序章 第一話:「血と罠」
縄の罠は森の獣道に仕掛けた。
この道を通る獲物は川沿いへ下り、水を求めて動く。そこを狙った。
泥に混じって落ちていた羽毛――灰色がかっていた。それが魔物の痕だ。
鳥。けれど普通の鳥じゃない。
背丈は子どもの俺と同じか、それより高い。翼は骨ばり、羽毛の隙間から黒い皮膚が覗く。目だけが濁ったような黄色だ。
羽音が重く響くのも特徴だった。
そして──吐く。毒を。
この森の魔物は、空から毒の霧を撒き散らす。
枝の陰に身を潜め、息を止める。
罠は枝の間に張った。足が入れば絡みつき、動きが止まる。
あとは刃を入れるだけだ。
簡単に聞こえる。でも、実際は違う。
罠にかかる前に気づかれれば終わる。
羽音とともに毒霧が降ってくる。あれを吸えば、喉が焼けるように痛み、血を吐く。
実際、父はそれで死んだ。
まだ七つの頃だった。
村に戻ったとき、父の唇は黒くなり、目だけが虚ろに開いていた。
それ以来だ。羽音を聞くたび、喉の奥に鉄の味が広がる。
遠くで羽音が鳴った。
低く、重く、風を割る音だ。こちらに向かってくる。
そっと立ち上がる。葉の影が頬にかかり、視界がゆがむ。静かに息を吐いた。
ナイフを握った。
この森で俺に残されたものは、それだけだ。
影が、木々の隙間を滑るように近づく。
灰色の翼。黄ばんだ目が地面を探るように動く。
縄まで、あと五歩。
いま動けば気づかれる。だから待つ。
目だけが動き、風の流れを読む。
四歩。
足が止まる。獣の本能か、それとも魔物の本性か。黄ばんだ目がこちらを探っている。
心臓が跳ねた。
風はまだ動かない。匂いは届いていないはずだ。
──動け。
願うように息を吐いた瞬間、森の向こうから別の羽音が聞こえた。
やつが首を巡らせる。
縄まで、あと一歩。
もう一度、遠くから羽音が響く。やつの注意が逸れる。
その足が──輪の中に沈んだ。
縄が跳ねた。枝から巻き上がり、獣の体が吊られる。
灰色の翼が暴れ、空を裂くような叫びが森に響いた。
毒霧が舞う前に動く。
ナイフを逆手に持ち、飛び出した。
足が絡まり、動けない魔物が翼をばたつかせる。
黄ばんだ目がこちらを睨んだ。
構わない。狙うのは喉元だ。
その刹那、黒い霧が喉から噴き出した。
毒だ。
顔を背ける。肩に霧がかかった。熱が走る。
痛みなどどうでもいい。
刃を喉に滑らせた。
骨に当たる感触。力を込める。
喉が裂けた。
熱いものが顔に降りかかる。
魔物は暴れた。だがそれも一瞬だった。
吊られたまま、灰色の翼がかすかに痙攣している。
肩が焼けるように熱い。
ナイフを拭わず、足を切り落とした。縄を解き、魔物の体を地面に転がす。
そのまま胸を割り、内臓を引きずり出す。
ぐずりと音がして、腐った匂いが鼻を刺した。
すぐそばの土を掘り返し、内臓を埋める。
父が教えてくれたことだ。
「魔物の腹の中は毒が回ってる。だから埋めろ。匂いが残れば、次が来る」
手が震えた。
肩も痛んだ。それでも動きを止めない。
血を抜き、余計な肉を落とし、背中に紐で縛る。
まだ森は静まり返っていた。
空の上で別の羽音が鳴る。仲間かもしれない。もうここにはいられない。
ナイフをしまった。
森を抜ける道は頭に入っている。
足元の土が黒く濡れていた。
毒霧が触れた跡だ。草も溶けかけている。
急がなければ。肩の痛みが広がる前に。
森の奥でまた羽音が鳴る。
けれど振り返らなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は静かに続いていきます。
次回もまた、読んでいただければ嬉しく思います。




