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承・第五話 「霧の前夜」

 夜明けの太陽が昇るはずの東の空を、乳白色の霧が覆い尽くしていた。森は輪郭を失い、柵の向こうは濃淡の灰に沈んでいる。村の見張り台からは、視界が五十歩ほどしか効かないと報告があがった。若者たちは霧を「神の帳」と呼び、焚き火の灯が闇より恐ろしくなる朝を久しく語り継いでいる。


 セルグは井戸端で水を汲み、両掌を濡らして耳を洗った。冷たい水が鼓膜の奥に沁み込み、鈍っていた聴覚が一気に澄む。霧は音の輪郭を鈍らせる。遠い足音も近くの枝の軋みも、距離を測りにくくするのが厄介だった。ふと、綱を巻く手を緩め、霧の向こうに耳を澄ませる。人間か獣か判別のつかぬ小さな足音がいくつも散らばるが、霧が吸い取ってしまい、形を結ばない。


 その横で、アイナが地面に布を敷き、小瓶を六つ並べていた。霧が植物の香りを吸い上げると信じている彼女は、朝一番の空気を瓶に封じて香りの層を確かめている。柔らかな鈴が揺れ、音が霧に溶けた。花布を広げる彼女の指が震えているのに気づき、セルグは手を伸ばした。わずかに冷たい指を包むと、彼女は微笑む。


 「胸の熱が……昨日より早く高まるわ」

 「霧が匂いを運ぶんだ。油の匂いも近いかもしれない」


 アイナは頷き、花布に新しい香を移した。濃い橙色を帯びた液が布を滲ませ、霧の匂いと交じる。心拍が落ち着くまで鈴を揺らし、やがて静かな音が胸の奥に沈んだ。


      *


 広場では長老たちが守り火を再点火しようと七度火打石を打ったが、湿気で火種が付かず、灰に埋もれた芯火を掘り出してようやく小さな炎を育てた。霧は炎を包み、赤い灯が白い膜を透かしてぼんやり揺れる。村長は貯蔵庫の鍵を握りしめ、古酒の瓶に霧が触れぬか気を揉む。見張り塔では前夜から交代なく立ち尽くす若者が霧を睨み、槍の柄に汗を溜めている。


 セルグは罠道具を肩に、柵の外へ向かった。昨夜張った縄を確認し、湿り気で緩んでいないか確かめ、弛みを木杭で補正する。撚りは変わらず美しく、絡め取る仕掛けは健在だ。霧で濡れた草が縄に張りつき、くぐった敵を欺くには好都合だと判断した。


 作業を終えて戻る途中、霧の中で見張りの若者二人が接近してきた。彼らはセルグの腕を掴み、低い声で言う。

 「長老が呼んでる。村の男を集めて道具を配るそうだ」

 「罠縄も貸してくれと」


 セルグは迷った。完璧に撚った縄を人の手で緩ませるのは耐え難い。しかし村全体の防衛と考えれば放さぬわけにはいかない。葛藤の末、完成度の低い予備縄を二巻き、若者に渡した。予備であっても撚りは整えてある。若者は感謝を口にし、霧の中に消えた。


 家へ戻ると、母が椅子に腰かけ、膝に布を広げて縫い物をしていた。薄い手でも針仕事を諦めず、罠紐の小袋を補強している。セルグが目線を合わせると、母は微笑み、言葉より先に針を止めた。

 「糸は細くても、結び目をきちんと締めればほどけない。それは罠と同じだね」

 針を布に刺し、皺の多い指先で結び目を示した。セルグはその結び目を見て頷く。母の指先は細ったが、縫い目はまっすぐだった。


 戸口にアイナが立ち、霧に濡れた外套を脱いで手早く広げた。瓶から香を花布に足し、母の枕元へ置く。甘い香が病苦の匂いを薄める。母はその香を吸い込み、目を細めた。

 「この香りは……去年の火祭りの日にも嗅いだね」

 アイナはうなずき、布を畳む。母はほんの少し笑い、セルグの刃を膝で軽く触れた。

 「その刃で誰も泣かずに済むなら、怖がらなくていいよ」


      *


 日が昇っても霧は晴れず、昼過ぎには逆に濃くなった。村長は焦り、家々に点々と松明を配り、夕刻になれば柵の外周を炎で照らすと宣言した。長老は反対した。炎は闇を払うが、敵にも位置を教える。議論は決裂し、結局「夜の炎を控え、見張りを増やす」に落ち着く。だが男たちの顔には不安が貼り付いた。


 その夕暮れ、井戸通りを歩くセルグとアイナの前に、遠見の若者が駆け込んだ。霧で濡れた髪が顔に張りつき、舌が絡む。

 「焚き火が……十を超えた……柵の前のくぼ地の罠に、何かがかかった音……」


 セルグの胸が跳ねた。あの罠の縄は歪んでいない。かかったのが獣か人か、確認せねば。アイナは鈴を胸で押さえ、香布を握った。胸に熱が渦を巻くが、花の香がまだそれを抑えている。


 「私も行く」

 「敵なら刃が飛ぶ」

 「鈴は敵を止められない。でも匂いであなたを守れるかもしれない」


 争う時間はなかった。セルグは刃を腰へ戻し、アイナと並んで霧の中へ駆けだした。夜のように暗い霧が音を飲み込み、足音が土に溶ける。罠の窪地は、土塁を越えたすぐ向こうにある。近づくにつれ、濃い油煙の匂いが押し寄せた。焚き火の灯は見えず、匂いだけが先に来る。


 やがて縄の張られた窪地が目の前に現れた。霧が水滴となって撚り縄を光らせ、弛みはない。ところが土に深い踏み跡が残り、枝が二箇所折れている。罠を飛び越えようとした足が泥に滑り、跳ねた跡。――気づいて跳ねた。縄を切らずに掠めたのだ。セルグは舌を打った。罠が「見破られた」という事実が何より悔しかった。


 その瞬間、柵の向こうで鐘が三度鳴いた。犬の吠え声が重なり、火の匂いが強まる。襲撃――ようやく夜が牙を剥く。セルグは刃を抜き、アイナは花布を握って息を吸い込んだ。霧が揺れ、遠くで弦の軋む音が一つ。矢が空を裂いた音ではない。弓を引き絞る音だ。


 「戻るぞ」

 「うん」


 二人は駆け出した。霧は音を曖昧にし、闇は足音を増幅する。鈴は鳴らないよう短く握り、花布の香りが一気に濃くなる。胸の熱が高まり、アイナの呼吸が速くなる。けれどまだ制御できる範囲だ。セルグは腕を引き、共に柵を越えた。


 柵の内側では、松明を掲げた若者と弓兵が混乱の最中にあった。霧に灯が反射し、視界はむしろ悪化している。セルグは母のいる家を一瞥し、刃を逆手に握り直す。第二の罠を張る余裕はない。夜はもう始まった。


 鈴が微かに揺れ、花の香が刃の匂いに重なった。霧と火の境目で、熱と冷気がぶつかり合う。


 襲撃は、もはや“まだ”ではない。

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