10 私だけの答え
花音の部屋は、まるで小さな図書館のようだった。本棚には、父が教会から持ち帰った聖書、神秘的な装丁のスピリチュアル関連書、著名人の言葉が並ぶ名言格言集がぎっしりと並んでいた。
花音は、何かにすがりたかったわけではなかった。ただ、**「もっと良い自分」**になりたかった。
たとえば、聖書を開く。
「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい」
そうあるのを目にするたびに、花音の心はざわついた。理不尽なことをされたら、言い返したくなる。悔しい気持ちを抑えきれない。それが自分だ。
スピリチュアルの本を読む。
「宇宙はあなたの思考を現実化する」
そう書いてあるページに線を引く。でも、いくら「宝くじが当たりますように」と念じても、何も変わらなかった。現実の銀行口座の残高は、夢とはほど遠い。
名言集に目を落とす。
「失敗を恐れるな。成功への道は失敗の上に築かれる」
この言葉は、なんだか胸がすくような気がした。でも、いざ発表で失敗したときは、恥ずかしさで顔が熱くなり、二度と人前で話したくないと思った。怖くて、次の一歩を踏み出せない。
ある日、友人のさつきが花音の部屋を訪れた。本棚を見て、目を丸くする。
「花音、すごい。なんか、すごい努力してるんだね」
努力。その言葉が、花音にはひどく虚しく響いた。
「どうかな。どれを読んでも、何も変わらないんだ」
花音はそう言って、適当に手に取った名言集をぱらぱらとめくった。
さつきは何も言わず、ただ花音のそばに座った。しばらくの沈黙の後、彼女は小さな声で言った。
「あのね、花音。この間、私が失恋したときのこと覚えてる? あの時、花音が何も言わずにただ隣にいてくれたことが、本当に嬉しかった。花音はいつも、私が困っていると、すぐに気づいてくれる。それって、誰かが書いた本を読んで学んだことじゃないでしょ?」
花音は、ハッと顔を上げた。
そうだ。さつきが失恋した日、彼女はただひたすら泣いていた。花音は気の利いた言葉なんて言えなかった。でも、放っておけなくて、ただ隣に座って、背中をさすった。その時、頭の中には何もなかった。ただ、**「そうしたい」**という気持ちだけがあった。
聖書に書いてあるように「愛」を説くことも、スピリチュアルの本のように「魂の成長」を願うことも、名言のように「強くあれ」と振る舞うことも、花音にはできなかった。
でも、目の前の人が悲しんでいれば、一緒に悲しくなる。
誰かが笑っていれば、つられて嬉しくなる。
誰かが困っていれば、放っておけなくて、手を差し伸べてしまう。
花音は、そっと本棚を見た。
そこに並ぶ本は、どれもこれも素晴らしいことが書かれていた。でも、それは「理想の誰か」の姿だった。
自分は、完璧な人間ではない。
悲しみも怒りも感じる。
失敗を恐れるし、ずるいことを考えたりもする。
でも、それでいい。
聖音を読んでも、スピリチュアルの本を読んでも、名言集を読んでも変わらない。
だって、それが自分なのだから。
花音はそう確信した。
そして、そのありのままの自分でいることが、誰かにとっては救いになることもある。さつきがそうだったように。
部屋に射し込む夕日が、埃を舞い上げながらきらきらと輝いていた。花音は、その光の中にいる自分を、初めて素直に受け入れられたような気がした。




