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起・第二話 「魔女の絵本」


 窓をうつ雨が細かく鳴っている。森を抜けてきた湿った風が、母屋のかまどを白く煙らせた。薪の割れ目から上がる赤い舌が、壁に大きな影を揺らしている。


 母は布団に身を埋め、浅い息を繰り返していた。枕元の茶碗には薬湯が半分残り、表面に乾いた薬草の切れ端が浮かんでいる。火の色が母の頬を照らしては消え、薄い肌にほのかな朱を差した。 


 戸口を叩く音がして立ち上がる。外套をまとったアイナが立っていた。雨粒を払うように肩をすくめると、胸に抱いた包みを差し出した。乾かした薬草と、布に包んだ絵本が入っている。墨の擦れた文字が見えた。


「お母さんの薬になる葉を分けてもらったの。火に煎じれば苦みが和らぐそうよ」


 礼を言い、かまどの火へ薬草を落とす。湿った草が弾け、甘くほろ苦い香りが昇った。湯気の向こうでアイナが包みを開き、絵本を取り出した。表紙には、炎の中で杖を掲げる女が描かれている。羊皮紙の頁は角が欠け、墨は灰色にかすれていた。


「続きを読もうか」


 彼女は火のそばに座った。炎の揺らぎが瞳に映り、淡い光を宿す。頁を開く指先が震え、蝋のしずくが固まった栞をそっと外す。


 声は小さいが澄んでいた。

 ――魔女は神の言葉を盗み見て、人へ禁じられた知を分け与えた。

 村人は恐れ、火刑台を組み、黒い煙の中で祈りを捧げた。


 読まれる言葉に耳を澄ます。薪がパチ、と弾けるたび、行間に火の粉が降るようだった。魔女は炎に包まれても祈りは絶やさず、最後にひとつだけ声を残す。


 我が血より芽吹く者が、次の炎を起こす。 


 頁を閉じる指がわずかに強張った。火の音が遠のき、雨の滴が軒を叩く。アイナは表紙を撫で、膝の上で息を吐く。火の明かりが頬に影を落とし、長い睫が震えた。


「魔女は本当に悪かったのかな」


 問いは空気に沈み、かまどの煙が細く立ち上る。母が静かに目を開いた。唇は乾いているが、声は意外にしっかりしている。


「悪かどうかなんて、わからないよ。怖れた者が決めただけさ。火は誰にも選ばない」


 言い終えると、母は薬湯を口に近づける。熱い湯気が頬を濡らした。アイナが壺から蜂蜜を垂らし、苦みを和らげた。母はわずかに笑い、再び眠りに戻る。


 火の色が少し弱まった。薪を足そうと腰を上げると、アイナが袖をつかんだ。包みの底から薄い紙片を取り出し、灯明の下へ差し出す。絵本の余白に貼られていたものらしい。墨は古く、本文とは違う筆跡で書かれている。


 火を操る者は、火に試される。火を恐れる者は、心を焼かれる。 


 短い二行が、雨音よりもはっきり耳に残った。指が紙を挟んだまま熱を感じる。火花が弧を描いて跳ね、紙の端に小さな穴を開けた。慌てて手を引くと、穴の縁が黒く焦げて丸まった。


 アイナは言葉を失い、目を伏せた。肩が震えている。火の揺らぎがその輪郭を曖昧にし、涙か雨粒かわからない光が頬を滑り落ちた。


「怖いわけじゃないの。ただ胸が熱くなるの」


 吐き出すような声。ひと呼吸の間を置き、紙片をそっと折りたたんだ。包みに戻すと、立ち上がって外套の襟を正す。雨は弱まり、夜気が冷たかった。


「また明日、続きを読もう。お母さんにも薬を持ってくる」


 戸を開ける。森の闇に沈みかけた月が雲間に濁り、川の方から湿った風が吹く。アイナの背中が黒い雨に滲み、闇へ溶けるように遠ざかった。


 戸を閉じると、火が揺れ、壁に影が踊る。

 火を恐れる者は、心を焼かれる。

 言葉が胸の奥で響き続けた。夜鳥の声も雨音も遠ざかり、火の呼吸だけが部屋を満たす。


 薪をくべ、火かき棒で炎を整える。赤い炭が寄り集まり、静かに息づいた。魔女は本当に悪だったのか。それとも火に試された誰かだったのか。答えは出ないまま、影だけが揺れていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

この物語は静かに続いていきます。


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