転・第四話 「刃と骨・後」
霧の底で矢が尽きた。
火の芯を纏いながら突撃してくる影は、先の大男とは体格も熱も違う。革鎧の肩を赤く濡らし、刃を引き抜いては前へ出る。呼気が白く揺れ、油を焼いた臭気が重く垂れ下がる。守りの若者たちは槍の継ぎ目を握りしめ、足を震わせた。
セルグは短刀を柄の根まで深く握る。肩の裂傷は血が乾かず、袖口を重くしている。それでも脚はまだ動いた。彼は一歩前へ出ると、泥に滑る靴を踏み固め、刃を低く構えた。
敵が踏み込む。炎を口元で撫でるような咆哮。刃筋は荒々しく、殺気は先の男より若い。だが速い――槍を持つ若者の前へ割り込み、刃を横薙ぎにした。若者の盾が割れ、火花と共に木屑が飛ぶ。若者は尻餅をつき、息が詰まった声を漏らした。
セルグはその背を跳び越えた。低い姿勢から敵の腹へ突進。短刀の切っ先が革を裂き、脇腹に浅く入る。痛みより怒りが勝る敵は、刃を振り上げセルグの肩を抉ろうとする。
――鈴が鳴った。
微かな、しかし澄み切った音色。霧を裂いた音が敵の刃筋をわずかに狂わせる。斬撃はセルグの背で掠れ、血を噴かせながらも骨までは届かない。セルグは泥へ転がり込み、すぐに立ち上がった。
鈴を鳴らしたアイナは、胸に抱いた花布で熱をかき抱いている。香の甘さは焦げた匂いに変わり始め、赤い火花が指先の周囲で瞬いていた。彼女は歯を食いしばり、炎を抑え込む。
「セルグ、まだ抑えられる……!」
声が震え、瞳の奥で赤い輪郭が揺れる。セルグはうなずき、刃を構え直した。腕は震え、視界の隅が暗い。だが耳は冴えている。敵が再び踏み込み、刃を振るう前に足音が一瞬沈む。泥が踏み抜かれる感触――罠だ。
セルグが踏み込むより早く、敵の脚が泥へ沈んだ。昨夜張った二の罠。撚り縄が膝裏を絡め取り、枝の支柱が弧を描いて跳ね上がる。敵の体が前屈みになり、刃の軌跡が地に逸れた。セルグは残った力で飛び込み、短刀を喉際へ突き立てた。革鎧の隙間を貫いた刃が温い温度と共に深く沈み、敵は呻き声の代わりに血を噴き出した。
霧が赤く散り、火の粉が跳ねる。敵の影が二歩後ろへ退き、仲間の死を見つめる。恐怖が、焚き火の炎よりも濃く漂う。
セルグは膝をつき、肩で息をした。視界が上下に跳ねる。熱い血が袖から滴り、指先に落ちて泥と混ざる。
そのとき、背後で母屋の戸が激しく叩かれた。
「セルグ!」
母の声だ。咳を押し殺し、まとわりつく灰の匂いの中から絞り出した呼び声。アイナが振り向き、花布を握る手が震える。赤い火花が掌に集まり、布地を焦がし始めた。
「だめ……!」
アイナは火を胸に抱え、しかしまだ炎を広げない。鈴が細かく揺れ、音色が霧に散る。胸の熱が限界を訴え、香布の焦げた匂いが甘さを失う。
敵の残り二人が飛び込む。槍を構えた若者が歯を食いしばり、折れた柄で一人を受け止める。残る一人がセルグへ斬り込む。セルグは立ち上がる。脚は震え、握力が薄れる。短刀は重く、刃の背が反射する光が滲む。
刃が交わる。金属音が乾いた夜気を叩く。セルグの短刀は刃こぼれしながらも斬撃を受け止め、返しの一打で敵の頬を裂く。血が飛び、敵の目が怯む。続く斬撃で肩口を受ける。痛みが閃き、視界が白くなる。膝が折れる――
鈴が割れた。
高く澄んだ音色が一瞬で砕け、金の粒が炎に溶けた。アイナの掌から噴き出す赤い光。花布が燃え、香の甘さが焦げ茶へ変わる。霧が熱に押し退けられ、石畳に影を彫り、炎が渦を巻く。
「だめ、まだ……!」
アイナは叫ぶが、抑え切れない。胸の奥の炎が脈を穿ち、赤い舌が掌を這う。敵の影が後退し、恐怖が霧より色濃く漂う。セルグの瞳が炎を映し、立ち上がろうとする。
しかし、炎はまだ村を焼かない。
鈴の音は砕けても、炎の核は彼女の胸に留まり、解き放たれる息継ぎのように脈打つだけ。村の若者がセルグに駆け寄り、肩を支える。
「下がれ! 門の内へ!」
セルグは短刀を抜き、肩に添えられた腕を振り払いかける。しかし力が抜け、若者の支えに体重を預けた。そのまま門の内へ後退。敵は追うより、炎を抱える少女を恐れて足を止めた。
門内では長老が斥石の破片へ祈りの灰を振り掛け、祭司役の巫女が香草を燃やす。しかし炎は祈りを拒むように鈴の欠片を溶かし、霧の夜を赤に染めた。
セルグは振り返り、炎の中で苦悶するアイナを見た。花布は燃え落ち、瓶は割れ、香りは火に飲まれている。それでも彼女は手を閉じ、炎を胸に押し戻そうとしていた。
「アイナ、戻れ!」
声は届かない。炎の中で鈴の鎖が融け、赤金の滴を落とす。夜気が一気に熱を帯び、霧が湯気のように消えていく。
敵影が戸惑い、曲刀を構えながらも後退する。恐怖と炎の輝きが、泣き声よりずっと深く彼らを縛った。
セルグの肩で血が凍りつき、意識が揺らぎながらも刃を離さない。その脇で若者が盾を構え、門を閉じようとする。しかしセルグは首を振った。
「閉じるな……炎が広がる……外へ逃がさないと……」
門の向こうで大きな音がした。遠い焚き火が轟音と共に爆ぜ、火柱が森の梢を照らす。敵の陣の松明が飛び、油壺が破裂したのだ。炎が二重に夜を染める。
アイナの瞳がその炎を映し、胸の火と共鳴する。歯を食いしばり続けた唇から、かすかな呻きが漏れた。
――炎は門前に集い、夜は最後の幕を開けようとしている。
もう泣き声を欲する者はいない。
残るは、火が村を裁くか、意志が火を抱きしめるか──それだけだった。