第二十三話 記憶
大遅刻定期です。
最近はずっと調子が悪いので、12時投稿は難しいかもしれません。
大変に申し訳ございません。
——荒れ狂う吹雪の音が、耳の奥に残っていた。酷い冷たさと、痛みの熱さが重なる。身体が重い。このまま目を開けなければ、何の抵抗もなく物事は終わるだろう。自分の意識——そう言うには曖昧だが、この場ではそう言わざるを得ないモノ——が、ゆっくりと落ちていく感覚があった。
恐らく、これは夢だ。夢とは波である。押し寄せるように見える事もあれば、遠くにうっすらと形だけが見える事もある。その空間は静かでいて、時折微かに騒がしい。全身の力を抜いて流れに身を任せると、そこが海の中であるかのように底へ沈んでいく感覚がある。
そこは緩やかで、それでいて無限に暗黒が続いている。攫われることも、立ち止まる事もない。ただ落ちていくだけである。無抵抗で、身体が静かに流れ落ちる。
……
…………
不意に目を開けた。
天井——目の前の景色は雪のように白く、凹凸もない。吹雪と違うところといえば、適温に調節された室内の空気と、一定の感覚で精密機械の音が聞こえるところだった。
「おはよう」
そう言った白衣の男は自分を見下ろしながら、少しだけ微笑んだような気がする。その瞬間に、大体の事情を察した。起き上がる気力も湧かず、深い溜息を吐く。
「……死に損なったのね、私」
桜子はベッドから起き上がる。布団の中にある自分の身体をゆっくり出しながら、右手で上半身を支えるように身体を起こした。右手——自分の右手に痛みが走らない事に気付いた桜子は、身体を起こして手に視線を合わせる。
「……」
右手を何度か動かすが、痛みなどなかった。やはり、骨折も元通りに治っている。その後、患者衣である青みがかった着物の内側——晒の巻かれている胸より、下の腹部を確認し、この辺りの痛みも引いているのを感じた。
やはり、傷の殆どはどうやら癒えている。それでも尚、自分の狭くなった視界——右目のそれが戻っていない事に気付き、改めて深い溜息を吐いた。
「……私、何日くらい寝てたかしら」
桜子はそう呟いて、白衣の男——宝生の方に視線を遣る。彼は部屋に付いている窓の方を見ながら、桜子に答えた。
「大体3日くらいだね。一応様子は見てたけど、殆ど傷は塞がってるよ」
宝生は椅子を引っ張って、桜子の病床の隣——病室にある簡易的な背凭れの無い椅子——に腰を下ろし、桜子を見下ろした。
桜子は顔に掛かる紐——鼻と眉上、そして耳へ這う1本のそれ——を気にしながら、右眼に当てがわれた眼帯に手を置く。
「……私の右目は、戻らないのよね」
桜子は静かにそう言って、深い溜息を吐いた。宝生は上げていた口角を平坦に戻して、流れるような黒髪を掻き分けるように指を動かした。そうしてこめかみの辺りを掻いて、視線を桜子に戻しながら答える。
「うん、『暈』で潰されていたからね。戻らないと言って良いだろう」
宝生のその言葉は、真っ白で静かな病室に虚しく響いた。分かっていたはずの絶望が、途端に形を帯びて目の前に落とされたような、ふざけた錯覚と共に深い溜息を吐く。
「……そうよね」
しばらくの沈黙の末に、桜子は絞り出すように答えた。延天は12年、木枯らしの吹く神無月の事である。
桜子が目を開けたのは、11時を凡そ過ぎた辺りであった。3日の間昏睡状態にあった事も手伝い、桜子は酷く空腹だった。不意に、以前の病院生活の事を思い出す。あの時戦った『天使』は誰だったか——あまり思い出せないが、その時の病院食は流動食だった気がする。今回は固形物だとありがたいと考えていると、看護師と思われる女が食事の乗った配膳台と共に、病室の中へ入って来た。配膳台から盆に乗った食事を、看護師は桜子の前にある机に乗せて、会釈と共に去った。
置かれた食事に目を遣ると、普通の固形物であった。麦飯と焼き魚、切り干し大根の煮物、味噌汁が中心に置かれ、端の小さな皿に梅干しが乗せてあった。どれも普段の料理よりかは幾らか冷めているが、思っていたよりもまともな料理で安堵すると共に、桜子は手を合わせて食事を始めた。
「いただきます」
味は特に言及する必要がない。見た通りの味で、少しだけ冷めている程度だった。特に言う事はない。——ただ、咀嚼して飲み込む度に、緑川の味が想起される事を除けば。
桜子は自分が思っていたよりも舌が肥えていた事と、病院食に対する失礼な感情を払拭する為に、側の宝生へ問い掛ける。
「病院の食事、変わったのね。前来た時は流動食が出た気がするのだけど……」
桜子の言葉に、宝生は首を傾げる。
「確かに患者の容態に合わせてある程度食事の形は変わるけど……君が流動食に至るまで重傷を負った事はなかったんじゃないかな」
桜子は、宝生の言葉に僅かな動揺を見せた。宝生は顎に手を当てながら、視線を右に向けて何かを思い出すような顔付きであった。しばし考えると、宝生は短く声を上げた。
「それ、10年くらい前でしょ? 確かその時、君が『食事を流動食にして』って言ったんじゃなかったっけ」
宝生はこめかみに指を置いて、桜子に視線を戻した。彼の言葉を聞いても尚、桜子は思い出せないといった表情を浮かべる。彼はこめかみに置いていた指を空に向け、くるくると指先を回した。
「10年前にさ、『食事の時間は無駄だから飲めるようにして』みたいな事言ってたんだよ。それで僕らが病院食をペースト状に——」
桜子は昔話を聞きながら、悲しげな表情を浮かべる。言い様のない寂しさと虚しさが心を攫った後に、痛みにも似た感覚が残った。
「どうかした?」
桜子は宝生の質問に背筋を少しだけ伸ばした。思索の海から一気に引き上げられた感覚と共に、宝生の顔に視線を合わせる。恐らく、宝生の発言に誤りはない。10年前から自分を診ている医者であり、逐一容態を確認して来る程に忠実な人物だから、覚えている事はそれ程驚くものではない。
故に、桜子は自分の事を考えていた。思っていたよりも、遥かに性格が変わっている。自分がどんな人格であったかすら、覚えていなかった程度には。
「そっか、私は……」
目の前に置かれた料理達を眺めて、桜子は納得する。これは確かに、時間の無駄と言える。生きる為、腹を満たす為だけなら、これは非効率的でしかない。
「……こんなにも、『人』になったんだ」
だからこそ、自分がこれを『良い』と思えた事が喜ばしく。無駄と思ってしまっていた事に、寂しさと虚しさを覚えていた。
退院の手続きを終え、病院からの帰路に着く道中で、桜子は運転手へ問い掛ける。
「貴方、宝生と同期なのよね?」
男は車のルームミラーを見ながら、肯定を意味する相槌と共に質問に答える。
「同省に配属されたのはだいぶ前だけどな。一応同期ではある。それが?」
「……彼、嘘を吐くような人ではないわよね?」
桜子の突拍子のない質問に対し、男は首を傾げながら答える。
「いや、覚えの限りでは1度もないな」
「……そうよね、ありがとう」
男の答えに、桜子は1人頷きながら、納得したように答える。男は何も分からなかったが、桜子は無意味な会話をしない人物である事も手伝い、特に深く言及はしなかった。
その直後、静かな車内に着信音が響く。男は『うわっ』と声を上げ、ハンドルを離す事なく携帯電話を取ってそれを耳に当てる。
「はい、こちら桐生。……はい、はい。代わります」
桐生と名乗った男は、桜子に携帯電話を差し出して彼女に告げる。
「緑川からだ。代わって欲しいとの事で」
桜子は身体を伸ばして電話を取ると、耳に当てて声を発する。
「代わりました、桜子です」
そう聞くと、電話の主は明るい声で問い掛けた。
【桜子ちゃん? 良かったわ、ずっと寝たきりって聞いてたから電話しちゃった。ごめんね?】
緑川の声色は楽しそうな雰囲気を纏っており、桜子は幾分か気持ちが楽になった。
「いえ……すみません、ご心配を」
【良いの、生きて帰って来てくれるだけで充分よ。良かったわ、今は車?】
緑川がそう聞くと、桜子は頷きながら答える。
「はい、家に向かってます。多分あと……30分くらいで着くと思います」
桜子がそう言うと、緑川は朗らかな声色で答える。
【あらそう? 良かったわ。待ってるわね」
「……ありがとうございます」
桜子はそう言って電話を切ると、携帯電話を桐生へ返した。
「ありがとう、終わったわ」
桐生はそれを取ると、ポケットにそれを入れてハンドルを両手に戻した。
「……良かったな」
桐生は一言だけ告げると、桜子は頷きながら答える。
「……えぇ」
桜子はそう言って、車の座席に背を預けた。自分にはまだ帰る場所があるのだと、桜子は心の底から安堵する。
***
とある女の使用人が、扉を叩いて部屋の中に入っていった。
「失礼します」
使用人の服装は黒いシャツワンピースに白いエプロンという、ごく一般的な女性使用人の服装であった。彼女は薄い金属製のクローシュと銀色のポット、銀食器に美しい陶器が乗った木製の料理台を、奥に見える初老の男の方へ押し始める。
くすんだ灰色の木材が床に敷き詰められた部屋には、窓が幾つも枠付けられており、その全てから優しく朝日が入っている。壁や窓は掃除が行き届いており、埃やシミ1つない清潔な空間を演出していた。
使用人は前に視線を戻し、初老の男の方へ目を向ける。長い木製の机の最奥に座っている、新聞を片手に見る男。白いカッターシャツに無地のネクタイを付けた、紺の背広を着た男は、使用人の方など見もせず、黙々と新聞を読んでいた。使用人は料理台を押しながら、男の下へと歩いた。男の後ろ——正確には座っている席の壁には、大きな風景画が見えた。川と湖畔が描かれた、何の変哲もない風景画である。
使用人はようやく長い机の最奥に辿り着き、隣の男——家主の彼へ言葉を掛ける。
「旦那様、朝食をお持ち致しました」
「あぁ」
使用人は、男が新聞紙を畳み机を開けたのを確認すると、料理台に置かれた物を男の目の前に置き始めた。右手にナイフとナフキン、左手にフォークを置いて、その中心にクローシュの乗った皿を、艶のある机の上に置いた。そのまま取っ手を握り、料理を男の前に差し出した。
——中央に目玉焼きが鎮座する皿の上には、それぞれの料理が乗せられていた。右側にはソーセージとベーコン、左側は豆と焼いたトマト、マッシュルームのソテーがあり、三角のトーストが乗った、一般的なイギリスの朝食である。
使用人は銀のポットにある湯を、美しい陶器の中に注ぐ。華やかな紅茶の香りが、使用人と男の間に広がった。
「……良い代物だな。どこのものだ?」
男の言葉に、使用人はソーサーとカップを組みながら、一言で答える。
「クロックハーツのダージリンです」
使用人の言葉に、男は頷くだけであった。使用人は陶器に注いだそれを、組んでいたカップに注ぎ、男の前に差し出した。
男はまず、注がれた紅茶に口を付ける。そのままソーサーに戻し、銀食器を手に取って皿の料理を口にした。
使用人は主人の側で待機していた。食事の中で、主人が紅茶を2杯飲む事を知っている為である。凡そ皿の半分を食べ終わる頃に、紅茶も飲み終える。
黙々と食事が進む中で、カップの中の紅茶は順調に少なくなっていった。使用人は2杯目の湯を陶器の中に入れ始めた。
凡そ半分。カップの紅茶の底が見えた辺りで、使用人は陶器から2杯目の茶を注いだ。華やかな香りが漂う中で、男はナフキンで口元を拭き取ると、静かに口を開いた。
「……ロザリオ」
男に名前を呼ばれた使用人は、僅かに動きを止めた。そうして男に視線を合わせ、問い返す。
「はい、旦那様」
「ロシアの『天使』が、遂に死んだようでな。私はてっきり、アメリカとの全面的な戦争になるかと思っていたんだが……」
男は傍らに置いていた新聞を手に取り、使用人に渡した。写真に写っていたのは、2人の同胞——パトソルチェと桜子であった。英字で記された文章には、『枯れた向日葵』とあり、桜子の快挙を強く謳っていた。使用人はそれを読み終えると、男に視線を戻した。
「まさかロシアが斃れるとは思わなかった。それも、また日本がやってのけている。……君から見ても、『サクラコ』は強いのか?」
男はそう言い切ると、使用人は落ち着いた口調で静かに答えた。
「えぇ。それはもう、恐ろしいですよ。出来る事なら、会わずに済みたいものです」
使用人の言葉に、男は思わず口を噤む。使用人の青い瞳は、その惨劇を物語るかのように、まるで刃物の如くギラリと煌めいている。男は6分の好奇と4分の恐怖を抱え、使用人に質問した。
「サクラコは、何が強い? 精神か、肉体か?」
男の質問に、使用人は素直に答える。
「どちらでもあります。けれど、その2つは強さの本質ではないのです。彼女の本当の強さは、『執着』……でしょうか」
「執着……か」
使用人の具体性のない答えに、男は思わず首を傾げた。使用人は続ける。
「彼女は戦いを嫌っています。生への『執着』が強いのです。私と同じように、出来る事なら何事もなく暮らしたいと思っている——と、いった具合でしょうか」
男はそれを聞きながら、斜めに置いていた銀食器を手に取る。そのまま、冷めた朝食を切り分けて一言だけ返した。
「……なるほど。君に似ているな」
男の言葉に、使用人はにこやかに微笑んで頭を軽く下げた。
「私はこの仕事、大変気に入っておりますので」
男はそれを見て、苦笑に近しい表情を作りながら、料理を口にする。
食事を終えると、男はナフキンで口を拭き、部屋から去っていった。使用人は使い終わった食器を料理台に乗せ、机の上のものを片付けた。そのまま料理台の下にある扉から、濡布巾とテーブルクロスを取り出し、それらを机の上に載せる。
使用人は濡布巾で主人がいた場所を丁寧に拭くと、その場にテーブルクロスを被せ、その体裁を整えた。なんて事はない、毎日の作業である。作業を終えて部屋から去ろうと料理台の押し手を握った時、扉の方から音がした。
蝶番の音と共に現れたのは、タキシードを着用した白い髪の男であった。片眼鏡を掛けた黒い服の荘厳な男に、使用人は視線を合わせる。
「家令……どうされました?」
荘厳な雰囲気の男が部屋の中に入ると同時に、後ろに付いていた使用人服の女が入ってきた。
「ロザリオ君、君に客人が来ている。後は彼女に任せて応接室へ行きなさい」
家令である荘厳な男は、付いてきた少女を示して使用人にそう言った。その一言で、使用人は全てを察し、溜息と共に部屋を後にする。家令の男も、その後を付いて行った。
応接室への前に辿り着くと、使用人は髪を纏めていた白いモブキャップを外して、美しい金髪を放り出した。そのまま応接室の扉の中に入り、ソファの上へ、わざとらしく腰を下ろす。
机を挟んだ対面には、スーツに身を包んだ若い男が座っていた。男は家令も入ってきた事に驚きつつ、金髪の使用人——ロザリオに言葉を掛けた。
「呼ばれた理由は……流石に察しているか。まぁお察しの通りだ。我らが大英国防省の思し召しでね、ようやく君も身体を動かせるという訳だな」
ロザリオは深い溜息を吐きながら、自分の爪を掻いて言葉を返す。
「身体は毎日職務で動かしてるんだよ、ボクは。……本気でサクラコと戦うつもり?」
睨み付けるように、スーツの男に視線を送る。男は一切の惑いなく、ロザリオへ言葉を返す。
「あぁ。とはいえ君に発言権はない。君は我々に従う他に選択肢はないはずだが」
ロザリオは大きく息を吐いて、頭を抱えるような仕草を取る。
「……本気で言ってるのか……。サクラコと戦えるとでも?」
ロザリオの言葉に、男は何も答えなかった。その沈黙の意味を、ロザリオは察さざるを得なかった。彼女は天を仰ぐ。緻密に作られたシャンデリアが目に映る。深い溜息が、室内に響いた。
流石に遅刻度合いがまずいなと感じております。




