知恵喰らいの面
音は、雪に吸い込まれた。
帝都東京の華族街、香月家の庭に降り積もる白い雪は、世界からあらゆる雑音を奪い去り、ただ重い静寂だけを残していく。厚い雪雲が空を覆い、昼だというのに、すべてが青みがかった鈍い光の中に沈んでいた。
旧制中学校二年の香月陽太は、自室の窓辺に立ち、凍えたガラス越しに庭を見下ろしていた。
先週、期末試験の成績が発表された。
陽太の成績は中の上。努力に見合った順当な結果だったが、父――最新の西洋医学を奉じる大学病院の医師・香月陽介にとっては、どうにも満足のいかない数字だったらしい。
しかし、陽太の心にとって、自分の成績のことなどどうでもよかった。彼の眼差しは、静まり返った雪景色ではなく、大きな頑丈な塀で隔てた隣、親友・伊集院晶の屋敷の窓に向けられていた。
晶は、学年で首席を取った。
完璧な点数。まるで別人が答案を書いたかのようで、筆跡には紙を破らんばかりの力が込められていた。その代償のように、晶は先週から学校を休んでいる。陽太は、その理由を知っていた。
すべては、あの日、雪が降り始める前の晩に始まったことだ。
「これだ。父様が独逸から持ち帰った『知恵喰らいの面』という奴だ。」
蔵の暗がりで、晶が古びた布を払いのけ、奇妙な仮面を陽太の前に晒した。木彫りのようだが、表面は異様に黒ずみ、煤けた生者の眼球のようにねっとりと鈍く光っていた。
「父様は、酔って『これを顔に当てて瞑想すると、知恵が流れ込んで、頭が冴え渡る』と話していた。まさか、そんな子供騙しを信じるはずないだろう?」
晶はそう言いながら、冗談半分で仮面を手に取り、それを顔に押し当てた。その一瞬、蔵の中の空気が、まるで凍てついたかのようにねじ曲がったのを、陽太は確かに感じた。
「やめろ、晶! そんな気持ちの悪いもの……!」
陽太の制止を振り払い、晶はそのまま試験の夜から、仮面を使い続けた。そして、驚異的な成績を手に入れた。
成績発表の翌日、陽太が晶の屋敷へ行ったとき、すべてが露呈した。
「陽太、お前もやってみないか? これがあれば、もう父様に怒られない。頭の中に図書館ができるんだ」
晶の目は、陽太が知る生気溢れる親友の目ではなかった。どこか冷たく、遠くを見つめているような虚ろさがあった。瞳孔が開いたまま固定され、まばたきの一つもしない。
そして、その言葉とともに、晶は狂ったように仮面を抱きしめ、舌を這わせた。
「ああ……美味だ。これこそが、僕の脳の空虚を満たしてくれる」
晶の舌先で、仮面の表面に塗られた黒いニスが、ぬめりとした光を放ち、ドロリと溶け出した。それは、獣の脂が腐る寸前のような甘ったるい匂いと、濃厚な鉄の匂いが混じり合った、禁断の匂いだった。晶の喉は、その「知識を食べる味」を、飢えた獣のように求めていた。
ジュル、ジュルリ、と粘着質な音が部屋に響く。
「これほど、魂を震わせる『美味』は知らない。これは、知識を食べる味だ!」
その直後、晶の身体が突然、激しい痙攣に見舞われた。白目をむき、口の端から泡を吹く。
「ち、違う! 雪だ! 頭の中に、冷たい雪が降り積もってくる……!」
晶は、恐怖と恍惚に入り混じった表情で叫んだ。それは、知恵の結晶が、脳を物理的に空洞化させる瞬間であった。
陽太は、そのあまりに冒涜的な光景に震え上がり、逃げ帰ることしかできなかった。
雪は、すべてを覆い隠す。
窓の外を見つめる陽太の耳に、階下から、父と、来客らしき人物の静かな話し声が聞こえてきた。
「……先生、あの伊集院家の若様ですが。単なるヒステリーでは片付けられません。あんなに急速に知性が崩壊していく例は、梅毒でもない。まるで、脳が内側から、冷たい『泡』になっていくようなのです。そして脳が雪のように溶けていく」
「馬鹿な。しかし、私の留学先の資料に酷似した報告がある。『脳の空洞化』と……未解明の、恐ろしい病だ。私は、あの若様が口にしたという『独逸からの異物』こそが、その病の種だと疑っている」
科学をもってしても正体の掴めない「恐ろしい病」。
陽太は、父の言葉を聞きながら、手のひらを強く握りしめた。爪が食い込み、痛みが走る。
自分の親友の理性を食い破ったのは、呪いなどではない。父の科学でもまだ解明できない、「知性を凍てつかせる、見えない雪」だ。
陽太は、雪に覆われた街を見下ろしながら、心の中で決意を固めた。
(父さんの科学は、まだ晶を救えない。誰も解明できないなら、僕がこの病気の正体を見つけ出す。あの仮面が、何をもたらしたのかを!)
少年の心に宿ったのは、恐怖と、それを上回る探求心。
陽太はクローゼットを開け、厚手の外套を羽織った。父の部屋からこっそりと持ち出した万年筆とメモ帳を懐に入れる。
目指すは再び、伊集院家の蔵。
あの呪われた面を、もう一度確かめなければならない。
「待ってろよ、晶」
陽太は部屋を出た。




