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起・第四話 「囲い」

 雲が重く垂れ、朝焼けの色を押しつぶしていた。森の方角にかすかな霞が立ち、昨夜降った霧雨の名残が葉の先で震えている。村はまだ眠りの底にあり、戸板の隙間から漂う煙の匂いだけが人の気配を知らせていた。


 セルグは井戸端に桶を下ろし、濁った水面を覗き込んだ。雨水が混じって底が見えない。縄を巻き上げると、灰色の泥がまとわりつき、こぼれ落ちた雫が足もとに不規則な模様を描いた。

 「悪い色だね」

 振り向くと、アイナが立っていた。夜露を含んだ髪が肩に張りつき、手には麻袋と小さな木匙。

 「昨日も同じ色だった?」

 セルグは桶を傾け、中身をそっと井戸へ戻した。曇った水が渦を巻き、黒い影が表面に揺れる。

 「もっと澄んでた。今日は底に泥が溜まってる。掻き出せば澄むけど……」

 「それじゃ、私も手伝う」

 アイナは縄を受け取り、木匙で泥をそぎ落とす。薄い腕に汗が滲み、額の前髪が濡れた。

 「ありがと」

 「お互いさまよ。うちには水をくれる人が沢山いるもの」

 さらりと言う口調に棘はない。だが、井戸の脇道を行く村人たちの視線がはっきりと冷えるのをセルグは感じた。


 祈りの鐘はまだ鳴らない。広場に運び込まれた薪は湿り、焚き火は昼まで待たねば火が上がらない。それでも長老たちは石像のように整列していた。灰色の外套は湿気を含み、裾が地面に引きずられている。

 セルグが新しい桶を汲み上げると、年配の男が柵に肘を乗せ、凝視していた。

 「夜明け前から大した働き者だ。火を絶やした罰でも怖いのか?」

 言葉に笑みはなかった。セルグは黙って桶を井戸の縁に置く。男は肩をすくめ、「まあ、焚き火は絶やすなよ」と呟いて去った。

 アイナが泥をすすぎ、声を潜める。

 「いつもより厳しいね」

 「井戸の水が濁ると、不吉だと思うんだ。だから誰かのせいにしたい」

 「それがあなたの家というわけ?」

 セルグは首を振り、桶の取っ手を握り直した。

 「……俺がどう思われてもいい。でも母の寝床にまでその声が届くのは嫌だ」


 午前の鐘が三度鳴り、祈りの焚き火の準備が始まった。子どもたちは薪を運び、女たちは灰の器を洗う。セルグは荷車で薪を届けようとすると、輪の手前で足を止められた。

 「濡れた薪なら要らん。煙ばかり出て神の舌を汚す」

 長老補佐の背丈の低い男が鼻を鳴らす。セルグは湿った薪の束を肩に担ぎ直し、干し場へ戻った。

 その背中にまた囁き声。

 「魔を呼ぶ影が背中に張りついてる」

 「母親が火を絶やすからさ」

 アイナが振り返り、視線で声の主を探そうとする。セルグは歩みを速め、肩越しに首を振った。追いかける必要はない。


 午後、雲は厚いままなのにぬるい風が吹き、広場の薪はようやく乾いた。長老が火打ち石を打つと、白い火花が飛び、灰の山に赤い舌が芽生えた。祝詞が低く唱えられ、村人は掌に灰を受け、額に塗る。

 セルグも灰を受けようと進むが、器は彼の前でわずかに傾き、灰はひとつまみしか残されていなかった。長老補佐が器を返す仕草はあからさまだ。セルグは口を結び、指に残った薄灰を額に押し当てる。


 アイナは列の後ろで様子を見ていた。彼女の外套は目を惹く赤だが、今日はその赤がやけに強く映えた。列を抜けてセルグに近づき、小さな布袋を差し出す。

 「昨日の薬草。お母さんの咳に効くって」

 「ありがとう。でも今は」

 言いかけると、囲いの外にいた子どもたちが石を地面に投げつけた。「火の魔女」「影付き」と囃し立てる声。大人は止めない。

 アイナの瞳に強い光が宿り、子どもたちを睨み返した。だが声は出さず、拳を握りしめる。その拳が震え、指の節が白い。

 セルグは薬草袋を受け取ると、彼女の肩にそっと手を置いた。

 「行こう。母さんが待ってる」

 ふたりは囲いを抜け、狭い路地へ入った。土壁の家の間を吹き抜ける風が湿気を運び、鼻の奥で重くなる。


 その夜、母の寝静まった部屋で薬草を煎じると、苦い香りが室内を満たした。アイナは火の揺らぎを見つめ、胸の奥に触れる。

 「また熱い?」

 セルグの問いにアイナは頷く。

 「怖くはない。でも、うまく言えない。胸の中で火が生きものみたいに動いてる。息を合わせてくれってせがむみたいに」

 彼女の細い指先が炉の赤を掠めた。火傷はしなかった。まるで火が皮膚を避けるようだった。


 外で犬が遠く吠える。森の方向からだった。吠え声は切れ切れで、やがて途絶えた。続いて低い金属の軋みが風に乗り、すぐに闇に飲まれる。

 「盗賊……?」

 アイナの視線が窓へ向く。セルグは火かき棒で薪を寄せ、炎を強める。炉の赤が壁を照らし、ふたりの影が重なった。

 「今は家を守る。村は守ってくれない」

 アイナは頷き、薬草の湯を母の枕元へ置く。


 夜半、外灯のない村道に人影はない。けれど森の奥、黒い闇のさらに深いところで小さな焚き火が揺れていた。風に乗るのは木炭ではなく、動物の脂を焼く油煙の匂い。遠いのに鼻を刺す。

 セルグはその匂いを嗅ぎ取り、背筋に冷たいものが走った。村の誰も知らぬ闇の火。気付かぬまま過ごせば、やがて火は歩いてこちらへ来る。


 かまどの火は静かに燃え続けた。薪を惜しまない夜。炎のゆらめきが壁の影を揺らし、影は重なってひとつの囲いのように広がっていた。森の闇もまた囲いを狭めてくる。空気は重く、息は熱い。


 囲いの外で月は雲に隠れたまま、ただ冷たい光をこぼしていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

この物語は静かに続いていきます。


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