第十八話 独逸
遅れました、すみません。
長月のドイツ——デュッセルドルフ空港にて、桜子と葛葉が外へと繋がる通用口に到着した。葛葉は日本大使館から車を呼び、桜子と共にその車へ乗り込む。葛葉は右側の助手席に乗り、運転手に座っている日本人の大使館職員にメモを手渡した。
「この工場まで送迎を頼みたいのだが、可能でしょうか」
職員の男はメモを見ると、「えぇ」とだけ答えてギアを動かし、アクセルを踏んだ。
エンジンの音と若干の車揺れに、日本の車に慣れている2人は少しだけ顔を顰める。道中で車の往来が少なくなり始め、ここいらが所謂田舎である事を改めて感じた。半分程度の距離まで来たところで、葛葉が桜子に問い掛ける。
「そういやお前さんの刀、直ったんだな」
桜子は手に持っていた黒い刀——『雲絶』の鞘を見つめて言葉を返した。
「えぇ。刀に合わせて作り直して貰ったから、今までと遜色ないわ」
桜子は梅号との決戦で砕けた鞘を思い出しながら、傷1つない新品となったそれを撫でる。
「……また壊すことがないようにしないと」
桜子はひっそりと呟きながら車窓に目を移す。日本とは明らかに違う景色に、桜子は興味深さを覚える反面、強い抵抗を覚えた。——自分が何の為にここに来たのかを、否が応でも思い出してしまったから。
しばらく車を走らせ続け、どうやらメモの場所まで辿り着いたようだった。桜子はそのまま降り、目の前にある『戦場』へと足を進めていった。
ドイツのウェーザー川付近にある、古い工場。現在は使われておらず放棄されているが、その敷地は確かなものであった。巨大な箱に似た建物が4つ程中心にあり、それを囲う形で小さな——とは言え、その4つに比べればだが——建物が幾つか存在しているだけのシンプルな敷地であった。その他にも球体のガスタンク数個や、灯台に似た煙突などがあったが、それらはどれも苔や錆に蝕まれ、機能を失っている。
「……」
広い工場地帯を切り抜ける乾いた風が、自分の身体と糸のような黒い髪に当たり、ふわりと広がる。ひゅうと吹いた風がおさまると、桜子は乱暴に纏まった髪を手で大雑把に梳かす。
広大な工場地帯であるこの場所に、桜子は1人呼ばれた。黒い和服と袴に身を包み、袴の膝下を臑当に入れ込んだ軽装に、黒い刀を脇の帯に差し込んだ格好で、人の気配すらない工場の中を進んでいた。
——この工場地帯には、誰も居ないように見える。しかし桜子は、全身にその『気迫』を感じていた。彼女は自身に向けられているその『敵意』に、深い溜息を吐いて目を閉じる。
——ここには、桜子に銃口を向けているドイツの兵士が何人も居た。彼ら兵士は気配を消し、工場の中心に居る自分に向けて弾を今か今かと構えている。ここに居る者達は、恐らくそれなりの精鋭であり、この空間に居たとて、多くの人間はこれに気付かないであろう。
桜子がこの状況を認識出来たのは、『天使』としての感覚過敏と、長年の気配感知によるものでしかない。
そして桜子が最も懸念している問題は、銃口の数でも兵士達の場所でもなく——コルンブルメの位置が分からない事であった。
向けられている銃口は、凡そ10から12個。今認知出来ている数がこの程度であるならば、実数はこれよりも多く居るはずである。桜子はそう考えながら、この中に居るであろうコルンブルメが、兵士同様に気配を消し自分を狙っている事を察する。
「……案外、すぐ後ろにいたりしてね」
——桜子はそう呟いて、不意に後ろを振り向いた。
コルンブルメはいつもの右目ではなく、左目に眼帯を付けた状態で、この廃工場の中心に居る桜子に銃口を向けていた。息を潜め、銃を静かに構えている、その最中。
後ろを振り向いた桜子が、じっとこちらを見つめていた。その鋭い視線に、コルンブルメは寒気に似た恐怖を彼女に感じる。
——ナチスドイツの作戦は、シンプルかつ手堅い作戦であった。廃工場という広い空間に狙撃手を複数配置し、中心に居る桜子を包囲する形になっている。つまり、遠距離からの複数戦を桜子は強いられている事になる。近距離戦を求められる刀という武器を完封したその作戦は、『天使』同士の決戦ではなく、戦争に近い意識が見えた。
桜子は差していた刀を抜き、その切先を前に構えた。それを見たコルンブルメは、構えていた銃の引き金を引く。
——広い廃工場に、発砲音が響き渡った。それを皮切りに、一斉に発砲音が響く。
桜子は全方位から向けられた、飛来する弾丸を認め身体を前傾させた。そのまま刀で前の弾丸を斬り捨て、殆ど突進のような速さで前進する。
先程斬り捨てた弾丸の感触。桜子はそれに僅かな違和感を持つと共に確信を得た。
(——やっぱりあの弾丸、『暈』と同じね)
当たり前であるが、『天使』に人間の武器は通用しない。それを踏まえてわざわざ銃を使うということは、弾そのものに仕掛けがある。桜子はそう考え、そして予測通り、斬った弾丸の感触は『暈』をぶつけた時の刀に酷似した感覚であった。
(恐らく材料はコルンブルメ本人の肉……大戦時代に作られたのか知らないけど、限りは確実にある……)
桜子は前から放たれた弾丸を、走りながら斬り落として再度刀を握り込んだ。
(実際に当たったら面倒だし、避けたりしないといけないけど……切れるまで避けてもいいかしら)
桜子は頭の中で思考しながら、弾丸の方向を考える。
(——今動いてる狙撃手は、多分6人。私に向けて撃たれてる弾の方向は、上と前、あと右……ならまずは……)
桜子は構えていた刀を走りながら納め、その場から飛び上がり壁に足を一瞬着ける——間もなく、そこから一気に壁を走って、屋上にまで辿り着いた。
僅か数秒の出来事——多くの狙撃手からは、突如地面から居なくなった彼女を目で追う為の時間が発生する。
当然、今屋上に居る彼もその内の1人であり、狙っていたはずの標的が居なくなった事に困惑し、隣を振り向いた瞬間である。
日本刀を持ち構えた少女が、自分に向かって走っていた。彼は自分が兵士である事を忘れず、銃口を向けて引き金を押し込む——その直前に、通りすがりで銃口の先端を斬られていた。少女は止まる事なくそのまま通り過ぎ、颯爽とビル屋上の走行を続ける。
その最中に、桜子は持っていた刀を口に咥えながら走っていた。そのまま新調した鞘を差していた腰から抜き取り、手を離しても落ちないよう、逆手で大雑把に結び付ける。
(さっきああ言ったけど、刀だけじゃ無理だわ)
平坦なビルの屋上を走りながら、再び自分に放たれ始めた弾丸を認めた彼女は、右手に持った鞘で飛んで来た弾丸を弾き飛ばすと、咥えていた刀を持ち直して、心の中で鞘とその制作者に謝意を述べた。
——向けられる銃口を減らす。桜子はリスクを減らす為には、弾を避け切るよりもドイツ兵達の銃を潰す事に専念すべきだと考えた。面倒ながらも確実であり、『天使』の戦いに入るべきでない、ただの兵士達を減らす為でもある。
桜子は走りながら気配を感じ、下に視線を送る。建物の影、そこからきらりとスコープの反射が見えた。そこに身体の向きを合わせると、足の向きを変えて、ビルの屋上からふわりと縁を蹴って飛び立った。落下しながら、桜子は身体を捻って着地に備える。そのまま着地と同時に、見当を付けていた方向——反射の見えた方向へ走り出す。
建物の影にて銃を構えていた兵士は、桜子がビルから降りた所まで認識すると、弾の補填の為攻撃を止めた。
撃鉄を上げ、今の状況を確認しようとしたその拍子で、兵士は背後の気配に気付いた彼は咄嗟に後ろを振り返る。
そこには、先程まで自分が見ていたはずの『標的』がおり、兵士の彼は銃を前に構える。引き金を引こうとした瞬間、『標的』は銃の先端の筒を斬り落とし、その場を去っていった。
桜子は建物の影から抜け出し、次の狙撃手のところへ向かう——。
「ッ!?」
たった今飛んで来た弾丸を、桜子は逆手に持った鞘で咄嗟に弾き返した後、今のそれが何処から来たのかを僅かに考えた。
(遥かに高い所……そこから狙えるなら……)
桜子は1度立ち止まって、天を仰ぐ形で上——煙突の方向を見ると、その内の一つに銃口を発見した。桜子はそれを認めると、その場から走り出して、煙突の方面へと向かった。
煙突の近くには施設があり、桜子はそこから飛び上がって煙突の足場まで登る。殆ど跳躍力で駆け上がりながら狙撃手を見つけた桜子は、そのまま銃口を斬り捨て、その場から素早く去っていった。そのまま足場から飛び降り、着地と共にまた次の狙撃手を探す。
桜子はこれを繰り返しながら、狙撃手の数を減らしていった。ある者は建物の中、ある者は資材載積場の側、ある者はガスタンクの所など、それら狙撃手の位置は見事に巧妙な隠れ場所であった。
(全部遠い……無駄な動きが多くて嫌になるわ)
桜子はぼんやりそんな事を考え、10人程の狙撃手を無力化しながら、ある事に気付いた。自分がどこに居ても、必ず一番最初に弾丸を放ってくる相手がいる。まるで転々と移動している自分に合わせているかのようなその動きに、桜子は確信を持った。
(この状況で動きながら銃を扱えるのは、私と似た速さで動ける事が前提……ならやっぱり、ここには1人しか居ない——)
屋上に居る自分へ、またも最初に飛んで来た弾丸を、桜子は認めながら刃で弾く。
「……貴女よね、コルンブルメ」
桜子は建物の屋上から飛び降り、この戦場で最も優秀な狙撃手を探し始めた。
コルンブルメは銃を構えながら、凄まじい緊張を味わっていた。『標的』である相手が、もうじき自分の位置を把握し始める頃合いである。
(もういつ来てもおかしくない……警戒を怠った時が死に目だな)
風の音が響く巨大な建物の屋上にて、コルンブルメは静かに銃を抱え、来たる『鬼』に対して弾丸を放てるように考えていた。桜子が位置を把握しにくいよう立ち回っていたが、恐らくその小細工も通用しなくなる。
——確かに、桜子は弱くなっている。以前の彼女であればもっと早くに自分の下に来ていただろうという確信があった。
それでも、最初に自分を見たあの目は、何も変わっていない。蛇の如く鋭い赤い眼光。虚であるのに確かな圧を感じる視線。相対すれば、その異常さが理解出来る。
(屋上である以上、来るとすれば登るか跳ぶかしかない。何処から来る……?)
コルンブルメが警戒しながら辺りを見ている時。彼女の背に、嫌な予感が走った。恐らく近くに居る。漠然とした気配が、コルンブルメを包むように突き刺さった。
「……!!」
次の瞬間。コルンブルメは殆ど考える間もなく、その場から離脱する。身体が危険を感じ、咄嗟に避けたと言う他なかった。コルンブルメはすぐに目線を上げ、目の前に立つ黒い『天使』を認める。
「ッ、やはりな!」
コルンブルメは即座に銃を構え、目の前の彼女に向けて引き金を引いた。
桜子は足に力を込めてその場から離れると同時に、銃口から放たれた弾丸を斬り捨ててコルンブルメに接近した。
桜子は間合いに入った瞬間、踏み込みながら刀を振り上げた。コルンブルメは銃を構え、下から来る刀の振り上げを銃と共に受け止める。
——受け止めた直後、コルンブルメはそのまま隣の建物へ吹き飛ばされた。窓硝子を破り、そのまま隣の建物の中へ入ったのを見届けると、桜子は右手に巻き付けていた鞘を解きながらコルンブルメの後を追った。
吹き飛ばされたコルンブルメは、抱えていた銃が使い物にならなくなった事を確認すると、それを投げ捨てて背負っていた両手剣を鞘から抜き構えた。
直後、桜子が建物の中に侵入すると、真っ直ぐにコルンブルメの方へと飛んで来る。桜子が刀を振り翳すと、コルンブルメは両手剣を前に構え、縦に振り下ろされる一太刀を受け止めた。
鈍い金属の音が、火花と共に放たれる。コルンブルメは長剣のリカッソを握り込んで、切り返すように弾く。桜子は刀が弾かれた事を察すると、すぐに身体を退けて距離を取った。
「あっ」
その瞬間、桜子はコルンブルメの『暈』が長身である事に気付き、即座に刀を振り翳す。
——両手剣の切先が、日本刀の根本部分を叩き付けるように振れる。打撃に近い振動を受けながら、桜子は刀を切り返して懐に入り込むと、そのまま刀を彼女の腹部に向けて振り翳す動作を行う。
コルンブルメはそれに気付くと、傷を負うのはまずいと考えたのか距離を取って桜子の切先を避けた。
両者の間に沈黙と距離が保たれた。桜子は刀を振り払い、乱れた息を整える。コルンブルメはリカッソを握り込んで、右目——『天使』としての視力を持ったそれで桜子と対峙する。
コルンブルメは両手剣の切先を下に構え、そのまま胸の高さにまで振り翳す形を取った。
途端、コルンブルメは桜子に向かって殆ど突進に近い速度で接近する。桜子はそれを見ながら刀を眼前に構え、突進するコルンブルメを受け止めた。そのまま鍔を掛けて両手剣を切り返し、その刀身を削りながら、コルンブルメに刃を向ける。
コルンブルメはそれを認めると、両手剣を地面に突き立てるように持ち替え桜子の刀の行手を阻んだ。急停止した桜子の刀は、鈍い金属音と激しい振動を起こし、競り合いの末にそれを弾き合った。
再び距離が出来た両者は、まだ振動が残っている『暈』を握り込みながら、その場から静かに歩き始めた。
「……サクラコ。貴公に聞きたい事がある」
コルンブルメはそのまま歩き始め、目の前にいる黒い『天使』に話しかけた。
「珍しいわね、貴女が自分から話を振るなんて」
目の前の彼女は、自分と同様にその場から歩き始めた。距離を保ちながら歩幅を合わせて歩く桜子に、コルンブルメは彼女の2面性の激しさに感嘆する。
「我々の部隊の隊員は、無事か?」
コルンブルメのその質問は、彼女らしからぬ弱々しい声で放たれた。桜子はその質問に、素直に答える。
「えぇ。銃を破壊しただけで、私は貴女達の誰も殺してない」
桜子がそう言うと、コルンブルメの表情に僅かな安堵が見えた。しかしそれはすぐに引っ込んでしまい、元の無表情に近い——冷酷な表情へと戻った。
「……貴公の気遣いに感謝する、サクラコ」
コルンブルメはそう言い残し、深い溜息を吐いた。桜子はそんな様子の同胞に、半分程度の違和感と、少しばかりの好奇心に惹かれ、一つ質問を問い掛けた。
「珍しいわね、貴女も変わったの?」
桜子がそう問い掛けると、コルンブルメはまるで自嘲するように笑いながら桜子に答える。
「……君程ではないがな」
コルンブルメはそう言い残すと、痛みを抱えたような笑みのまま、両手剣の切先を桜子に向ける。
「思い残しは無くなった。……自分の都合で剣を止めて、すまなかったな」
桜子はコルンブルメのその答えに、僅かに顔を歪めながら刀を握り直した。
「……えぇ、構わないわ」
——拭えぬ罪悪感に、自分があまりにも変わってしまった事を、桜子は自覚させられた。
来週は多分いつも通り日曜日に投稿できると思います。
コルンブルメには頑張って欲しいですね(他人事)。




