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転・第五話 「炎の目覚め」

 霧が熱で裂けた。

 アイナの胸元に潜んでいたか細い火芽は、もはや押さえ込める規模ではない。焦げた香布が灰となり、割れた小瓶から花の混合液が流れ落ちると、液は空気に触れた瞬間に赤い炎へ姿を変えた。甘い匂いは一転して熟した果実が焼けるような濃密な香へ変わり、霧の甘苦さと油の臭気を呑み込んでいく。


 「セルグ、下がって!」


 アイナの声はひび割れていたが、響きは澄んでいた。鈴の鎖が溶け、滴った金粒が花びらのような火の渦に絡む。セルグは肩の痛みと激しい眩暈を抱えたまま、若者の支えを振り払って立つ。自分の刃がもう役に立たないと悟っても、炎の中に彼女一人を残す気にはなれない。


 敵の影が怯え、刃を構えたまま足を止めた。火は音を食らい、空気を焼き、霧を蒸気に変える。夜の灰すら赤光に照らされ、雨の粒のように舞った。


 アイナは両掌で胸を押さえ、最後の自制を振り絞って熱を閉じ込めようとした。しかし焚き火から吹いた油煙と、セルグの痛み、村を満たす恐怖が発火材となり、炎は掌を貫いた。


 鼓動が、外にまで聞こえるほど大きくなった。

 ――ドン。


 赤い衝撃波が円を描き、扉の前の土を払い飛ばした。敵の一人が避ける間もなく吹き飛ばされ、腰の鎖帷子が焼けた焔に包まれる。悲鳴を上げた口から熱気が逆流し、声は音にならずに掻き消えた。


 セルグは炎の輪郭を凝視していた。炎はただ燃えるのではない。鳥の羽ばたきのように形を変え、花弁のように散り、再び渦を巻いて集まった。花を嗅いだ時の安堵と、火口に手を入れた時の灼熱が同時に胸に迫った。


 アイナの瞳が燃える紅玉のように輝き、視線がセルグを捉える。その瞬間だけ、炎の奔流が止まった。


 「行かないで。――まだ焼き尽くしたくない」


 かすれた囁き。セルグは頷き、血で滑る刃を鞘に納めた。自分にはもう止めようのない力だ。しかし、逃げてはならない。


 炎は応えるように低く唸り、次の瞬間、門前に渦巻いた。敵の残る影が一斉に矢を番えるが、弦が熱で軋み、矢羽が焦げる。放たれた矢は軌道を歪められ、炎の壁へ吸い込まれた。


 轟、と霧が爆ぜた。

 炎の舌が半月形の弧を描き、敵の列をまとめて呑み込む。革鎧が焼け、油布が音を立てて花火のように破裂する。夜を支配していた灰の匂いも油焦げも、一瞬で花蜜が焦げる甘い芳香に変わった。火は憎悪を喰らわず、ただ燃料を選んで咲き誇る。


 セルグは目を細め、炎の中で動く影を探した。大男の骸はすでに泥に埋まり、残る敵も炎に包まれて退路を見失っている。火を恐れ逃げ出そうとする背に、罠縄が絡む。整えた撚り縄は形を歪めず、燃えず、膝を締め上げた。敵は転倒し、刃を落とし、悲鳴を呑み込む前に炎が覆い被さる。


 あらゆる音が炎の轟きに溶け込んだ。

 やがて燃えるべきものが尽き、赤い花弁の渦は萎むように小さくなった。残ったのは焦げた油と鉄の臭気、そして花の蜜が焦げてできた甘い灰香。


 セルグは前に進み、まだ立っている影がいないか確かめた。炎の中心にはアイナが膝をつき、手を胸に押さえていた。外套の袖は焼け、掌には紅と金の痕。その周囲には一歩距離を置いて薄青い炎が揺れ、守る円を描いている。


 「アイナ……」


 彼女は顔を上げた。瞳の赤は消えかけ、替わりに深い疲労の色が混ざる。

 「燃えちゃった……香も鈴も……でも、全部は焼かなかった」

 セルグは肩の痛みを忘れ、彼女の前で膝をついた。温い空気が二人を包む。壊れた鈴の欠片が灰の上で輝き、彼女の手で鍛え直されることを待っているかのようだった。


 背後で見張りの若者が声を上げる。

 「敵が退いた!」

 霧の向こうで焚き火の灯が揺れ、やがて一つ、また一つと消えていく。炎に怯えた賊が退散し、森の奥へ逃げ去る気配。夜の雨が降り始め、灰を含んだ甘い雨粒が土に吸われた。


 セルグはアイナの肩を支え、ゆっくり立ち上がる。

 「家へ……母さんが待ってる」

 アイナが頷く。疲労で足取りはふらつくが、炎はもはや暴走せず、彼女の胸の奥へ小さく灯芯を残して収まっている。


 門内では長老が斥石の破片を抱え、震える声で祈りを唱えていた。村長は焚き火の灰を掴み、貯蔵庫の鍵束を胸に押し当てる。人々の目は恐怖と安堵でゆがみ、しかし二人の子どもが歩いてくると視線を開いた。


 火を操る魔女――そう呼ぶ声が上がる前に、遠くで馬蹄が鳴った。王都の紋章を掲げる灯台のようなランプが霧を切り裂き、鎧と槍で武装した騎士の列が現れる。


 「王命により、魔力を持つ者を保護する!」


 声が低く響き、村の空気が再び凍る。セルグは刃を握り直し、前へ出ようとした。アイナの手が袖を引く。

 「もう刃は下ろして。あなたは泣かず、守った。――あとは私が火を抱く」


 騎士の列が門前で止まり、槍を下ろす。夜の雨が火の残り香を薄め、霧が灰と共に沈む。王都の旗が揺れ、燃え残る炎が細く折れた鈴を照らした。


 泣き声など要らなかった。

 夜は炎に裁かれ、村はその余韻を甘い灰香と雨に沈めた。

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