第十話 敵国
今更の説明になりますが、『暈』というのは『天使』達の使っている武器の総称です。
桜子は『雲絶』で、アイリスは『フィエルボワ』でした。今後も名前が付いているものはちょいちょい出していきたいなと思います。
アイリスと桜子が戦っている時刻より、数時間前の事である。
風が心地良く吹き渡るドイツ郊外にて、灰色のスーツを来た女が瓦礫の上に腰を降ろしていた。その女は色褪せたような灰色の前髪を、包帯が巻き付けられた手で邪魔臭そうに掻き上げる。掻き上げた手の指で咥えていた煙草を挟み、口から外しながら息を吐いた。白い煙が風に吹かれると共に、女の鼻腔に別の匂いが入り込んできた。
女が匂いの方向を見ると目当ての人物が歩いて来ている。
「来たか、コルンブルメ」
女は持っていた煙草の火を消す為、脚を組み靴底にそれを押し付けた。火が消えたことを確認した女は、付けていたネクタイを緩めながら目の前の軍服に両手を突っ込んだ眼帯の女と対峙する。
「国の命令なのでな。それで何用だ、パトソルチェ」
灰色を基調とした色味の女——パトソルチェは、目の前に居る眼帯の女に言葉を返す。
「オレも国からの命令だ。『暈』出せ、ちょろっと殺りゃ上は黙ンだろ」
パトソルチェはそう言うと、スーツの腕部分を少し乱暴に捲り、懐からとある物を取り出した。凡そ肘程度にまである、板に近い謎の金属を空手である左腕に置くと、甲を向ける形で右腕を重ねた。まるで腕組みしているかのような形になったパトソルチェの両腕に、乗せていた金属板が反応する。
機械音を鳴らしながら、肘から腕、そして手へとその金属板がパトソルチェに装着される。両腕に装着されたのは、青鈍色のガントレットであった。
眼帯の女——コルンブルメは深い溜息と共に、軍帽の鍔を撫でる。そうして言われた通り、背中に背負っていた大剣を手慣れた様で引き抜くと、両手で腰近くに構える。
それを見たパトソルチェは、握り込んだ拳と広げた掌を打ち付けながら、その場で3回程跳躍する。
「じゃ、行くぞ〜」
まるで立ち上がる時の掛け声に近い、やる気のない宣告をすると、スキップの体勢になった。その2歩目の瞬間、パトソルチェの居た地面があからさまに沈み込み、コルンブルメの目の前まで跳躍してきた。
低い姿勢のまま、左腕を思い切り引き、腰を捻って力を溜めているパトソルチェに、コルンブルメは瞬間的に視界が遅れ、彼女のそれが低速に見えた。それが幸いし、コルンブルメは自身の身を引きながら大剣を振り上げる。
——瞬間。凄まじい金属の振動がコルンブルメの腕に伝わり、同時に重く低い金属同士の衝突が一帯の空気を揺さぶった。
コルンブルメが一撃を上手く受け流したのも束の間。パトソルチェは次撃の為に、腕を既に振り上げて構えていた。コルンブルメはそれを認めると、腕の振り下ろしと同時に身体を翻しながら、肘をパトソルチェの鳩尾へ叩き込んだ。的確な位置への攻撃だった故か、パトソルチェは僅かにバランスを崩し、その隙を見たコルンブルメに距離を取られてしまった。
「ハーッ……ったく、ダメだな。『天使』共と戦う時は感覚が狂う」
パトソルチェは心底気怠そうに首を回しながら、指関節をクラッキングして呟いた。
「普段は人間相手だからなァ、速さも丈夫さも全く違う。つー訳だから、ちょっと遊んでくれよ」
パトソルチェは首を回し、着用している灰色のスーツレギンスを摘んだ。両脚を縦に広げ、体勢を著しく低く保つ。彼女の姿は地面に両手が付く程の低姿勢——まるで獣のような四つ脚であり、それを見たコルンブルメは脳が咄嗟に危険であると理解した。
パトソルチェのガントレットは地面を握り込み、パトソルチェは足に力を込める。そして次の瞬間、力を込めていた足で地面を蹴り上げた。そのままコルンブルメの方へ一直線に急接近すると、掌を爪を立てる形で振り上げた。
コルンブルメは、目の前の獣が牙を見せた瞬間、右目に着けていた眼帯を乱暴に外した。眼帯を付けていた方にあった自身の髪——鈍い金色をしたそれの流れを眼帯を付けていない方へ変動させる。コルンブルメは文字通り左右の視界を切り替えた。眼帯で隠されていた右目を静かに開け、リカッソを握り込んだ。
目の前にまで接近して来たパトソルチェに対し、コルンブルメはツヴァイヘンダーを振り下ろした。
パトソルチェは振り下ろされた大剣を片手で掴み、そのままもう片手に力を込めて1発を打ち込んだ。
コルンブルメの目には、それら一連の行動が緩やかに見えていた。そのままパトソルチェがやろうとしている攻撃に、対応を開始する。
パトソルチェが握っている剣先は、その隙間から背後に下がれば容易に抜く事が出来る。同時に、こちらの腹部に向かっている籠手で覆われた腕。コルンブルメは、タイミングを見計らって実行する事にした。
コルンブルメは足を上げ、パトソルチェの剣を握っていない拳に軍靴の底を合わせる。
「!」
パトソルチェは完全に振り切った腕を止められず、コルンブルメの靴底と拳が重なり、そのまま叩き付けを続行する他なかった。
靴底からのバックアップに加え、自身の身体の最低限の跳躍と共に、コルンブルメは軽やかに着地すると同時に、上手く距離を離す事に成功した。
パトソルチェは事実上蹴られた事になる手を眺めながらしばらく考えた後に答えた。
「……あぁ。お前は『視覚』だったな」
パトソルチェの答えに、コルンブルメは僅かに動揺した。シンプルな馬鹿力のみではなく、多少なりとも従軍の経験があるという事実に、この女の恐ろしさがあると感じた為である。
——コルンブルメが眼帯をしている理由は、目の負傷故ではなく、左右で視力が極端に異なる為である。普段眼帯を付けている右目は、遥か遠くを目視出来る程——スコープを使わずとも正確に見える程の視力——であると同時に、動体視力も異常に高く、片や左目は一般的に目が良いとされる程度であり、普段はこちらを使っている。片目を隠している事で両目の視力が落ちる事もなく、彼女本人はそれらを使い分けている。
パトソルチェはそれを思い出したかのように、蹴られた手をじっと見つめていた。そのまま手を何度か握り込みながら静かにコルンブルメの方へと足を進める。
愉しそうに微笑みながら、パトソルチェはコルンブルメの方へと向かって来ていた。コルンブルメは柄を握り直しながら、その内のもう片手をリカッソへと移した。
パトソルチェの動きが止まる——その瞬間に、彼女は思い切り踏み込んで跳躍した。コルンブルメの頭上を超え、背後に回って打撃の為に腰を捻る。
コルンブルメは握り込んでいた大剣を振るう——よりも防ぐ形の方が安全だと直前で判じ、身体の前を大剣で防ぐ。
「目がよく見えてんならよォ!視界から外れりゃ問題ねぇよなァ!?」
——パトソルチェの一撃はその大剣を振るわせる程に強烈であった。波打つかのような振動と共に、コルンブルメの体勢を僅かに崩す程の膂力であった。恐ろしいのは、この一撃はただの腕力のみであり、近接戦での防御がまるで機能しないという点である。
コルンブルメは舌打ちをしながら、手に握っているツヴァイヘンダーを、思い切り相手に直撃するよう振り翳した。
だがパトソルチェは、それを見越して振り下ろされた大剣を受け止め、そのまま身体を翻してコルンブルメの顔面へと拳を打ち込んだ。
彼女は直前で顔の向きを変えた——が、どうやら鼻が間に合わなかったらしく、退いたと同時に口へ鼻血が垂れてきた。
(……折れたか)
コルンブルメは久しく受けてなかった負傷に、若干ながら痛みを感じた。彼女は立ち上がりながら、垂れる鼻血を親指で拭う。
「おうおう。立ってるとこ悪りィけど、オレはもうやる気ねぇぞ」
パトソルチェはそう言って、手に嵌め込んでいたガントレットを脱着する為か、再び両腕を付けた時と同様に両腕を合わせ、素体としての腕——包帯が巻かれている、よく発達した筋肉質なそれ——を見せ、戦いの意志がない事を示した。
「……私を殺しに来たのではないのか」
コルンブルメがそう言うと、パトソルチェは鼻で笑いながら返す。
「まさか。今ナチ公の戦力を奪ったとて、オレ達にメリットはないからな」
その回答に、コルンブルメはいよいよ困惑したような表情を浮かべた。
「なら何故来た、戦うつもりもなかったのだろう」
パトソルチェは質問に対し、スーツの内ポケットから何かを探す仕草をしながら返した。
「そら鼻折る為だろ。……つーのも冗談じゃなくてな。上がうっせぇんだよ、だから適当に仮想敵同盟のお前の鼻でも折っときゃ、しばらくは文句も言われんだろ」
パトソルチェの答えに、コルンブルメは怒りよりも呆れが来たらしく、深い溜息を吐いて頭を抱えた。
「まぁそういう訳だ。オレはまだお前達に手を出すつもりはない。だが、フランスはどうだかな〜」
パトソルチェは背を向けながら一言だけ呟き、それを聞いたコルンブルメは顔を顰めて問い掛けた。
「……まさか、分かっててそれを?」
パトソルチェは鼻で笑いながらコルンブルメの問いにハッキリと答えた。
「そらそうだろ。10年前、サクラコの何を見てたんだっつー話だ。……アイリスは『オニ』を舐め過ぎた」
パトソルチェはそのまま歩きながら言葉を続ける。
「サクラコを斃す方法なんざ、オレかローズでもぶつけりゃ良いだけだ。ま、それでもあの女が死ぬか分からんけどな」
そう言ったパトソルチェは後ろを向いたまま手を振ってその場から立ち去った。
コルンブルメは、相手の小さくなる背を見、折れた鼻から出る血を拭き取りながら、持っていた大剣を背の鞘に納める。それと同時に、パトソルチェの告げていた言葉が、彼女の脳裏に強く残っていた。
——「オレかローズでもぶつけりゃ良いだけだ」
コルンブルメは制帽を取り、懐に仕舞っていた眼帯を右目に付け直してから、静かにその場から歩き始めた。
***
フランスの『天使』、アイリス号の死は全世界に衝撃を与えた。長らく変わっていなかった『天使』の数が一機減った事に加え、それがヨーロッパの国である事、そして、それを行ったのはやはり桜子号であった事。各国の報道の話題は、アイリスと桜子についての記事や放送ばかりになっていた。
——昨今の戦争に於いて、『天使』を喪う事は、全ての軍事的抑止力を手放す事に等しく、フランスは国として圧倒的な不利益を負った事に他ならない。
日本はフランス共和国へ、アイリス号を正式に返還すると共に、幾つかの要求を提示した。
武力非干渉を掲げていたのにも関わらず宣戦布告をなされた点、土地の損壊などを考慮した賠償金を払う事、そして日本に軍事的干渉をしない事を前提条件として、フランスと不可侵条約を締結した。
これはつまり、武力での干渉を認めない日本——もとい桜子の目標に一歩近付いている訳である。……あるのだが。
「それで、桜子は?」
左は相棒である園咲と共に、桜子へのフランス戦の事後を報告しようと参ったのだが、目の前に居たのはただの同僚——世話役を務める事になった、割烹着姿の緑川であった。緑川は桜子と会話する時のような柔和な顔を一切潜め、完全な仕事としての表情で2人の官僚へ返す。
「宝生のところに行ったわ、伝達事項があるならここで言って」
緑川の言葉に、左は細かい事情を省いて事実のみを伝える事にした。
「フランス共和国との条約の締結が終わって、賠償金と不可侵条約を結べた。君のおかげだと言っておいてくれ。……それと」
左はそこまで告げると、一度言葉を止め、改めて話を続けた。
「今回含め、これからの『天使』との戦闘によって発生する責任は、君ではなく我々国防省が負う。君が背負う物ではない……と、いうのも伝えておいて欲しい」
左は『それじゃ』とだけ言うと、園咲と共に家の前を去り、しばし歩いて階段を下った。2人の背が見えなくなるまで見送った緑川は、深い溜息を吐きながら引き戸を閉じた。
帝都内にある総合病院、そこにあるごく普通の診察室。室内には白衣を着た細身の男と暗い顔をしたセーラー服の少女の2人がそれぞれの椅子に座っていた。カルテを見ながら、白衣の男は患者であるセーラー服の少女に問い掛ける。
「聞いたよ、フランスと戦ったんだってね。無傷で帰って来るとは思わなかったけど。……それで、君が検診でもないのに来た目的を聞いていいかい?」
白衣を着た男——宝生は手に持っていたカルテを机に置き、椅子の肘掛けに体重を乗せる。
桜子は、宝生の質問に言葉を返し始めた。
「……私が『桜子』になった時は、私はただ刀を持って『天使』を殺すだけでよかった。でも、休戦して、何年か経って、私は戦わなくて良い期間を過ごした……」
桜子は持って来ていた刀袋を横目に見ながら、再び言葉を続けた。
「その10年が、私の全てを変えた。戦う事じゃなくて、人として生きた10年が、私にとって遥かに心地良かった」
桜子の消え入りそうな程細い声を、宝生は何も言わずに聞いていた。桜子は脚に置いていた手を返し、自身の掌を見ながら言葉を続ける。
「……怖いの。『天使』を殺す事が、『暈』を持つ事が、怖い。私が殺したのは『天使』だけど、でも、私達は元々人間で……だから、私が殺したのは、に——」
桜子がそこまで言い掛けると、宝生は桜子の手を抑え、そのまま優しく握り込んだ。桜子は血の幻覚に囚われていた自身の掌が、宝生の甲で覆われた拍子に、自身の手が赤く染まっていない事を理解すると、生唾を呑み込んで深い溜息を吐いた。
「君の疑問は、残念ながら僕らじゃ解決出来ないものだ。今でこそ『天使』は人権がないけど、時代が降れば君達は非人道的な兵器だったと揶揄されるかも知れない」
宝生の言葉に、桜子は黙ったままだった。彼は桜子の掌から手を退け、背凭れに体重を預ける。
「君が『天使』達をどう捉えるかは君の自由だ。それでも、今の世界は『天使』を兵器として見てる。……君はどう?」
桜子は黙ったまま、ゆっくりと首を横に振った。宝生はその仕草に対して納得したような表情で言葉を続ける。
「君は優しい。正確には、優しさを得る事が出来たんだろう。……もし君が、この戦争の最中でも人でありたいのなら。その気持ちは、決して忘れちゃ駄目だよ」
宝生は身を乗り出して、桜子に諭すように言った。桜子はアイリスの肩に彫られた刺青を思い出しながら、静かに両手を握り込む。自分はもしかすれば、人として正しい事が出来たのではないか。
「ま、僕は今の国防省の人間じゃあないし、分かったような口を利くのは違うかもだけどね。僕はただの医者で、君の戦いを知らない素人だから」
宝生は苦笑しながらそう言って、目の前の少女へ視線を送る。桜子は再び手を握り込み、そうして脚に置いた。
「……ありがとう」
桜子は下を向いたまま、ふと思い付いた言葉を一言だけ溢した。宝生はそれに対し、苦笑しながらも口に手を当てて答えた。
「なーに、これくらいなら全然。僕から言える事はあまりないけど、これからも来て貰って良いからね」
桜子はそれを聞くと、どこか安堵した表情を浮かべながら立ち上がり、傍にあった刀袋を手に取った。
「……ごめんなさい、失礼したわね」
桜子は病室の扉を開け、ひっそりと室外へ出る。宝生はそれを眺めながら、緩やかに手を振るう。
「……」
桜子が外へ出て、完全に彼女の気配が無くなった頃。宝生は浮かべていた微笑みを収め、手元のカルテを見ながら、自身の座っていた場所にある引き出しに入っていたとあるファイルを取り出した。彼はびっしりと横向きに貼られた付箋の中の、1ページを開く。
英語の論文によって書かれた、『天使』に関連する資料に書いてある文章を静かに音読した。
「……『寄生主となった人間は、その寄生虫の習性から、他生物を殺す際に幸福物質を過剰に分泌させられ、殺害に躊躇を無くし、また快楽を求めるようになる』、か……」
宝生は顎に当てていた手を外し、静かにファイルを閉じて机の上に置いた。
「まるで参考にならないな、……全く」
彼は一言だけ呟くと、机の上に置いた桜子のカルテを手に取り、改めてそれを眺めた。
桜子は病室を後にし、今回の付添人——桐生に目配せした。桐生は欠伸をしながらそれを見ると、うなじを摩りながら桜子へ近付いた。
「終わった?」
桜子はその問いに、『えぇ』とだけ答え、それを聞いて歩き始める桐生の背を追い、足を進めた。
送迎車の中、桐生は桜子を車に乗せ、出発の準備を整えながら、桜子へ問い掛ける。
「ドイツとロシアの『天使』が、君と殆ど同時刻か、少し前あたりに戦闘していたらしい」
桐生はそれだけ言って、運転席に座り込んだ。ルームミラーを整え、エンジンを掛けると同時に、言葉を続けた。
「タイミングが良過ぎると俺は感じるんだが、アンタはどう思う?」
桐生の言葉に対して、桜子は溜息を吐きながら答えた。
「……そうね。私とアイリスが戦って、それより前にドイツとロシアが戦っ、た……?」
桜子は自分がそこまで言い切ると、桐生の言っていた言葉の意味をようやく理解した。同盟を結んでいた国同士が、順番に戦闘に当たっている。つまり次の、否。もしかすればもう既に始まっている戦いは——。
「……わかるか、アンタも」
桐生はルームミラーに映る桜子を眺めながら、1つ息を吐いた。
***
黒いフードを被った女が、招かれた国の屋台をふらふらと歩いていた。上辺だけは日本に若干似ていたが、この様子はあまり好ましくなかった。なんせ秩序がない。人がとにかくごった返し、言葉も粗暴に飛び、激しく人が行き交うこの場所は、その女にとってはストレスそのものであった。
「……チッ」
辛抱ならず、女は軽く舌打ちをし、右手に持っていた長刃斧に近しい形の武器を強く握り込んだ。そうして、怒りを沈める為に深い溜息を吐く。
「……覚えてなさいよ、あのクソ梅女……」
そろそろお話が大変な事になるかもしれません。




