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転・第一話 「黒い焚き火」

 霧の幕が裂け、炎の芯が現れた。

 森の縁で燃える焚き火は、九つに増えた灯のひとつ。だがそれだけで、柵の内側の空気が変わるには十分だった。甘苦い灰の匂いの底から、焼けた油と血のような鉄の臭気が立ち上がる。風は弱い。それでも臭気は村の胸壁を越え、焚き火がただの火ではないと告げた。


 見張り台の若者が最初の警鐘を鳴らす。

 「来るぞ!」

 声が霧に吸われ、木柵の影に沈む。


 セルグは母の家を出て、刃を抜いた。柄を握る手が震えを覚えても、震源は恐怖ではない。肩の傷が開き、熱い血が外套を湿らせている。けれど刃の研ぎ澄まされた背は澄んだ光を返し、音を吸い込む。刃が甘えるように脈打ち、飼い主の覚悟を問いかける。セルグはうなずいて答えた――離さない、と。


 アイナが隣へ立つ。帯に挿した花布が霧を撫で、胸に収めた鈴が小さく震える。彼女はそれを指で止め、香布の甘さを吸い込んだ。胸の奥に籠る熱が微かに揺れるが、まだ制御下にある。彼女の瞳に赤い光が灯り、霧に滲む。


 柵の扉が軋んだ。杭が折れる乾いた音。油を染み込ませた布を巻かれ、湿った木材が焼け切れもせずに崩れ落ちる。濃い煙が霧と重なり、視界が灰褐色に染まった。そこへ黒い影が潜り込む。曲刀を握り、革鎧には焼け焦げた血の跡。足取りは獣より静かで、人より執拗。


 扉を突き破る最初の敵が現れた。肩には弓、腰に短刀。かかとに巻いた布が油で黒く光る。罠の縄に脚を裂かれたのか、右脚に赤黒い筋が走る。それでも踏み込みは鋭く、槍を支える若者へ一直線に刃を振るった。若者の盾はなし。刃は肩口から斜めに入り、悲鳴も短く萎む。


 「下がれ!」セルグが叫ぶ。

 若者が後退し、代わりにセルグが前へ出る。曲刀が返され、低い弧を描いて襲う。セルグはわずかに後ろへ体を傾け、刃先を袖で受け流す。布が裂け、浅い血線が走る。しかし間合いは詰まった。セルグは刺突へ転じ、ナイフの切っ先を脇腹へ滑らせた。手応えは浅い。だが敵の動きが鈍るには充分だった。


 背後で鈴が鳴った。澄んだ音色が張りつめた空気に細い波紋を投げる。アイナが胸布の香で呼吸を整え、鈴の音で心拍を合わせている。次の敵を視界に入れつつ、セルグの背へ守りを広げていた。


 霧が大きく揺れた。扉の口から一歩大きな影が現れる。顔半分を革面で覆い、背はセルグよりも頭ひとつ分高い。手には曲刀、腰に弓。袖付けにぶら下がるのは、乾いた皮の札。札には細い刻み傷が走り、数え切れない。「泣き声を聞くため」に奪った証――セルグはその意味を知らぬ。ただ血が乾いた臭いを感じるだけだった。


 「子どもか。よく立っている」

 男の声は霧より低く湿る。曲刀をかざし、刀身を指で撫でる仕草に愉悦が滲んだ。

 「俺は子どもの泣き声を聞くのが好きだ。さあ、泣いてみろ」


 男が突き出すより先にセルグが踏み込んだ。膝を低く折り、曲刀の懐へ滑る。短いナイフの利点は間合いだ。だが男は一拍遅れず刀を引き、刃の峰でセルグの肩を叩くように払った。鈍く重い衝撃。肩の皮膚が裂け、血が噴き上がる。セルグの脚がぐらつく。


 「泣け」男が囁く。

 セルグは歯を食いしばったまま、泥を掴んで立ち上がる。次の一撃は腹を狙って振り下ろされる。セルグはナイフを外から合わせ、柄と刃で受けた。金属が火花を散らし、肘が痺れる。


 後ろで鈴が強く鳴った。アイナの呼吸が速まり、花布の香りが甘さを増す。胸の熱が制御を求めて暴れ、瞳の奥で赤い花が開く。彼女は鈴を握り直し、音を断ち切った。


 男が笑った。

 「もう一度だ。泣け」


 セルグは泥を蹴った。ナイフの切っ先が男の膝裏を掠める。骨に届かないが血が滲む。男の笑いが止まり、一瞬だけ眉がひそむ。その隙にセルグは跳び退き、肩の痛みを無理に封じ、再び間合いを詰める構えを取る。


 扉の奥で見張り台の鐘が二度、三度と重なった。霧の向こうで松明が揺れ、敵の影が増える。村の若者が二人、槍を抱えて駆けつける。セルグが目で合図し、左右から曲刀を受け止める態勢を取る。敵は数で押すのではなく、恐怖で崩す。泣き声を求める男は若者の顔を一瞥し、つまらなさそうに唇を曲げた。


 「泣くのはお前か、そこの女か――」


 言い終える前にセルグが踏み込んだ。渾身の刺突が脇腹を裂く。男の刃が返り、セルグの肩口に深く食い込む。痛みで視界が白く弾けた。それでも鈍い悲鳴は上げない。膝が折れそうになるが、泥を掴んで踏ん張る。男が口を開き、次の言葉を探すわずかな間に若者の槍が横から叩き込まれた。男の腕が裂け、刀が弾かれる。


 男が後退した。革面の片目が怒りで細まり、足を引きずる。セルグの傷は深いが、立っている。泣いていない。それが男の嗜虐を焦らし、ただの怒りに変えていく。


 アイナが香布を握った手を胸に当て、喘ぐ。熱が流れ出し、鈴が震えを止められない。香の甘さが霧に薄まり、胸の奥で炎の種が芽吹く。だがまだ制御は切れていない。セルグは彼女の息を聴き、刃を握り直した。


 敵の影が横へ広がり、短弓に矢が番えられる。飛び込めば矢は撃てぬ。セルグは体勢を低く保ち、男の隙を狙う。若者が槍を突き、アイナが鈴を鳴らし、花布の香が甘い膜を張る。霧の中、灰の匂いと油の匂いが渦を巻いた。


 泣き声はまだ上がらない。

 だが血と火の匂いは高まり、夜は刃の唸りで満たされていく。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

この物語は静かに続いていきます。


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