転・第三話 「刃と骨・中」
炎が鈴の金線を包み込み、霧が蒸発した。
アイナの指先から漏れた光は、まるで熱い息のように空へ立ち上り、夜の灰を染める。だが彼女は歯を食いしばり、掌を閉じて火を押し戻していた。胸の花布が赤く脈打ち、甘い香りが焦げた匂いへ変じる。熱はまだ制御下――炎は芽吹きの段階に過ぎない。
セルグはその一瞬を逃さなかった。
体勢を斜めに崩しながら、大男の死角へ滑り込む。短刀はすでに血で黒光りし、手のひらに貼りついている。肩の奥から鈍痛が波打つが、刃を動かす筋肉にはまだ命令が届く。
大男は曲刀を振り解いた直後で、腕の腱が極限まで伸びている。返すには一拍必要。セルグは肩で男の脇へ突進し、刃を脇腹の裂け目に押し当てた。革と肉を同時に裂く鈍い感触。短刀は骨に届かずとも、深い傷溝を開く。血が霧を押し分け、鉄臭が甘い灰の匂いを上書きした。
「まだ泣かぬか!」
大男が低く唸り、曲刀を振り下ろす。避けられない。セルグは短刀を捨て、両腕で頭を覆った。鋼と革がぶつかる鈍音――だが想像した衝撃は来ない。火花と共に曲刀が弾かれたからだ。
一人の村の若者が折れた槍を二本つなぎ、横薙ぎで刃を受け止めたのだ。柄の継ぎ目が砕け、若者の唇が血を噛む。それでも折れた槍で男の膝を突く。
隙ができた。セルグは地を転がり、短刀を拾い上げる。柄の革は泥と血で滑るが、指の根元で食い込むよう握る。視界の端でアイナが膝をつき、香布を握った手に赤い光を抱えている。鈴はもう鳴らない。火の波動が心拍と同調し、胸に潜む炎が外気を吸って膨らむ音が、遠雷のように響く。
もう一人の敵が霧を裂いて現れる。腕には短弓、腰に鉤爪。セルグが狙いを悟るより早く、鉤爪が振り抜かれ、若者の首筋に浅く食い込む。若者は呻き、血が霧へ散る。大男がその隙に再度踏み込む。次は確実に首を刈る軌道。
肺が焦げるように熱くても、セルグは前へ出た。短刀を逆手にし、男の視線を奪うためだけに跳び込む。曲刀の間合いに身を晒し、刃の影が昏い弧を描く。避ければ仲間が死ぬ。止めれば自分が裂ける。選択は刃より速い。
曲刀が振り下ろされ、セルグの左肩を切り裂く。骨へ届く深さ。痛みは声に変わる寸前で止まった。セルグの右手の短刀は、男の手首を削るように走り、刃を握る指を裂いた。血飛沫。男の握力が緩む。曲刀は手を離れ、地へ突き刺さる。
大男が吠え声と共に後退した。肩を竦め、痛みではなく怒りに身を震わす。刃を奪われた彼の瞳は炎の芯のように赤く染まり、セルグの膝が揺れる程の殺気を放つ。
その殺気を遮るものがあった。
――花の香り。焦げた甘さ。
アイナの手のひらが開く。
そこに乗った鈴が赤熱し、溶けた金の滴が花布へ落ちる。薄紫の外套が風に膨らみ、赤と青の火花が布の繊維を走る。月明かりを凌駕する光。胸の熱が解き放たれる瞬間だ。
だがアイナは最後の理性で指を閉じた。光が掌に潜り込み、火花が霧に散る。彼女は呻き声を飲み込み、花布を胸に押し当てる。炎は退かない。それでも制御は切れていない。大男はその光景に一瞬立ち止まり、もう一歩後退した。
「魔女……」
男の声は、初めて恐れの色を帯びる。
セルグはその隙を逃さない。血の滴る肩を前に、短刀を順手から逆手へ返す。男の膝は先ほどの槍で傷つき、動きに鈍さが出ている。セルグは泥を蹴り、低い姿勢で脇腹へ突進――
刃が肉を貫き、骨に当たった。
相手の叫びより、自分の呼吸の方が大きい。男は拳でセルグの背を殴り、反撃の動きを見せるが、足が踏ん張れない。
「泣かない…子ども…」
言葉が血で途切れる。セルグは刃を引き抜き、後ろへ跳んだ。男の体が泥へ崩れ落ちる音。霧が血潮を吸い込み、赤茶の霞が漂う。
だが勝利ではない。
霧の向こうで短弓の影が複数、弦を引いている。村の若者が盾を構えようとするが手が足りない。アイナは未だ火を押し戻し、胸の奥で炎を抱える。
セルグは深呼吸を一度。肩の激痛が呻きを呼ぶ。しかし立つ。
矢が放たれる瞬間を待ち、刃を滑らせる――その刹那、鈴の音が再び鳴った。焦げた金線が空気を震わせ、矢の軌道がわずかに揺れる。一本は見張り台の柱に逸れ、一本はセルグの耳元を掠める。
アイナの瞳が炎を宿したまま、鈴を掲げていた。胸の熱は限界に近い。だがまだ、村を焼くほどの炎ではない。
セルグは短刀を正面に突き、息を吐く。血の匂いが灰と油と混じり、夜を重くする。矢の次は突撃。敵影が踏み込む音が近づく。
刃と骨の攻防はなお続く。
しかし敵の指揮は確実に揺らいだ。泣き声を求めた首が泥に沈み、残された影が火と恐れの狭間で足を止める。
セルグは肩の痛みを無視し、泥を踏み締めた。
その泥の感触は歪んでいない。撚り縄のごとく、まだ整っている。