起・第一話 「貧しい暮らし、温かな手」
薄雲が低く流れ、夕陽の赤が森の端を染めていた。
狩りから戻る足取りは重い。背中には鳥の魔物の肉、肩には乾ききらない痛み。村の木柵が見えてくるたび、胸の奥で強張っていたものが少しずつほどけていった。
家は小さな土壁の小屋だ。入口のかまどには、母が残してくれた火がまだ赤く灯っている。村では火を「神の舌」と呼ぶ。火が消える家は、神に背を向けた家と噂される。そのため薪だけは欠かさず置くようにしている。
母は敷布団の上で横になっていた。頬はこけ、息は浅い。
「獲れたのね」
かすれ声が漏れる。
うなずき、鳥の肉を見せる。血の匂いが室内に広がった。
母は目を細め、それきり言葉をのみ込んだ。
薪をくべ、鍋に湯を張る。
森の湿気が抜けきらない服に煙がまとわりつき、視界が揺れた。
父がいた頃は、焚き火の前で汁物の匂いに紛れて談笑もあった。いまは音が少ない。沸く湯の泡と、薪のはぜる音だけが耳を打つ。
戸口を叩く音。
開けるとアイナが立っていた。赤い外套と白いエプロン。村でも上等な布だ。頬は冬の林檎のように色づいている。
「お肉、運ぶの手伝うね」
それだけ言って靴を脱ぎ、部屋に上がった。
彼女の家は村の中央に大きな炉を持つ裕福な一族だ。両親は木材商で、この辺境では珍しく銅貨を扱う。アイナの手には、乾かした薬草と白い塩袋が握られていた。
「これ、傷に当てて。お母さんの分の薬も分けてもらったの」
礼を言う前に、彼女は鍋のふたを取り、薬草を沈めた。香りが広がる。檜と甘草が混じった甘い匂い。
母が微笑んだ。
「やっぱりアイナちゃんのおかげで息子は生きていけるねぇ」
からかうような声音だったが、息が続かず咳に変わる。
アイナは肩をすぼめ、湯杓子で汁を混ぜながら笑った。
村の宗教では、火と食と歌は神へ捧げるものとされる。裕福な家は食卓で聖歌を唱えるが、貧しい家は歌の代わりに塩を火に振るい、煙で祈りを立てる。母は小さな布に塩を包み、指でつまんで火に散らした。白い火花がぱちりと弾けた。
鍋が煮立つころ、アイナは絵本を取り出した。色あせた表紙に炎の中で杖を掲げる女の挿絵。村の集会所に放置されていた古い写本を借りてきたという。
「魔女の話、続きが気になって。今日は読んであげる」
母が目を閉じて聞く支度をする。
ページをめくる指が細く震えていた。
“魔女は炎と友に歩き、神の言葉を盗み見て、村に禁じられた知を分け与えた”
柔らかな声が土壁に響き、火の揺らぎに合わせて影が揺れる。
物語の最後、魔女は火刑台で祈りを捧げ、「我が血より芽吹く者が次の炎を起こす」と言い残す。
読み終えると、鍋がちょうど煮えた。
アイナは静かに本を閉じ、膝の上で手を組んだ。
「魔女は本当に人を呪ったのかな」
問いは宙に漂ったが、誰もすぐには答えなかった。
湯気が上る椀を母に渡し、次にアイナに渡す。
自分の椀は最後に取った。それでも足りない塩気と油が温かさを深く感じさせる。
夜風が戸板を揺らす。炎が一瞬だけ細くなり、闇が部屋を撫でていった。
アイナが火かき棒で薪を寄せる。小さく火花が散り、再びオレンジ色が広がった。
その光の中、母が眠りにつく。
箸を置き、アイナはそっと立ち上がった。
「明日、また来るね」
外套を羽織り、戸口まで行ったところで振り返る。
「……火を絶やさないで。きょうはよく燃えてる」
頷き、戸を閉じた。
外では遠い夜鳥が鳴く。森の闇が息づいている気配。
炎を見つめていると、魔女の絵本の最後の一節が耳に残った。
我が血より芽吹く者が次の炎を起こす
火は揺れ、壁に宿る影が伸び縮みする。
そのたびに胸の内で、得体の知れない不安と、奇妙な昂ぶりが交差した。
けれど炉が赤く燃えているかぎり、今日という一日は終わったのだと実感できた。