8 ただ、そうしたかった
山村 隼は、ただ単純に、そうしたかっただけだった。
放課後の図書室。借りた本を返しにきた隼の目の前に、背の高い書架の最上段にある本を、野上 凛りんが背伸びをしながら取ろうとしている姿があった。
何度試みても指先がかすめるだけで、苛立たしげに前髪を払う彼女の様子を見て、隼は迷わず声をかけた。
「野上さん、俺が取ろうか?」
野上は驚いたように顔を上げ、少しはにかんだように「ありがとう」と微笑んだ。隼は、彼女の目線より少し上にある本を、難なく取り、手渡した。
「ありがとう。助かった」
そう言って、野上はにこやかに去っていった。隼は、なんだか心がじんわりと温かくなるのを感じた。
その日の帰り道。山田 卓たくが、隼の隣に並んだ。
「お前さ、野上凛にいい格好してたな」
山田の言葉に、隼は戸惑う。
「いい格好って…ただ、野上さんが困ってたから」
「ふーん。でもさ、ああいうのって、結局自己満足だろ? 誰かに感謝されて、自分って優しいって思いたいだけなんじゃないの?」
山田の言葉が、隼の胸に突き刺さった。自己満足。その言葉が、頭の中で何度も反響する。
たしかに、野上さんに「ありがとう」と言われた時、嬉しいと感じた。心が温かくなった。それは、自分が「良いことをした」と確認できたからなのだろうか。
誰かの役に立ちたいという気持ちは、本当に純粋なものなのだろうか。それとも、その裏には、自分が気持ちよくなりたいという、汚い感情が隠されているのだろうか。
ぐるぐると、思考が巡る。夕焼けに染まる帰り道が、まるで自分の心のざわめきを映しているようだった。
次の日も、隼は山田の言葉が忘れられなかった。図書室の前を通るたび、野上の姿を探してしまう。もし、また彼女が困っていたら、自分はどうすればいいのだろう。助けるべきか、それともやめるべきか。やめれば、山田に「やっぱり自己満足だったんだ」と思われるかもしれない。助ければ、また自己満足だと笑われるかもしれない。
そんな時、ふと、図書室から出てきた野上凛とすれ違った。野上は隼に気づき、微笑んで会釈をした。
「山村くん、この前は本当にありがとう。あのおかげで、読みたかった本が読めたよ」
その笑顔は、何の曇りもない、純粋な感謝だった。その瞬間、隼はハッとした。
山田の言う「自己満足」は、きっと否定できない。誰かに親切にすれば、嬉しくなる。それは事実だ。でも、その嬉しさが、誰かを助けたいという最初の気持ちを否定するものだろうか? 違う。
隼は、野上さんが困っているのを見て、反射的に「助けたい」と思った。その瞬間に、損得や見返りを考える隙なんてなかった。ただ、そうしたい、という気持ちが、心が、先に動いたのだ。
その**「そうしたい」という純粋な気持ちこそが、真心**なのだ。
親切をした結果、心が温かくなったり、感謝されたりするのは、後からついてくるおまけのようなもの。それは、悪いことではない。むしろ、誰かのためになったという証拠だ。
隼は、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。もう、山田の言葉に悩む必要はない。自分の気持ちを信じればいい。
夕暮れの空を見上げると、一筋の飛行機雲が長く伸びていた。あの雲のように、自分の親切も、誰かの心にまっすぐに届いていけばいい。そんな風に思えた。




