転・第二話 「刃と骨・前」
鈍い衝撃が土壁を震わせた。槍を受け止めた扉の裏板が割れ、木屑が霧へ散る。曲刀を握った影が三人、柵の裂け目から滑り込んだ。炎のない霧の明かりに、革鎧の縁が脂で鈍く光る。
セルグは刃を構え直した。肩口に走る痛みは呼吸のたびに熱を噛み、外套の中で血がじっとりと広がる。それでも柄を離さない。研ぎ澄まされた刃の背は火を映さず、霧の白を吸い込んで静かに輝く。
敵は距離を計るように半円を描いた。先頭の大男――子どもの命乞いを愉しむ嗜虐の標本のような男が、刀身を返して笑う。革面の口元がわずかに開き、低く湿った声が漏れた。
「まだ泣かないか。いい子だ。もっと粘れ。」
男が踏み出す。刃先が弧を描き、横薙ぎが突風のように迫る。セルグは膝を落とし、泥を蹴って懐へ潜った。短いナイフは間合いを奪う武器。だが大男は一拍も遅れず肘を引き、峰でセルグの頬を叩く。
衝撃が頬骨を揺らし、視界が一瞬霞む。倒れない。泥に指を突き刺し、膝で体重を支える。大男の刃が頭上をかすめ、霧を切り裂く音が耳を裂く。
背後で鈴が高く鳴った。アイナが胸の熱を押し留めるため、香布を強く握り、鈴を震わせる。澄んだ音色が霧と血の匂いを切り裂き、一瞬だけ空気を澄ませた。香布の甘さが鉄と油を押し返し、セルグの肺に僅かな清涼を送り込む。
セルグは立ち上がりざまに刃を突き出した。狙いは大男の膝裏。だが刃は革鎧の裾を裂いただけで止まった。男の体は巨岩のように重く、筋肉は短刀を跳ね返す。
「もっと深く来い、子ども!」
笑い声が霧の中で歪む。続く斬撃。セルグは外套の襟で受け流すが、次の一手が早い。肩の傷口が再び開き、温い血が指へ落ちる。
槍を持った若者が横から突いた。柄の長さを生かし、刃を押し込むが、大男は腕で受け止める。槍先が鎧の下の肉を掠め、赤黒い血がにじむ。男は顔をしかめるより先に手首をひねり、槍を折った。若者の叫び。
セルグは隙を狙い、短刀を肩口へ滑らせた。刃が革面下の鎖帷子を噛み、甲高い音を立てて弾かれる。男が片肘でセルグを弾き飛ばす。背中が地を打ち、肺から息が漏れた。
「泣き声はまだか?」
大男が迫る。曲刀の刃は血と泥で煤け、鈍い刃先が蒸気のように白い。セルグは泥を掻き込み、震える膝で立つ。視界の端でアイナが息を切らし、香布を胸に当てる。瞳の奥の赤が濃くなる。縁に沿って炎色が滲み、胸の熱が制御の限界を探り始めていた。
セルグは歯を食いしばり、刃を逆手に握った。腕の感覚が薄れかけている。柄が血で滑りやすい。だが離せば終わる。短刀の背を顎下に当て、呼吸と脈を合わせる。
大男が踏み込むタイミングを測り、セルグは一歩後ろへ下がった。男の刃が届かぬ半歩外。そこから泥を掴んで投げつける。泥と灰が刃先に当たり、男の視界を一瞬塞ぐ。セルグは全身の力で踏み込み、短刀を男の脇腹に叩き込んだ。革が裂け、肉が浅く割れ、温い温度が柄を伝う。
「いい顔になったな」
男の吐息は喜悦に震えた。痛みではなく快楽の色が声に混じる。彼はセルグの刃を押し戻し、反対の肘でセルグの胸を打った。空気が肺から弾け、視界が歪む。
背後で鈴が割れそうなほど鳴った。アイナの胸の熱が香布を焼き、香は焦げた甘さへ変わる。霧が赤味を帯び、火の匂いが脈を持つ。アイナは息を押し殺し、熱を喉元へ引き戻す。まだ――まだ早い。
セルグは膝で立ち、短刀を逆手から順手へ返した。男の腹の裂け目から血が滲む。深くはないが、怒りだけは刻んだ。
「泣かない子だ」男が呟く。
「子どもでも、泣く暇はない」セルグは答えた。
曲刀が高く振り上げられる。次は頭を落とす狙い。セルグは踏み出す足にすでに力が残っていないことを悟り、それでも膝を曲げた。高さを殺し、刃の軌跡から外れる。肩で受ける覚悟。刃に触れる瞬間を待つ。
衝撃。
……が来なかった。
火を纏ったような光が視界の端を走り、曲刀の軌跡が寸断された。青白い炎が刃を包み、甲高い金属音が霧を裂く。セルグは息を呑み、横目で光源を捉えた。アイナだ。香布を握る手から赤い光が滲み出し、鈴が炎の芯に溶けるように揺れている。
「まだ……まだ駄目……っ」
アイナの声は震え、熱を押し返している。しかし炎はもう指先に集まり、霧を焦がし始める。大男が目を細め、愉悦から警戒に変わる。
「それが魔女か。いい泣き声が聞けそうだ」
セルグは残った力で立ち直し、男の視線を奪うため前へ出る。刀身が炎に撓み、刃と刃がぶつかる音が火花を散らした。
夜は、炎の匂いを孕んで鼓動を速める。
まだ覚醒は訪れていない。だが刃と骨の攻防は、いよいよ極まりつつあった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は静かに続いていきます。
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