序章 第一話:「森の息」
初投稿です
森は静かだった。
木々のあいだから射す光が、ところどころで地面を照らしていた。
湿った土の匂いが鼻をつく。腐葉のにおいに混じって、獣の匂いがある。
しゃがみ込んでいた。
手の中にあるのは短い刃。鍛冶屋が研いだ。
革巻きの柄が、掌にしっとりと馴染む。
動かない。
呼吸だけを浅くして、耳に意識を向けた。
葉擦れの音。
一歩。
また一歩。
獣だ。
目だけを動かし、ゆっくりと姿勢を落とす。
足元の枝に注意する。音を出せば、逃げられる。
茂みが揺れた。
指先に汗がにじむ。
ナイフの重さが妙に心強い。
——来い。
息を殺して待つ。
セルグはまだ十歳だった。
だがこの森に通い始めてもう何度目になるか覚えていない。
父親が病で伏せってから、肉を持ち帰るのは自分の役目になった。
家には母がいる。
母と、痩せた家畜と、ついこのあいだ死んだ弟の骨壺だけが並ぶ家。
戻るたびに、あの静かな空気が重くのしかかる。
だからこそ、こうして森に出る。
逃げているわけではない。
この足で立っている限り、父の代わりに生きなければならない。
獲物はただの獣じゃない。
魔物だ。
鳥の形をしているが、口からは毒霧を吐く。
触れれば肉が焼け、ただれる。
その魔物を、ナイフ一本で狩る。
愚かだと笑う者もいるかもしれない。
だが他に方法はなかった。
この森の奥に入ることを、大人たちは恐れている。
魔物を狩れる者など、村にはいない。
自分がやるしかない。
視界の端で、縄がちらりと見えた。
昨日のうちに張ったものだ。
二重に絡まるよう工夫した。
足が絡まれば動きは鈍る。それだけでいい。
それだけで、喉に刃を入れる隙が生まれる。
茂みがさらに揺れた。
見えた。
灰色と黒が入り混じった羽根。
異様に長い首。濁った目。
鳥の魔物だ。
くちばしの先端からは微かに霧が漂っている。
見ているだけで喉が焼けそうになる。
唾を飲み込むのも我慢した。
鳥がゆっくりと歩を進める。
長い脚が、罠に近づいていく。
——もう少しだ。
だが、そのとき。
背後で微かな音がした。
——まさか。
風か。それとも獣か。
呼吸を止める。耳だけを後ろに向けた。
音は消えた。
気のせいだろうか。
いや、違う。
ここまでこの森に入り込んだことのある獣など、見たことがない。
鳥の魔物がこの森を縄張りにしてからは、ほとんどの動物は姿を消していたはずだ。
——人間か?
いや、それはない。
村の大人たちは森の入り口から一歩も入ろうとはしない。
ここに来る理由がない。
鳥が罠に近づく。
脚が縄に触れた。
だが同時に、もう一度、背後で枝が折れる音がした。
まずい。
狩りの最中に余計なものが来るのが、いちばん危ない。
しかも鳥の魔物は警戒心が強い。
こちらの視線に気づけば、霧を吹きながら飛び上がるだろう。
縄がわずかに動いた。
足に絡みつく。
鳥が濁った声で鳴いた。
長い首がもたげられる。
くちばしがこちらに向いた。
やばい。
一瞬だけ、心臓が強く鳴った。
だが、まだだ。
ここで逃げれば、もう二度とこの森に入れない。
肩の力を抜いた。
ナイフを握りなおす。
血のにおいが鼻につく。
風が吹いた。
森の奥から流れてきた冷たい空気が、皮膚にまとわりついた。
魔物の目がこちらをとらえた。
その瞬間、くちばしの先端から霧が噴き出す。
くる。
だがセルグは動かなかった。
足元に仕掛けたもう一つの罠——小さな石を並べて崩れ落ちる仕掛け——が鳥の足元を乱した。
縄が絡む。
一瞬、体勢を崩した。
その隙に——
セルグは一気に距離を詰めた。
くちばしが動く。
霧が伸びる。
皮膚がひりつく。
ナイフの刃が震える。
首だ。
長い首の根元。そこに刃を入れる。
心の中で何かが叫んでいた。
——届く。
次の瞬間、視界が白くなった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は静かに続いていきます。
次回もまた、読んでいただければ嬉しく思います。
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