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承・第一話 「影の前触れ」

 雲が低く垂れ、夜明けまでまだひと刻ある。森の空気はひやりと冷えていたが、土の匂いには焦げた脂が混じっていた。セルグは膝を折り、黒い表土を指先で掬う。湿り気に絡む油の残り香。弓二張りほど離れたところには、白く灰を吹いた焚き火の跡―—燃え残った炭は硬く真黒で、木脂を多く注いで火力を上げた痕だ。


 指についた油を嗅ぎ、舌の先で血を噛む。鉄と脂の甘い匂いは狩猟用松明のものに似ていたが、獲物ではなく人を照らす強さ。背筋がひやりと固まる。

 その時、背後で柔らかな草を踏む音。振り返るより早く、淡い花の香りが鼻を掠めた。アイナが布袋を抱え、小瓶同士を触れ合わせながら近づいてくる。


 「また匂いを集めてるのか」

 「朝露の前がいちばん香りが濃いの。今日はレメリアとウィスカを見つけたの」


 彼女は袋を抱き直し、セルグの指についた油土を嗅いだ。眉を寄せ、瓶の栓を開けて自分の花布を近づける。甘い香が油脂の焦げた匂いに打ち消され、妙な苦味を帯びた。

 「村に持ち帰って嗅がせよう。この匂いなら、祭りの酒で鈍った鼻でもわかる」


 セルグは頷き、腰の革袋から竹筒を取り出すと油土を詰め、蜜蝋で栓を封じた。

 森を戻るあいだ、二人はほとんど言葉を交わさない。セルグは歩きながら刃の背を布で撫で、金属音を殺す。アイナは瓶を抱き、歩調に合わせて鈴を鳴らす。鈴は高すぎず、心拍を整える柔らかな音で鳴った。


 夜明け直前の村は、火祭りの余韻で奇妙に静かだ。木柵の門番は居眠りし、家々の焚き火はまだくすぶり、紙片が石畳に貼り付いたまま。守り火だけが赤い舌を立て、空を熔かす。

 井戸通りの男たちがセルグを見て、自分の桶を抱き直す。「火祭り用の薪が足りない家の子だ」とでも言うような目だが、セルグは気に留めない。黙って通り過ぎ、母の待つ家へ戻った。


 母は浅い眠りのまま、細い息を繰り返していた。セルグはかまどに火を起こし、芯火を土器に移す。刃を火縁に立てると、赤い光がまっすぐ刃を走った。研ぎは濁っていない。


 「これ、森の火跡の匂いだ」

 セルグが竹筒を置くと、アイナは花布を膝に広げて香を移した。瓶からこぼれた薄緑の液が布に滲み、花の甘さが部屋に広がる。


 祈りの鐘が二度鳴き、セルグとアイナは広場へ向かった。守り火の前で長老たちが集まり、遠見の若者が夜明けの報告をしている。セルグは竹筒を差し出し、油土の匂いを訴えた。補佐役が栓を開け、眉を寄せる。


 「獣脂じゃない。旅の焚き火でもない。――油と鉄だ」

 巫女が嗅いで言い切ると、村人がざわめき、長老は見張りを増やすと宣言した。行動は遅いが、それでも警戒の輪は一段縮まる。本物の危機は、人の鼻を通してしか動かない。


 午後、セルグは家の裏で罠縄を煮て撚る。一本でも歪めばやり直し。形が整わなければ獣に笑われる。アイナは瓶の栓を開け、鈴の音で心拍を整えつつ香布を染める。


 夕暮れ、守り火がわずかに揺らいだ。セルグが刃に手を当てると、森の影で四つ目の火点が灯るのが見えた。まだ遠い。だが昨日より確実に近い。

 夜気が落ち、犬の遠吠えが森を走る。助走をつけるように短く、乾いた声。


 母の寝息を確かめ、セルグは戸口に立った。刃を鞘に収めた手がわずかに震える。胸の奥で緊張が張り詰め、だが研ぎ澄ました刃が震えを吸収し、静かな冷気を返す。


 柔らかな鈴の音が隣に立つアイナを知らせる。瓶は胸に、香布は帯に差し、香りを閉じ込めている。

 「また火が増えた」

 「見えた。五つになったら鐘が鳴るかも」

 アイナの声は落ち着いていたが、肩先は硬い。胸の奥の熱を香布で鎮めようと、指が瓶のくびを撫でる。

 セルグは鞘を握り直し、思い切って聞いた。

 「逃げないのか」

 アイナは小さく首を振る。

 「刃を離さないあなたと、香りを離せない私。同じだよ。ここで守る」


 言葉は短く、だが炎より熱かった。風が吹き、森の焚き火をひとつだけ消した。だが闇は怯まず、代わりに別の火点が灯る。


 セルグは半歩踏み込み、アイナも並ぶ。二つの影が重なりひとつになった。

 ――今度は俺たちが夜を見張る番だ。


 守り火が天へ噴き上がり、赤い舌が低い雲を舐めた。その光を背に、二人の影は揺らぎながらも動かなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

この物語は静かに続いていきます。


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