第二十七話 般若
遅刻が定期になって参りました。
定期にするなと何度言えばわかる?死にたいのか?
黒い死装束を着た少女は、上等な漆塗りの皿に載せられた食事達を食べ終え、盃に注がれた酒をようやく飲み干した。盃を置き、ひっそりと呟く。
「……ご馳走様でした」
毎度やっている事であったが、食べ終えた少女はどうにも落ち着かないようであった。目の前に座っていた割烹着の女は、何も言わずにいた。
「……やっぱり、怖い?」
割烹着の女は、静かに問う。死装束の少女は、真っ白な顔を少しだけ綻ばせて答えた。
「……顔に出てました?」
その答えに、割烹着の女は『少しだけね』と返した。普段滅多に心配の声を掛けてこない彼女がそう言った事を鑑みるに、今の自分は余程暗い顔をしていたのだろう。死装束の少女は、素直に内心を吐露した。
「えぇ、とても怖いです。ここまで来たのに、私は死ぬのかもしれないと思うと。……私は弱くなってしまった。情けない事に、まだ死にたくないんです」
自嘲にも等しい少女の言葉に、割烹着の女は苦しそうに微笑んだ。心の裡を突き刺すような痛みを、ぐっと堪えたような、そんな顔つきであった。
少女はそれを認める事なく、傍にあった2本の刀——赤を基調とした、打刀と脇差——を手に取り、座布団から立ち上がった。そのまま縁側に出て、床材である木板を踏む。2人の人間が移動する音が、軋みとして家の中に響いた。
少女と淑女は、居間から部屋を通り、玄関に辿り着く。少女は臑当で土間まで下がり、硝子と格子が付いた重い扉の引手に手を掛ける。
「……桜子ちゃん」
女の口元にあった微笑みは消えていた。そして、その瞳には強い悲しみが込められている。
「……いつ、帰ってくるかしら」
割烹着の女は、目の前に居る少女に問いただした。
すっかり伸びた、綺麗な黒髪。小さな背丈に見合わない、真っ赤な2本の刀。麗しい白い顔から覗く、生きた紅い瞳。
割烹着の女は、目の前に立つ娘へ、優しい声色で問い掛けた。問いを受けた娘は、一文字に結んでいた口を綻ばせて、侍女である淑女へ答えを返す。
「大丈夫です。遅くとも、盆には帰って来きますから」
娘は、きっぱりとそう言った。引戸を横に開き、太陽を浴びる。突き抜けるように青い冬空から照るそれは、白い姿をしていて、出て来た自分を1点に照らしている。
「それでは。行って参ります」
再び後ろを振り向いて、割烹着の女にそう言った。女は噛み締めるように頷いて、息を吸い、一言だけ返した。
「——行ってらっしゃい、桜子ちゃん」
扉から出た娘は、目の前に広がる枯れた芝生と、まだ青い竹を見て深呼吸した。新鮮な冬の空気が、身体の中で循環する。
黒装束に身を包んだ『天使』は、己が最期の戦場となる場所への1歩を踏み出した。
——大日本帝国製造版・対天使用人造特殊兵器『櫻・壱号』は、その日を最後に帝都某所の生家を後にしたとされている。
延天は十二年、よく晴れた師走は22日の事であった。
***
家を立ち、2日経った24日の朝の事である。桜子は黒装束を身に纏い、最後の地に降り立った。
——青く美しい海が広がる、異国の海岸。そこは死神の到来を全く歓迎しておらず、白い曇天がどこまでも広がっていた。沖から吹く冬の海風が、桜子の身体に寒さとして沁みる。長い髪と和服達が、風でたなびいていた。
ここは、布哇は真珠湾にある港である。
「……体調は?」
桜子が異国の海風の匂いを感じ取っていると、1人の背広の男がそう問う。隣の男も、その問いの答えが気になっている様子であった。
「普通よ。可もなく不可もないわ」
背広の両名は、相変わらず愛想の薄い少女の答えに、思わず顔を見合わせた。その直後に、もう1人の背広の男が、背を向けた桜子に対して言葉を告げる。
「この戦いが、君の最後の戦いだ。『契約』の手配は済んでいる。無事に帰って来てくれ。……それと、今まですまなかった」
背広の男の言葉に、桜子は首を僅かに向けて溜息と共に答えた。
「……別に。もう終わる事なんだし、謝罪は相応しくないでしょ」
桜子は手に握っていた赤色の打刀と脇差を袴の下の帯に差し込み、吹き続ける海風に逆らうように歩き出した。
『天使』が製造されるより前、布哇の真珠湾にて日本とアメリカは確執があった。そこを戦場に選ぶのは随分と挑発的であり——。
(……悪趣味ね、ローズらしいけれど)
桜子は左側に突き刺さっている2本の赤い刀の柄を見ながら、その内の1本、打刀の鍔を握り込む。ふと顔を上げると、目の前に大きな白い教会が見えた。
——海の町らしい白亜の建物の頂点には、真鍮で出来た十字架が高らかに聳え立っている。教会は高い建物と平屋に近い形のものがくっ付いており、特殊な風貌をしていた。
桜子はその建物の扉に立ち、押し扉と思われる真新しい金属製の扉に手を掛ける。
——桜子は、金の塗装が施された真鍮の取手を握り込んだ。そのまま、両手を使って重く真っ黒な扉を開く。蝶番と冷たく低い重厚な音が、広い教会の中にこだまし、ようやく目の前の視界がハッキリした。
両側に硝子が嵌め込まれた室内は、外観通り奥行きが広い形のものであった。曇りの白い光が、硝子を隔てて部屋の中に入っており、左右2列の置かれた長椅子が、縦にずらりと並んでいる景色の向こう側に、20数人の淑女達が見える。
その淑女達は、皆一様に桜子に銃口を向けていた。機関銃と拳銃をそれぞれ持ち、こちらに黒い口を向ける彼女らに対し、桜子は問い掛ける。
「……貴女達、人間よね? ローズっていう『天使』に用事があるのだけど、道を開けてくれないかしら」
桜子はそう言って、建物の中に足を踏み入れた。足袋の底にある硬い素材と、床が擦れあう音が聞こえたその瞬間。
——正面から、発砲音が聞こえた。
その音に、桜子は驚きを隠せなかった。人間が目の前に立ち、発砲している。コルンブルメの時とは訳が違う。人が隠れていないのだ。
「…………何の、つもりかしら」
桜子は、視線の先に居た真ん中の女へ問い掛ける。女は僅かに手を震わせながら答えた。
「お待ちしていました、サクラ号。我々はローズ様の命に従い、貴女を足止めする為にここに立っています」
中心の女は、桜子に対してそう言った。桜子は女のその言葉に眉を顰める。
「は……?」
桜子の疑念に応えるように、女は言葉を続けた。
「我々はローズ様の血肉を頂きました。ローズ様の弾丸を以て、貴女をここで引き留める為に——我々は人を捨てたのです」
女のその言葉に、桜子は明確な怒りを抱いた。その怒りは目の前の女達ではなく、彼女らの奥に居る、あの金色の薔薇に対する怒りであり——。
「……そう」
桜子は目を伏せ、左脇に差していた打刀に手を掛ける。鍔を押し込み、ゆっくりとその刀身を抜き取った。
——赤い鞘から、真っ白な皆焼が姿を見せる。美しいそれが、光に反射してぎらりと煌めいたのを認めた桜子は落としていた視線をゆっくりと上げる。緩く湾曲した切先と冷たい視線を、目の前の銃を構えた『元人間』達に向けた。
「話が変わったわ。私は貴女達を斃す。……自由に恨んで貰って構わないわ」
——真っ黒な装束に身を包んだ、赤い隻眼の小柄な少女。対峙すれば、この少女が自分達よりも遥かに格上である事が理解出来る。纏う空気も、見える仕草も、『強者』の動きだった。
「望むところですよ、サクラ号」
女は片手で拳銃を構え、空いた片手を上に振り上げ、横に薙ぎ払うように動かす。
——瞬間、銃口から眩い光が放たれた。その光は一瞬だけ教会を照らしたが、瞬く間に消えていった。
腕を広げた動きは、こちら側の同時射撃の合図である。半円形に配置した25人の修道女達が、真ん中の桜子に向けて一斉に射撃すれば、1発は確実に当たる……という算段の下に、腕を振り下ろした。
——その判断が大きな誤算であった事は、数秒後に彼女が身を以て知る事となる。
「えっ?」
こちらの白い光が晴れ、目の前が見えた時には、桜子は目の前に居なかった。
桜子は眩い光が見えた瞬間、脚に力を込めて真正面に走った。発砲の瞬間、桜子は銃達が一般製造の銃——『暈』ではない事に気付いた。一般的な銃では、まず馬力も速度も足らない。つまり、『全て見切って避ける』事が最善手であると判断した。
修道女達の弾丸は、全く桜子には当たっていなかった。周りの部下の目の色に、不安の色が差し込む。
「動揺しない!サクラ号から銃口を逸らさずに撃ち続けなさい!!」
女は喝を入れ、部下へ視線を遣る事もなく、僅かに見える桜子に向けて発砲を続けていた。
真っ白な教会の壁に、無数の弾痕が付けられて行く。その前には、必ず桜子が居た。彼女の後ろに、弾痕達が記されていく。薬莢が硬い床の上に落ちた時の軽い金属音と、発砲による破裂音、そして壁に当たる、無駄な銃弾の音だけが聞こえるそこで、女はグリップを握る手を震わせる。
——女はようやく、黒い少女が『鬼』と呼ばれていた理由を理解した。
桜子は教会の中を走りながら、赤い刀を振るっていた。激しい銃弾の雨を躱し、人とは比べ物にならない速度で『元人間』達に近付く為に。
発砲と同時に走り出し、地面を抉るように蹴って前方に飛んだ。前から飛んでくる複数の弾丸を、空気ごと振りかぶって切り裂き、姿勢を低くして、目の前の修道女達の目の前にまで迫った。
桜子は目の前に居る、パニックになってしまった修道女に向けて刀を振り上げた。そのまま、下に構えていた刀を脇腹から肩へ、逆さ袈裟に刀を振るう。
「……ッ」
柔らかい肉の感触が、手に伝う。『暈』で人を斬ってしまうと、こんなにも簡単に切れてしまうのか。桜子は歯を食い縛りながら、眉を大きく顰める。それはまるで、鬼になりかけている女のような表情であった。
1人を斬った直後に、相手の陣形が変わっていた。円形に囲まれているような状況に、桜子は刀を強く握り直す。断末魔より早く、撃たれるより早く、斬らねばならない。
数が数だ。1発でも弾丸に当たれば、そこからなし崩しで当てられる。
桜子は思考を振り切る為に、刀を振るった。目の前の修道女達の首を切り裂く為に考えを削ぎ始める。手に伝う柔らかい感触を忘れなければ、手が止まってしまうから。
円形から一番近くの人を斬った。振り上げた刀を肩から入れて骨ごと斬った。その次は、隣に居た人だった。動きを削る為に、刀を腹に突き刺した。次は拳銃を持っていた。腕を斬って、手の内で翻した切先で喉を切り裂いた。次は機関銃を持って、至近距離で撃とうとしていた。打刀の切先で銃を壊して、持っていた脇差で心臓を突き刺した。
両手に刀を持って、桜子は血を振るって次の人間に目を向ける。まだ終わっていない。
前後を取られた、2人だ。打刀で前の人を刺した後、脇差を後ろに投擲する。打刀を引き切り、脇差を刺した相手から抜き取った。次の人は、叫びながら銃口を向けていた。撃たれるより前に、2本の刀を同時に振るう。倒れるその人を避けて、次の人に向かった。脇差を上から真っ直ぐに肩へ刺して、引き下ろす。次の人は銃口をぶつけて来たので、脇差で弾いて打刀で腹を切り裂いた。次の人は機関銃だから、銃を壊して腕も毀した。腕を斬って、脇差で突き刺した。
何人殺した? 咽せ返るような血の生臭い匂いに脳みそを掻き回されて、覚えていなかった。見えるものが全て赤い。まだ居る。いつまで斬ればいい? いつまで人を斬れば、諦めてくれる? 違う、この人達は私に敵意を向けている。そうだ、刀を握らなきゃ。桜子は皮で巻かれた柄を握り込んで再び身体を起こした。
次……は近付いて来た人を斬っていた。殆ど条件反射だったように思う。首辺りへ刃を掛け、一気に引いていた。暖かい液体が手の中に垂れる。次の人は、両手を斬って突き刺してしまった。向けられた銃口に反応してしまった。次の人は遠かった。走りながら辻斬りに近い形を取らざるを得なかった。次の人は発砲と同時に銃を壊した。焦燥と恐怖の表情が忘れられない。次の人は機関銃を投げて来た。恐らく、死体から拾い上げたのだろう。投げられたそれを弾いて、近付いて来たその人を切り捨てた。
「サクラ号!」
——名前を呼ばれた。形を帯びたその声が、桜子の意識を突如として引き戻す。その人は強い怒りと悲しみと、ちっぽけな銃口を自分に向けていた。
その瞬間に、全てを悟る。床に広がる血溜まりと、倒れる修道女達。これらは全て、自分がやった事なのだと。
「……ごめんなさい」
相手が引き金に手を掛けた瞬間、桜子は刀を身体で隠し、相手に近付く。
——最後に手を掛けたのは、最初に声を上げた人だった。最後まで瞳には抵抗の意思があり、自分を鋭く見ていた。僅かに恐怖に震えていたが、それでも勇敢な人だった。
彼女の放った弾丸は真っ二つに斬られており、桜子は確信と共に最後の修道女へ近付く。桜子は突きの姿勢で淑女の身体を突き刺すと、最奥の扉に衝突する形になった。
刀を突き刺した。その人を隔てて、扉ごと貫いて、打刀を突き刺した。突き刺して数秒で、その人は声も無く絶命した。
桜子は突き刺した場所から刀を抜き取り、倒れようとする淑女を支える。その状態で、桜子は溜息を吐くと同時に、眉間に痕が付く程に皺を寄せた。
怒り——であった。自分の肉を食わせた人達に、自分の武器を使わせる。自分に攻撃せざるを得ない状況を作り、あまつさえ無力化しにくい者達を置いて、命を無碍にした。
桜子は心臓から湧き出る憎悪と憤怒に耐え切れず、目の前にある木製の扉を思い切り蹴り上げた。
——ばきんっ、という鈍い音が聞こえた。
施錠が壊れたらしい。桜子は上等にも施錠された扉に苛立ちをぶつける為に、もう1度扉を蹴り上げる。
前に外れた扉を潜り、奥に待って居た集団——ローズを中心とした数十人へ目を向ける。
***
部屋の中で、ローズは残りの修道女と共に、桜子を待っていた。修道女の1人が、顔を伏せて待っているローズに問い掛ける。
「彼女らは、後どれ程保つでしょう」
彼女の言葉に対し、ローズは髪を掻き上げ、微笑んで答えた。
「直に破られます。ものの数秒で、サクラコはこの部屋まで来るでしょう」
そう言った直後に、ローズはふと顔を前に向けた。それと殆ど同時に、目の前の木製の扉から、何かが裂け入る音が聞こえた。ローズはその煌めきから、それを刀が突き刺さった音だと理解した。
「……ほら」
扉に刺さった刀の切先が1度抜き取られると、扉を強く叩く音がローズ達の間に響き、それに呼応する形で全員に緊張が走っている。再度それが聞こえた後、扉の前に桜子が現れた。
修道女達の視線が、破られた扉——桜子に集まる。ローズはその瞬間、『決して撃つな』と皆に目配せする。
血が頬にべっとりと着き、歩く音さえ水を引き摺るように聞こえる。長短それぞれ2本の刃先からは、刀の油に反発した赤い粘液が垂れ、白い教会の床を汚していた。
その姿を見たローズは、今までの微笑みとは比較にならない明るい顔で声を上げた。
「ここまでお疲れ様です、サクラコ!会いたかったですよ!」
まるで永らく会って居なかった旧友と顔を合わせたような明るい声色で、ローズは桜子に声を掛ける。
明るいローズの声色に反して、桜子の背後には血を流し無惨にも斃れている修道女——ローズのかつての部下達——が、転がっている。それがローズに、見えていないはずはなかった。
桜子は相手のその明るい声色に、酷い嫌悪感と吐き気を催しながら問い返す。
「……その前に答えろ。あの人達にどうして、自分の肉を食べさせた?」
ローズは桜子の質問に対して、笑みを全く崩す事なく、麗しい聖職者の顔つきで答えた。
「……貴女の為ですよ、サクラコ」
その声は、はっきりと邪悪であった。
そろそろ終わっちゃうなー、予定では残り四話か三話です。




