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起・第三話 「村の理」

 鐘が二度鳴った。白い朝霧が木柵を越え、森の匂いをかすかに運んでくる。広場の中央には祈りの焚き火がまだ灯っておらず、乾き切らない薪が井桁に組まれていた。長老たちは灰色の外套を揺らし、火打ち石を手に輪を作っている。季節ごとに行われる「火迎え」は、火を神の舌と崇めるこの村で最も重んじられる神事だった。


 セルグは輪の外に立ち、雨上がりの薪束を抱えていた。濡れた樹皮が手のひらを冷やす。捧げ物が少ない家は視線を集めやすい。隣家の老人がちらりと目を向け、肩をすくめるように小さくため息をついた。


 輪の中心に長老が進み出る。皺だらけの手の甲には火の紋様が墨で刻まれている。石を打つたびに白い火花が散った。やがて細い煙が立ち上り、乾いた薪が低く鳴る。長老は深い声で唱えた。


 「この舌は神の息。火が絶えれば闇が息づく。」


 言葉が終わると、村人たちは掌に灰を受け取り、頭上へ振り撒く。灰は朝の光を受けて銀砂のように舞い、広場の土へ吸い込まれていった。セルグも薪を下ろし、灰を受け取る。灰はまだ温かく、指の腹にじんわり熱を残した。父の葬火を思い出し、胸が詰まる。


 火が上がると、子どもたちが輪から抜けて走り出た。小さな足が土を蹴り、笑い声が煙に交ざる。その輪の一歩外側、わずかな隙間にセルグは立ち続けた。肩越しにざわめきが押し寄せる。


 「火を絶やす家は影を呼ぶんだってさ。」

 「魔女の血が混じってるのかもな。」


 囁きは風より冷たかった。振り向くと、肩を寄せ合う大人たちが目を伏せる。誰も言葉を続けない。動くのは灰を振る手だけだ。その中央で火は燃え、赤い舌が濡れた薪を舐め上げていた。


 香草が投げ込まれ、白い煙が甘い匂いを運ぶ。別の長老が外套を払って進み出ると、腰の袋から黒い石を取り出した。石は煤に汚れ、割れ目に赤褐色の筋が走っている。


 「これは神の声を告げる《斥石》。今年は闇を強く孕んでいる。火を拒む者が再び魔を連れてこよう。」


 瞬間、注がれる視線が一点に合わさった。焚き火の光がセルグの頬に赤を映す。息を呑む気配が肌を刺した。それでも動かない。両足に力を込め、火のそばへ歩み寄る。


 薪を一本、炎の脇へ差し込んだ。火は勢いを増し、乾いた爆ぜる音を零した。火花が舞い、黒い石の割れ目に落ちた。ぱち、と石が裂けて粉の灰がこぼれる。ざわめきが広がる。長老が砕けた石を拾い上げ、声を潜めた。


 「闇はもう口を開けている。」


 言葉は煙に紛れ、セルグだけが聞き取った。


 祈りが終わり、火は土を掘った竈へ移される。守り火と呼ばれる炎は今日から三十日燃え続け、村に加護をもたらすと信じられている。人々は額に灰を押し当て、家々へ散っていった。流れに逆らわず歩き出すセルグに、誰も声を掛けない。


 広場の外れでアイナが待っていた。赤い外套が炎より深く、髪に灰が落ちている。セルグを見るなり、口を開きかけて躊躇する。


 「薪、分けられなくてごめんね。」


 セルグは首を横に振った。言葉にすれば何か崩れそうで、声にしなかった。アイナの瞳に火の残光が宿り、揺れている。


 「また薬を持って行くよ。お母さんの咳も、きっと良くなる。」


 彼女はそう言い、灰を払うように外套の裾を掴んだ。その手の甲に小さな火傷の痕がある。昨夜、かまどで火を弄ったときにできたものだ。


 「火は怖くないの?」


 思わず問いが漏れた。アイナは少し驚き、目を細める。


 「火は熱いし、痛い。でも温かい。だから怖くないよ。」


 その言葉だけで十分だった。緊張がふっとほどける。雨雲は切れ、薄い陽が差し始めた。地面の湿り気が湯気となり、灰の匂いと混ざる。


 視線の端で子どもたちが石を蹴り、笑い合っていた。片方の少年がセルグを指差し、何か囁いた。笑いに棘があり、アイナが振り返って眉を寄せる。セルグは肩をすくめ、歩き出した。


 家路の途中、柵の外に目を向けると森の影が濃い。雨で柔らかくなった土に歪な足跡が残り、奥へ続いている。獣か、それとも人か。昨日感じた嫌な気配が確かな形を帯びたようだった。


 その夜、かまどの火はいつもより高く燃えた。薪を惜しまず、炎を絶やさない。母は薬湯を飲み、穏やかな寝息を立てる。窓の外で犬が吠え、遠い闇が応えるように低く唸った。


 火を見つめる。赤い舌が薪を噛み、白い灰が崩れる。長老の言葉が頭の奥で繰り返された。炎を拒む者が再び魔を連れてくる。父を奪った夜の炎が脳裏に蘇る。亀裂の入った石の奥で、闇が呼吸している気がした。


 明日も火を絶やさない。そのために森へ入る。拳を握ると骨が軋む。火花が跳ね、壁に映る影が伸びた。影は天井で淡く揺れ、静かに溶けていく。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

この物語は静かに続いていきます。


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― 新着の感想 ―
鳥を狩る そんな緊張感のある描写から始まり、怪しさが増していきますね。そして絵本から語られる「魔女」の不気味で強大な何かが近づいているのもドキドキしますね。火を絶やさないのもなかなか大変そうです。
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