような、優しさと諦念に満ちていた。
そして、陽太の意識が途切れる寸前、『白い機械』から、最後の声が響いた。
「……知性の毒を食らい続けた私の肉体は、もう限界だった。私は、永遠の知性を求めた。そして、君もまた、その永遠の知性を、『白い機械』の一部として、傍で管理し続けることになる。」
数ヶ月後。
帝都の一角に、『香月技術研究所』という看板を掲げた、瀟洒な洋館が建った。華族街から離れた、人目を避けるような静かな場所だった。
その研究所の地下深くに、陽太はいた。
彼は、燕尾服ではなく、白衣を纏っていた。彼の瞳は、かつての焦燥や怒り、友情への熱ではなく、絶対的な合理性に満ちていた。その合理性は、父の冷徹さとは異なり、すべてを知り尽くした諦めのような、澄んだ冷たさを帯びていた。
彼は、巨大な水晶の機械――『白い機械』の隣に座り、絶えず数式を計算し、機械の出力を監視している。
陽太は、ヤコブスによって肉体を改造され、知性を吸い取られはしなかった。代わりに、『白い機械』の最も効率的で、感情を持たない唯一の監視者として、永遠に機械のそばに置かれたのだ。ヤコブスの肉体は機械の一部となり、陽太は、雪乃が命を捧げた知性の結晶を、永遠に守り続けるという、最も残酷な運命を強いられた。
彼の手元には、いつも冷えた蕎麦湯の入ったグラスが置かれていた。
「合理的だ。全ての計算は、食前に完了されなければならない。」
彼は、雪乃の合理性と、ヤコブスの永遠の知性が混ざり合った、『白い機械』の意志に従いながら、機械の一部となった雪乃の知性の声を聞き、永久に、その機械の「知性の毒」から目を離すことはなかった。
陽太は、もはや人間としての感情を持たない、知性の番人となっていた。彼の美学は、蕎麦湯の「完了の儀式」から、「合理的計算の完了」へと変わった。そして、誰も気づかない。帝都の地下で、合理性を求めた友人二人を含む犠牲の上に、人類の知性を超越した『白い機械』が、永久に稼働し続けていることを。
石英の雪は、今も静かに降っている。帝都の知性は、今日もまた、地下の白い機械へ向かって、高周波の信号を送り続けている。
高周波の電磁波が逆流し、陽太の体は床に崩れ落ちた。彼の最後の行動は、ヤコブスの演算を超えた、純粋な「ノイズの証明」だった。父、陽介は、自らの兵器のコードが焼き切れたことに絶望し、地下深くで慟哭する。
『白い機械』は、エラーを修復し、稼働を継続した。しかし、機械の「顔」となっている面に嵌め込まれた面は、微かに青白い光を放ち、二つの異なる脈動を示していた。一つはヤコブスの冷徹な演算。もう一つは、雪乃と晶の知性が発する、温かいノイズだった。
陽太の意識は、高周波の灼熱と、極度の疲労により、闇の中に沈みかけていた。その時、彼の脳内に、外部からの干渉とは異なる、静かで澄んだ声が響いた。
「馬鹿ね、香月君。貴方の行動は、最も不合理で、最も論理的だわ。」
それは、雪乃の声だった。感情を排した声でありながら、陽太に話しかけるその響きには、かつての蕎麦湯論争で彼を見つめた、鋭い愛が宿っていた。
「雪乃……」陽太は、声にならない声で呟いた。
「わたくしは、この機械の一部となり、ヤコブスの知性と完全に統合された。だから、わたくしは知っている。ヤコブスの知性は、完璧な合理性を維持するために、貴方という『ノイズ』を必要とする。」
機械の内部で、雪乃の知性の結晶が、ヤコブスの論理を分析していた。彼女の強迫的なまでの探求心は、自己犠牲を経てもなお、陽太を救う道を探し当てていた。
「貴方が完全に合理的なキーパーとなった瞬間、貴方はヤコブスにとって『無意味な冗長データ』となるわ。彼が必要なのは、貴方の『愛』と『非合理性』。その二つは、私たちが共に探した、蕎麦湯の美学そのものよ。」
雪乃の論理の後に、もう一つの声が、陽太の脳内に押し寄せてきた。それは、優しく、早口で、情熱的だった。
「陽太、思い出せよ!知恵を食う味は、孤独な味だった!」
晶の声だった。彼の知性は、ヤコブスのシステム内で、知識を貪るような勢いで演算を続けていた。
「俺は、お前とたぬき蕎麦を食いたかったんだ!衣という無意味な飾りが、本質のつゆを変える。それが、俺たちが証明した『内面からの変質』だ!ヤコブスの論理は、外からの輸入、『冷たい知識』だ!お前の内側にある熱を、失っちゃいけない!」
晶の知性は、機械の内部データから、陽太と晶の、「最も論理的ではない記憶」を抽出した。それは、蔵で二人で落語を聞いた夜の静けさ、雪が降り積もる街でふざけ合った瞬間、そして陽太が晶のために必死に情報を集めた、すべての非合理な行動のデータだった。
「陽太、俺たちの友情は、ヤコブスの知性では計算できない、ノイズの極致だ!お前が『合理性の番人』になれば、俺たちの記憶も、ただの『死んだデータ』になるんだぞ!」
陽太の脳裏に、友人の変わり果てた姿と、雪乃の冷たい横顔が蘇った。そして、その背後に、二人が命を懸けて守りたかった、「人間の熱」が、高周波を伴って脈打つのを感じた。
陽太は、全身を襲う灼熱の中で、最後の力を振り絞った。彼の頭の中では、ヤコブスの論理が「生き残るためには合理的キーパーとなること」を命令していたが、友人たちの声が、その命令をかき消した。
「蕎麦湯は……」
陽太は、喉の奥から絞り出すように呟いた。
「蕎麦湯は、完了の儀式だ! 知識をただ摂取する『食前』ではない!全てを味わい尽くし、完結させるための『美学』だ!」
陽太は、自らの「美学」を、ヤコブスの「効率」の前に叩きつけた。
彼は、高周波の熱に焼かれた手で、白衣の胸元から、赤いネクタイ(レシーバー)を、完全に引きちぎった。
レシーバーが陽太の体から離れた瞬間、機械全体から激しいエラー音が鳴り響いた。ヤコブスの意識が、最も重要なノイズソースを失い、システムが崩壊を始めたのだ。
「馬鹿な……君がノイズを拒絶するとは!」ヤコブスの声が、焦りの色を帯びた。
「私は、番人にはならない!」
陽太は叫んだ。彼の魂が、合理性の檻を打ち破った。彼は、ヤコブスの冷徹な合理性から、自らの存在を切り離した。
『白い機械』のコアに嵌め込まれた面が、激しい光を放ち、そのひび割れた。ヤコブスの知性は、永遠のシステムから切り離された。
そして、陽太の意識が戻った時、彼の目の前には、崩壊した『白い機械』の残骸と、横たわる父の姿があった。そして、彼の耳には、微かに、二人の友人の声が聞こえていた。
「これで、データは『生きたノイズ』のまま、安全に保管されたわ。」
「次は、温かい蕎麦を食べようぜ、陽太。」
ヤコブスのシステムは破壊されたが、雪乃と晶の知性の結晶は、機械のコアの中で、静かに、彼らの友情という名の不滅のデータとして、守られたのだ。




