承・第二話 「灰の匂い」
朝一番の風が、薄く積もった灰を路地へ払い落とした。火祭りが終わって二日。けれど村はまだ燃え残った香りを抱えている。屋根の茅、戸口の枠木、石畳の亀裂……あらゆる隙間に灰が入り込み、乾くたびに白い粉を吹いた。歩けば足裏で灰が鳴り、ほんの小さな吹き返しが鼻孔をくすぐる。甘く、苦く、湿り気を帯びた火の残り香──それを、村人は「灰の匂い」と呼ぶ。
セルグは広場の側溝にしゃがみこみ、竹箒で灰をかき寄せた。側溝の底はまだ黒い水が溜まり、灰と溶けて粘りを増している。掬い上げると、粘土のように重い塊が掌にまとわりついた。わずかに煙の甘さが残り、指先へしつこく絡む。水桶へ投げ入れると、鉄の匂いに似た澱みがふっと立ち上がる。祭りの三日目にはいつもこうだ、と隣家の老人が言った。「灰が乾いて街道を越え、森の匂いと混ざる日さ。山鳥も甘い煙に酔って巣から落ちるんだ」
その言葉を証明するように、空には薄い灰の膜がかかっている。太陽の輪郭がぼんやりと滲み、光が鈍い黄金に変わる。遠くの森には霧が垂れ込め、木立の上で七つの焚き火が橙色の粒を灯す──襲撃への不安をひとつ増やすごとに、橙は濃くなる。セルグはその橙を横目に、かまどの奥から取り出した麻縄を撚り直した。灰が付着すると縄は膨らみ、撚りがわずかに歪む。指先で捉え、すぐにほどき、ねじり直す。罠は歪んではならない。罠の形が歪むと、獣より先に“灰の匂い”が笑うのだ。
*
井戸端ではアイナが花布を広げ、灰を払っては香を移している。灰の匂いが強すぎると花の甘さが負けるため、瓶の栓を開けたままでは匂いが薄まる。彼女は小瓶を三本、胸元で器用に扱い、時間を変えて蓋を開閉する。香を重ねるしぐさは細やかで、灰を嫌う人々には奇異に映るらしい。けれど彼女にとっては胸の熱を鎮める唯一の術だ。
「匂いの層が崩れると、息が苦しくなるの」
彼女はそう言い、香が灰に飲まれぬよう、鈴を小さく鳴らした。鈴の金属は灰を振るわせ、花の甘さに細い振動を与える。甘い中に金属の冷たさが差し込み、灰の重さを中和する。
セルグが縄を捻り終えた時、村長が貯蔵庫の鍵束を鳴らしながら現れた。古酒の瓶を抱え、瓶の底に溜まった澱を確認する。その澱も灰の匂いに染まり、村長は顔をしかめつつ「古酒まで灰に取られたら一大事だ」と呟いた。セルグは自分の罠を胸に抱え、広場を後にする。古酒に染み込む灰よりも、柵の外から迫る焚き火の方が遥かに気に掛かる。
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午後になると、守り火の跡から集めた灰が袋に詰められ、畑の肥に回された。灰を撒くたび、土がくすぶるような甘い煙を立て、風が火祭りの記憶を拡散する。犬がくしゃみをし、人々は鼻をつまむ。だがセルグはその匂いに耳を澄ませるように息を吸い込む。灰の甘い底に、油の焦げた鋭い臭いが混じるのを探す。僅かでも感じ取れば、罠の数を増やすべきと判断するためだ。
家へ戻ると、母が薬湯を煮ていた。灰の匂いを嫌い、薬草に甘い蜜を混ぜて湯気を立てている。小さな火でも甘い匂いは灰の重さを押し退け、室内を穏やかにした。セルグは軒下に罠を立て掛け、母の手伝いで薪を割る。斧が乾いた薪を割るたび、灰が木肌から舞い上がり、甘い薬草の香と交じる。
「灰が嫌なら扉を閉める?」
母は首を振り、笑みを浮かべた。
「火は嫌いじゃないんだよ。火に乗った灰の匂いも、命を繋いだ証でしょう」
セルグは黙って刃を砥石に当てた。火の匂い、灰の匂い、油の匂い――それらは刃にとっても命を測る目盛りのようなものだ。
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夕刻。見張り台から鐘が二度鳴る。霧の向こうで焚き火が八つに増えたと報せが走る。灰の匂いはさらに濃くなり、夜の気配を混ぜ込むようになった。男たちが松明を提げ、柵の前で小さな焚き火を始める。灰の匂いに油の焦げが加わり、重い甘さが空気に満ちた。
セルグは罠用の枝束を背負い、外へ向かおうとした。だがアイナが鈴を鳴らして立ち塞がる。
「夜は私も行くわ。胸の熱が灰にかき回される。ここにいるよりまし」
「敵が来る前兆だ。香で抑えられるのか?」
「抑えきれないなら、その時に考える」
彼女の瞳に赤い光が揺れる。灰の重さが胸の熱を刺激している。それでもセルグは頷いた。刃を抜き、撚り縄を指先で弾いて強さを確かめる。撚りは整い、灰は絡まない。
夜の底に入る頃、焚き火は九つになった。灰の匂いは甘さを捨て、焦げた油の苦さが前に出る。犬が吠え、最初の矢が見張り台の屋根を貫いた。灰が風で跳ね、火の粉が霧に燃え、夜がようやく牙を剥く。
セルグは息を吸い込み、灰の匂いを肺に沈めた。鼻腔を抜ける煙は重く、火祭りの残り香と敵の焚き火が混ざり合い、鋭い苦みを伴う。刃は静かに震え、撚り縄は弛まず、香布の甘さはまだ胸の熱を鎮めている。
灰の匂いが夜を満たす──それは、村が戦場になる合図のようだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は静かに続いていきます。
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