第一話 桜号
新連載です。
頑張ります。
広義では百合作品に当たります。
今にも雨が落ちそうな曇天の下を、黒塗りの車が走っていた。周りの景色は田畑と緑が増え始め、先程まであった車の往来は全くと言っていい程に無くなっていた。
今付近の道路を走るのは、この黒い車一台となってしまっている。黒塗りの車は国防省の紋章——桜御門に刀が置かれたデザインの鋳物——が、フロントグリルの真ん中に設置されている。
多くの国民は、一目でこの車がこの国の公用車、それも官僚のものである事を理解する。その車は、周りが閑静になっていく様を超然とした様子で通り過ぎていく。
真っ直ぐに進む車には、漆黒の背広を着用した二人の男が搭乗していた。
「……左さん」
長い髪を耳に掛けている端正な顔立ちの男は、隣の席——運転席に座っている、髪が短く切長の目の男に問い掛ける。
「どうした、園咲」
名を呼ばれた男は、目線を前に向けたまま隣の助手席に座る男に問いを返す。
「疑ってる訳じゃないですけど、本当にこっちで合ってます?」
その質問に、思わず彼は声を上げて答えた。
「疑ってんじゃねぇか。合ってるよ」
助手席の男はその答えに納得がいかない様子であり、深い溜息を吐きながら口を開いた。
「帝都の中にこんな辺境の地がある事も驚きですけど、本当にこんなところに住んでるのも驚きですよ」
男がそう言うのも無理はない。華の帝都の中でこれ程閑散とした場所は珍しく、こと現代に於いては、技術の発展により東京の中は愚か、少し行った地方でも大抵の山々は切り拓かれているのが現状である。
であるのに、ここはまるで地方の片田舎に近しい景色がずっと広がっていた。
「まぁ、ここ一帯は俺達が持ってる土地だからね。……まぁ権利上は俺達ってだけで、俺達も本人から今日みたいな重要な用事な時以外来るなって言われてんだけど……」
運転席の男の言葉を聞き終えると、助手席の男はその端正な顔を僅かに険しくした。運転席の男は言葉の末尾と同時に、目の前の交差点を右折する為、ハンドルを回す。
しばらく車を走らせていると、木々が生い茂った坂道が見えた。地面の脇に落葉が溜まっている坂道を、男はそのまま登り車を進める。
坂道が終わると、平坦な広場に辿り着き、そこにはごく小さい駐車場があった。男は駐車場に車を停め、助手席の男に降りるように指示した。
「ここから歩くぞ」
「えぇっ、歩くんすか!?」
運転席の男は車から降りると、背広を整えネクタイの位置を硝子を見て直した。左胸に付いた国防省の紋章の位置がズレていないかを確認すると、駐車場から歩き始める。片や助手席の男は、ぐんぐんと進む直属の上司を見ながら眉を顰めている。
運転席の男は、すぐ隣にある竹林に挟まれている苔むした石の階段に足を置き、相棒の彼を待っていた。助手席の男は再び深い溜息を吐きながら目の前の男の後を追った。
そう長くはなかった石の階段を登り切った男二人は、目の前に広がる青い芝生の奥に鎮座する日本家屋に目を向けた。
運転席の男は左へ目線を向けると、特に何か言う訳でもなく、そのまま芝生の上に敷かれた石畳を進んだ。助手席の男は二歩半後ろを歩きながら、周りを見渡した。
どうやら、竹林が周りに置かれ円形にこの家前の広場があるらしい。左手の空間には、巻藁が立てられていた。
巻藁は斜めに、そして恐ろしく綺麗に斬られており、助手席の男は、自らが聞いていた噂が徐々に現実味を帯びてきた事への僅かな恐怖と好奇心で、心臓がやけに騒いでいるのを感じた。
運転席の男は玄関の前まで足を進めると、目の前の引き戸を三度叩いた。その後、扉を開いて式台の手前に、履いていた革靴を脱ぎ置いた。男はそのまま家へ上がると、迷う事なく縁側を進み、一番奥の部屋の前に置かれた障子を、再び三度叩く。
「失礼するぞ、『桜子』」
そうして、目の前の障子は敷居を滑る軽やかな音と共に開かれた。
——助手席の目の前に見えたのは、茶室に近い構造をした部屋であった。茶釜や水差しなどが置かれている側に、侍女と思しき女性が座っており、その対面に少女が座っているのを助手席の男は認識した。彼がそのまま、侍女からその人物へと視線を移そうとした時、少女も彼を見るために首を動かした。
——その少女は、セーラー服に身を包んだ長い黒髪の人物であり、掌に金継ぎが施された茶碗を置いていた。艶のない黒いセーラー服はリボンとラインに赤色が入っており、それに対応するかのように、彼女の長く黒い髪は僅かな茶も許さない程黒く、まるで烏を想像させる。
服装と髪の黒さとは対照的に、紅玉が嵌められた顔は日本人らしい肌の白さをしていた。すっきりとした鼻立ちと、ややつり目な切長で大きな紅い瞳に、その赤よりは僅かに薄い血色の唇。それらのパーツが、白い陶器の上に寸分の狂いなく配置されていた。
助手席の男は、少女と目が合ったまましばらく身動きが取れなかった。それは少女の顔立ちが、いわゆる美人であるから——ではなく、彼女が放つ気配が、全く年相応でなく、凡そその年齢に見合わぬ気配を、雰囲気を、着込んでいた為である。
少女は物言わぬ助手席の男から目を離し、目の前の茶碗に目を向けた。助手席の男はようやく手放された感覚と共に、浅い呼吸を繰り返した。
「随分早いじゃない。官僚が時間通りに来ないのは、何か事情があって?」
黒髪の少女が手に持った茶碗を口へと傾け、中身を飲み始めながら男に問い掛けると、彼はその奔放さに呆れながらも言葉を返した。
「まぁ、色々ね。君にとっては悪い知らせが二つあるんだけど、どっちから聞きたい?」
男がそう言うと、少女は先程と変わらず無表情であるが、不機嫌であるのはわかる表情で答えた。
「……どっちでもいいわよ。それで何?」
少女は茶碗の中身を飲み終え、口を付けた部分を拭き取ると、侍女に茶碗の正面を向け、頭を下げてからそれを返した。
「じゃあ、まずは小さい方から。国防省本部からの戦前通告だ。今から俺達と一緒に、本部へ来てもらう」
男はそう言いながら、胸ポケットから封筒を取り出し、その中に入っていた赤い色紙を少女へと差し出した。色紙には『延天十二年 五月』とあり、事務的に戦争に関する催促の内容が記載されていた。
「……そう。もう一つは?」
少女は差し出されたそれを、丁重に手に取ると、既に何かを悟ったような声色で男に問い掛ける。
「恐らく、直にアメリカがこちらへ手を出してくる。いや、もしかしたら他の『天使』も手を出してくるだろうな」
「……じゃあつまり」
少女がそう言うと、男は僅かに気まずそうに、しかしはっきりと答えた。
「あぁ。10年振りの戦争だ、残念ながらね。こうして我々がここに来たのも、それを伝えるためだ」
男は少女にそう告げると、少女は赤紙に向けていた視線を男に戻すと、深い溜息を吐いた。
「……申し訳ないとは思っている。だが君達『天使』の存在が、戦争を大きく変えたのは間違いない。とはいえ、今回は防衛戦争だ。君が積極的に出向く必要はない、と言っておこう」
男は彼女の、返答の代わりの溜息に対しそう答えた。彼女は並べられた御託より、自身にとって遥かに重要な質問を投げ掛ける。
「前置きはいいわ。それで……」
赤い視線を、男へと向ける。
「——殺していいの?」
その質問は、空間の緊張が一気に釣り上がる質問であった。少女の眼光は、やはりその年の少女が纏うものではなかった。その瞳には、奥に静かな殺意と、それが出来るという確信があった。
「……あぁ、処理はこちらで行う。防衛の末、他国の『天使』を殺すのは構わない」
少女の質問に対して、男はそう答えた。少女はその答えを聞くと静かに頷き、隣に置いていた刀を手に取り、目の前の侍女へ一言告げる。そのまま音を立てる事なく立ち上がると、押さえていた鍔から鞘の峰側を握り込み、軍刀の帯刀にごく近い形で刀を持っていた。そうして半端に開けられた障子を完全に開けて二人の男の前を歩き始める。
「そういえば、貴方は初めまして、よね」
セーラー服の少女は黒く長い髪を揺らし、運転席の男の後ろにいる——助手席の彼に目を合わせて問い掛ける。彼は少女の眼光に対してやや尻込みしつつも、教えられた通りに答えた。
「はい。国防省の園咲です。左の付き添いで来ました。今後お会いする事が多くなると思うので、何卒お願いします」
少女は園咲と名乗る男の自己紹介に対して軽く溜息を吐いて答えた。
「……そう。国防省の人ってば、同じ挨拶しかしないのよね。そういう教育でも受けてるのかしら」
少女の言葉に対して、運転席の男、もとい左が答える。
「いや当たり前でしょ。忘れてるかもだけど、君は政府の役人でウチ管轄の所有物だからね?」
適当な相槌をしたその直後、少女はあっ、と何かを思い出した声を上げて言葉を続けた。
「私の事は多分資料とかで散々見てるし知らない訳ないのだけど、一応自己紹介しておくわ」
少女は一度立ち止まり、彼らの方を振り向くと、園咲へ視線を合わせて一言告げた。
「私の名前は『桜子』、号名は『櫻・壱号』。10年前の大戦に行ってた、大日本帝国の『天使』よ」
桜子らを含めた3人は、車へと戻り来た道を走行した。桜子は後ろの席へと乗せられ、前に背広の二人が座る形となった。
桜子は抱えていた刀を隣へ置き、静かに足を組んで前を見据えた。左はその様子をルームミラーで見ると、時計を見ながら静かに口を開いた。
「この後の予定を一応言っておくと、国防次官とちょっとした顔合わせ、その後靖國への参宮……って感じ。今日はこれだけの予定だけど、何かある?」
「……特に」
桜子は物憂げな声色でそう返答すると、静かに目を閉じ、軽く溜息をついた。彼女は陰鬱な空気を放ちながら、左へ疑問を投げかけた。
「他国の『天使』はどうなってるの? 私は興味ないからそこまで知らないし、貴方達の方が詳しいでしょ?」
桜子はそう言って、膝の上に組んだ手を伏せた。その質問に対し、左は僅かに考えてから口を開いた。
「まぁ大きくは変わってない、と言うべきかな。君の時代から減ったり増えたりはしてないよ」
左はそう言うと、桜子の様子を窺いながら続けた。
「10年だ。10年もの間、我が国が侵されなかったのも、他国に大きな動きがなかったのも、君のおかげと言って過言じゃない。……そこは誇りに思って良いと、俺は思うけどね」
彼はそう言いながら、陰鬱な空気を入れ替える目的故か、桜子に向けてそう呟いた。
しばらく走行していると、車のフロントガラスの向こうに国防省の本部が見えた。
石造の門前の両端には、二人の門番が立っていた。門の向こうには役所に近い様相の建物があり、一目でそこが一般的な企業や住宅ビルではないと理解出来る見た目である。
桜子は車に乗せられ、実に数年振りにこの門を潜る事となった。自分の中の平穏が静かに崩れ行く様に、桜子は深い溜息を吐く。
桜子は車が停まって数分後に扉が開いたのを確認すると、刀と共に外へと出た。
外に出て、鼻腔を突き抜けるのは、竹や土特有の慣れた匂いではなく、鉄の森特有の淀んだ匂いであった。ここにいる事でさえストレスになると強く思える程に、桜子はこの匂い、もとい雰囲気が苦手であった。
息を吸い、代わりに溜息を吐く。官僚二人に前と後ろで挟まれてしまい、進まざるを得ない状況になったので、渋々足を動かした、——直後である。背中に見下ろされるような僅かな違和感を感じた。
無意識に、鍔に親指を掛けて後ろを振り向き、後ろの園咲の間から景色を見渡す。当たり前だが、人間が自力で辿り着けるような高台はこの付近に存在しない。
「……どうした?」
前に居た左の声に、桜子は反応する。
「いえ……何も」
先程の気配が、10年のブランクの末に鈍った自分の勘違いである事を祈りながら、彼女は足を進めた。
車から降りた3人は、国防省本部の自動扉を潜り、本部へと入門した。華美な装飾や色味がほとんどない、省庁然としたスタイルの建物である。3人は総合案内に立っている職員を通り過ぎ、その奥にあるエレベーターのボタンを押した。数秒後、空いた扉に3人が入り、左が最上階のボタンを押した。
桜子は監視カメラからの視線を感じながら、10年振りの狭苦しい『お役所』の空気を味わっていた。
そんな中、左は思い出したかのように桜子へ話を振る。
「あ、そうそう。次官が変わったんだよ。今は常磐って人になってる」
桜子は前任の次官の顔を思い出しながら、その報告に僅かに動揺した。
「へぇ、そう。前は門矢って人じゃなかった?」
桜子がそう答えると、左は短く笑った。
「よく覚えてるなぁ。門矢さんがちょっと前に定年したからね」
まぁそういうことだから、と左は続けた。桜子としては、人が変わる事で自分への当たりが変わるのが面倒であった為、現次官が話の分かる人物であれば何も文句もないと考えていた。
エレベーターが該当の階まで登り終えると、一行はとある部屋の前まで向かう。暗い茶色の木製扉の前まで向かうと、一行の先頭——左がその扉を叩いた。
「常磐次官。桜子号を案内いたしました」
「どうぞ」
左が断りの挨拶をしながら扉を開くと、3人は部屋の中へと入った。左と園咲はすぐに脇へと退け、桜子のみが次官と対面する事となった。
まず見えたのは、書類が幾つか積まれた机と、積まれた資料を見ている眼鏡を掛けた初老の背広の男であった。顔に皺は目立つが、まだ年若いのは想像出来る。室内はやや広く、青い絨毯に明るい色の木製の机や棚、その横に日の丸が立てかけられている。室内の机の上には名前の彫られた席札があり、目の前の彼がその役職を背負っている事を示していた。
彼は桜子を見ると若干嬉しそうな表情で彼女を見、立ち上がって手を差し伸べた。
「初めまして、国防省次官の常磐だ。今後ともよろしく頼む。では椅子に掛けて——」
「結構よ、すぐに終わるんでしょ?」
桜子は常磐の言葉を遮ってそう告げた。常磐は出鼻を挫かれたという表情をしながら、左手の親指と中指で眼鏡を直す仕草をした。『ふむ』と頷きながら、桜子の言う通りすぐに話題へと入った。
「まぁ、単刀直入に言うと、各国が10年の沈黙を破って日本を攻めてくる可能性があるかもしれない、という訳だ」
常磐がそう言いながら腕を組み、額に指を当てがって考える仕草をする。
「可能性とは言っても、中国やソ連は明確にチラつかせている。ただ、先の戦争での君の活躍が抑止力になってるからか、明らかな侵略行為はない……」
常磐が含みを残してそう言い終えると、桜子は付け加える形で返答した。
「遅かれ早かれ、って所かしらね」
「そうなるね。……申し訳ないけど、また我々もとい国は君に頼る事になるだろう」
深い溜息を、常磐は吐いた。その表情は桜子との対話が面倒だからという個人の理由ではなく、国の事情に巻き込んだ事による憂いから来ているような具合であった。
「とはいえ、今後すぐに火蓋が切られることはないだろう。君の居場所は我々がずっと隠してたし、今日君がここに居る事は何処にも漏れていない」
常磐のその言葉に、桜子は先程の視線を思い出した——が、すぐにそれを払った。今の時代、諜報員に対する規制はどの国も強化している。居たとすれば、10年間も自分の平穏が保たれていたのはおかしな話だ。
桜子は己の中にある蟠りを解く為に、自身に有意義な話を振った。
「……今度の戦争が終わったら、また私の『お願い』は呑んでくれるのよね?」
桜子のその言葉に、常磐はやや険しい顔へと変わった。そうして、二度頷きながら答える。
「あぁ、約束しよう。君の要望は最大限叶える」
桜子に対する、ある種の畏敬と誠意が垣間見えるその言葉を放った後、常磐は眼鏡を直しながら続けた。
「今日はあくまでも戦争の通告だ。詳しい要望なんかは、本格的に戦争が始まってから誓約書に記述する。私からの伝達は以上だ。何か質問等あるかな?」
「いえ、特にないわ」
桜子が常磐に対してそう答えると、彼は『あぁ、良かった』と独り言を呟き、奥の二人に目配せをする。左はそれを受け取ると、一歩出て桜子に対し退出を促した。
「じゃあ行こうか」
桜子は常磐に背を向け、左が開けた扉の後を付いていく形で、次官室を後にした。
左は常磐に対し頭を下げ、断りの挨拶を入れて扉を閉める。そのまま桜子に対し、一言感想を求めた。
「良い人だったでしょ?」
「えぇ、話が通じそうで助かったわ」
桜子がその言葉に対し素直に答えると、左はやや苦笑しながら足を進め、エレベーターの前に立った。扉が開くと同時に、左は桜子へ問い掛ける。
「この後は参宮だけど。君の刀は参拝時に持ち込めないから、一時的に預けなきゃいけないんだけど、出来るんだっけ?」
その言葉に対し、桜子は軍刀よろしく握っていた刀を眺めながら答えた。
「えぇ。問題ないわ」
一行はエレベーターに乗り込むと、エントランスのある一階のボタンを押し、次の目的地への準備を整えた。
桜子を乗せた黒塗りの車は、目的地である靖國神社へと向かった。国防省本部から十分近い場所である為、さほど車を走らせずとも九段下まで到着した。目の前に銅像が見える駐車場に車を停め、左は後部座席の桜子へと告げる。
「よし……と。降りれる?」
「えぇ。でもこれ開けちゃダメなんでしょ?」
桜子は車の硝子を叩いて扉を示した。左はその質問には答えず、園咲へ後部座席の扉を開けるように指示する。桜子は刀を傍に持ち、開けられた扉から出ると、駐車場から目の前に見える鳥居を眺める。曇天とはいえ眩しい空に、思わず目を瞑った。
桜子と2人は目の前の鳥居を潜り、菊の御紋が飾られた神門を跨いだ。黒服に挟まれた、刀を持つセーラー服の少女、という構図は昼間の境内では浮いており、一般の目でもそれらが特異な集団である事は認識出来た。拝殿が目の前に見える石畳の参道を歩き、鳥居の前まで来た。そこまで来ると左は後ろを振り向いて、右手の参集殿に向かった。
屋内に入り、本来であれば参拝の署名をする場所まで向かうと、左は担当の神職に話しかけた。
「国防省の左です。本日は正式参拝の予定で参りました。ご案内よろしくお願いします」
左は淀みなく伝えると、袴を着た担当の神職は別室へと下がり、代わりに老年——紫袴の男が出て来ると、男は3人の前に立ち先導として言葉を告げる。
「お待ちしておりました、こちらへどうぞ」
紫袴の男は桜子らを待機場まで案内すると、一度礼をして立ち去った。
比較するまでもなく大きな手水があり、大勢の人が参拝する事が想定されている場所である。目の前には手前に拝殿と本殿があり、それを石畳が繋いでいる。その両殿の間に、巨大な砂利で出来た広場があった。
1分も経たない内に、紫袴の神職は浄衣を身に付けた別の神職と共に戻って来た。彼は桜子の刀を丁重に預かると、そのまま一礼をして静かに下がった。
それを見届けた3人は手水で準備を整え、浄衣の神職は彼らを連れて本殿へと向かう為に足を進めた。
木材で出来た回廊は、数々の人が渡って来た事による独特の艶と滑りやすさがあった。桜子が何年振りかに踏んだこの回廊の足に感じる触覚を思い出しながら、一歩ずつ足を進める。
境内は空気が澄んでいる。やはり自分は喧騒よりも静寂に身を置きたいと思った——その瞬間。感じ慣れた気配が全身を走った。顔を隣の砂利の広場に向ける。
「……ねぇ」
桜子は立ち止まり、ふと呟いた。園咲だけがその声に対し反応する。
「どうかしたんですか?」
「……気を付けて。『来る』わよ」
桜子の顔が一気に険しくなった。その次の瞬間である。
——重い音が響き、着弾と同時に風圧が起きる。その場にいる全員が目を保護し、砂利の広場に視線を向ける中、桜子だけは目を覆う事なく、じっとその着弾を見ていた。
隕石の如くその場に堕ちてきたのは、桜子に近しいアジア人の女であったが、風貌も見た目も、彼女とは大きく異なっていた。
「ハァイ、サクラコ!お久しぶりネ!」
ニコリと目を細めて嗤うその女は、黒髪を2つに分け、頭頂部で両把頭に近しい纏め方をしていた。黒い生地に白い百合が胸部分に一輪模られたマンダリンドレスに身を包み、左手を腰に、右手には棍を握っている。
「……やっぱり、貴女よね。『梅』。さっき感じた気配も」
——桜子は国防省に入る直前に感じた僅かな気配を思い出す。それは10年前に相対した『天使』と同じ気配であった。自身の勘違いでなかったのが悔やまれる。
「覚えててくれたのネ、嬉しいわ!」
目の前の女——『梅』と呼ばれたその女は癖のある日本語で桜子に返した。桜子はその女をじっと、軽蔑に近しい目で見ている。
「……まさかとは思うけど、ここで私を殺す気?」
桜子のその問いに対して、女は変わらず嗤いながら答える。
「えぇ、じゃなきゃココに来ないわ」
女は手に持った棍を回し、肩にそれを乗せて回廊側へと一歩ずつ足を進めた。砂利を踏む音がその場にいる全員に聞こえた。それは明らかとも言える宣戦であるが、桜子はそれに対し一切怯む事なく、一歩足を出しながら答える。
「私を殺すのは構わないけど、ここで戦うのはタブーよ。今は下がりなさい」
桜子が強い口調で目の前の女へと告げるが、目の前の女は表情一つ変えず——寧ろ更に口角を上げて、桜子へと言葉を返した。
「イヤよ」
女は肩に乗せていた棍を軽やかに回しながら横に持ち直し、細めていた目をゆっくりと開けながら答えた。
「10年——10年待ったの。貴女がこうして外にようやく出てくれたのに、どうしてウチが下がらなきゃいけないの?」
女は自らの金眼を爛々と輝かせ、じっと桜子のみを見ていた。桜子はその様子に対し、諦めが混じった深い溜息を吐くと、拳を静かに握り締めた。
「……そう」
桜子が呟くと、目の前の女はそれを了承と解釈したらしく、棍を三度回して一言呟いた。
「——好♡」
その言葉と同時に、女はその場で踏み込んだ。殆ど突進に近い速度で、女は片手に持った棍を振りかぶりながら桜子の方へと走り出す。
その踏み込みに対し、桜子は重心を低くして一歩踏み出した。
そうして桜子は、目の前の女と対面した。瞬間、振りかぶられた棍に沿って身体を入り身にすると、桜子は相手の顎を握り込む形で掴んでしまった。そうして桜子は、砂利を踏み込んで思い切り飛翔する。
——衝撃波に近しい重い音が響いたと思うと、その場には既に桜子も棍を持った女も居なかった。一瞬の出来事の後に居なくなった両者に対し、左は乾いた笑いを上げた。
「……やっぱヤベェな。なーにが10年のブランクだ」
彼は頭の後ろを掻きながら、隣で唖然とした表情で固まってる後輩をこちらに引き戻す為に話しかけた。
「……園咲。桜子号の様子、見に行って来て」
呼ばれた男は、先輩に当たる男が指差した方向を確認すると、参集殿を後にした。
境内の外、それも道路に音を立てて突如落ちてきたのは、2人の女だった。片方は地面に叩き付けられる形で倒れており、もう片方はその倒れた相手を押さえつけていた。頬をしかと掴み、靴下を履いただけの片足で上半身を踏み付ける形で押さえ込んでいる。
「グッ……!!」
下に敷かれた女は、咳き込みながらも起き上がらんとしている。しかし上の女の膂力にびくともしない身体を必死に動かしているだけであった。上の女は長い黒髪で顔が隠されており、その表情は判別しづらかったが、その纏う雰囲気から唯ならぬ憤怒を感じさせた。
「……おい。私は言ったはずだ。ここでは戦うなと」
その声色は、とてもその小柄な身体から出ているとは思えぬ程低く、静かな怒りに満ちていた。握られた顎あたりが軋む音が聞こえる。
「話が聞けないのか? それとも10年で脳が腐ったか?」
顎を押さえつけられている為に、相手の女は満足に話す事が出来ていなかった。小柄な女は握り込んだ顔を持ち上げ、自身の顔に肉薄させる。
「私を殺すのは構わない。だが境内で人殺しは禁忌だ。御霊が鎮まる場所で騒ぐんじゃない」
そう言い切ると、小柄な女は乱暴に相手の顔を手離し、押さえていた脚を静かに相手の身体から外した。
「国に帰れ。そのふざけた頭を冷やす為にな」
小柄な女は静かに顔の側に立ち、大きく脚を上げ始めた。その意味を理解した下の女は、思わず狼狽しながら目を丸くしていた。
「なっ、エッ、待っ——」
その抵抗の言葉を一切無視して、小柄な女は思い切り踏み付けた。
瞬間。頭を踏み潰された女は反動で体が若干浮き、棍を握っていた手が緩やかに開いた。
そして踏み潰した彼女の足には、夥しい赤黒く滑る液体と、妙に蠢くピンク色の肉塊、そして黒い糸が纏わりついていた。
——その瞬間を、園咲は見てしまった。
「さ、桜——」
自身の名前を呼ばれかけた小柄な女は、表情を変える事なくその方へ首を向ける。
「……申し訳ないけど、参宮は日を改めて。半殺しにしちゃったから境内に入れないし。あと早速だけど、処理もお願い」
一言でそう言うと、桜子は深い溜息と共にペタペタと音を立てて歩き始めてしまった。右靴下に染みる血液が、彼女の足跡を付ける。
園咲は目の前の、頭が見事に潰された死体を眺めていた——次の瞬間。
棍をしっかりと強い力で握り、ゆっくりと首のない死体から頭が再生され始めた。グロテスクで生々しい音が、地面の血溜まりと、本体の首から聞こえ始め——繋がり始めた。
園咲は後退りをした。目の前で起こっているのは、間違いなく『再生』だ。その再生に若干気分が悪くなったが、同時にどこか気分が高揚していた。
自身の聞いた噂が、どんどんと現実味を帯びて目の前に映っている。その様は、自らの恐怖と同時に強い好奇を育てていた。
「……ハハッ」
背筋が丁寧になぞられるゾクゾクした感覚に、園咲は思わず声を上げた。
女の頭が徐々に形を帯び、残りは皮だけという状態になった辺りで、形を得たそれは静かに起き上がった。
「杀你……!樱花!」
棍を握り締め、筋肉だけの顔が静かに口角を上げる。目の前の女は血塗れの服を気にすることもなく、そのまま地面を踏み込んで飛翔してしまった。
園咲は目の前で起きたそれらの出来事に対し、顎に手を当てながら、『ふぅ』と一つ息を吐いた。
「……とんでもないねぇ、『天使』というのは」
***
青い空に、ぽつぽつと空に浮かぶ白い雲。美しい風景の下に広がる、青々とした大地に、小さな村がある。村人も数人ばかりであるが、この村は過不足なく動いていた。水車や農地、牧場まである、田舎の村である。
その村には一つ、小さな教会があった。
シンプルな見た目なそれの入り口付近には、これまた慎ましやかな花壇がある。それらはお世辞にも豪華とはいえないが、どこか愛らしい花が幾つか咲いている。それらには朝露ではない水滴が付いており、直近で誰かが水をあげていた事を示している。
入り口から少し入った先に、赤い薔薇が咲いている花壇があった。その薔薇の花壇の傍には、じょうろを持った金髪の女が立っていた。女は黒い服で、頭にスカーフを巻いた言わば修道女に近い服装をしている。
彼女は残り少ないじょうろの中身を見ながら、花への水のやり残しがないかを考えていると背後に気配を感じた。彼女は入口に見えた客人に顔を合わせて、少し微笑む。
「こんにちは、パトソルチェ。何か御用ですか?」
パトソルチェと呼ばれた女——淡い灰色のスーツの留めを外し、複雑な柄のネクタイを付けており、僅かに見える手首には派手な刺青が入っているグレーヘアの女——は、首を鳴らす鈍い音と共に、目の前の女に問い掛けた。
「サクラコが動いた……ってのを聞いたが、ホントか?」
その問いに、金髪の女は答える。
「えぇ、事実です。ただし、メェイが勝手に手を出しただけですので、動いたと言うのは正確ではないでしょう」
パトソルチェと呼ばれた女は深い溜息を吐くと、髪の毛を持ち上げながら呟いた。
「……だよな」
パトソルチェは背を向けて歩き出そうとすると、金髪の女は首を傾げた。
「まさか、これの確認の為だけに私の所へ?」
「あぁ。別に遠くはねぇしな。じゃあの」
スーツ姿の美女は、そのまま質素な教会を後にする。金髪の女は不思議そうな顔付きで持っていたじょうろを再び眺めた。
「……また、アナタに逢えるのでしょうか」
女は思い出す。血生臭い記憶の中で、ただ一つあった一輪の花を。和服を身に纏い、刀を振るっていた、短い黒髪の少女を。唯一自分に怖気付かなかった、可愛らしいあの天使を。
「——サクラコ、愛しいアナタ」
女は慈愛に満ちた優しい表情で、ひっそりと呟いた。
背景の設定とか結構あります。かなり思想が強い作品なのでお気を付けください。
実は消してしまったのですが、戦争録の方は完結しておりまして、pixivにて完結まで書き終えることが出来ました。(↓リンクです)
https://www.pixiv.net/novel/series/11261532
戦争録よりは長くないと思うので、お付き合い頂ければ幸いです。