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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
名もなき灯火

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38. 灯火の旅路

風のなかを歩く旅が、ふたたび始まっていた。


制度の観測圏を静かに抜け、山を越え、谷を渡る。


祝式の塔も、巡察の旗も、もう見えなかった。


ただ、灰色の雲が空を流れ、遠くから風のうねりだけが、

あなたとカインの足音をやわらかく包んでいた。


「この道……なんだか、覚えてる気がする」


あなたはぽつりとつぶやいた。


「昔、ここを通ったかもしれない。

でも、それは記録には残ってない。たぶん、わたしの中だけにある」


カインは隣で頷いた。


その声は、かつてよりも低く落ち着いていた。

目の奥に、いくつもの夕暮れを越えてきた静けさが宿っていた。


「それで十分だ。

君が“ここにいた”って、それだけで、もう意味になる」


午後の光がやわらかくなった頃、ふたりはある集落にたどり着いた。


石を積んで築かれた、背の低い家々。

風除けのように土を編んだ壁。

祝式の刻印もなく、門の上に旗印も掲げられていない。


けれど、子どもたちが笑いながら走り、

焚き火の煙が静かに立ちのぼるその場所は、

どこかほっとするような、やわらかな温かさに満ちていた。


「旅人かい?」


声をかけてきたのは、背を少し曲げた老人だった。

けれど彼は、名前も身分も尋ねてこなかった。


あなたが名乗らずに微笑むと、

彼もまた、ゆっくりと同じように微笑み返した。


「ここにはね、“名を持たない”者たちが暮らしてる。

制度から外れた者、記録されなかった者、

そして……ただ、在りたいだけの者がな」


あなたは黙って、その言葉に耳を傾けていた。


広場の奥では、地面にしゃがみ込んだ子どもたちが、

棒きれで静かに絵を描いていた。


顔のない人。

灯を手にした影のような姿。

翼の下に小さな光を宿した鳥。


そのうちのひとり、小さな女の子が、あなたに気づいて顔を上げた。

そして、はにかむように、小さく会釈をした。


「これね、わたしが見た夢の中の人なの」


女の子は絵の中の人物を指差して言った。


「名前はなかったけど、優しくて……手を引いてくれたの」


あなたは静かにしゃがみ、描かれた絵に目を落とした。


「……その人、笑っていた?」


「うん。でもね、ちょっとだけ、泣きそうでもあった」


あなたの胸の奥が、ふわりとあたたかくなった。

それは、どこか懐かしくて、やさしい痛みを伴っていた。


もしかしたら、それは夢ではなかったのかもしれない。

あなたがかつてこの地を通ったときに、

誰かの記憶にそっと触れて、残していった──そんな微かな痕跡。


夜になり、焚き火のそばで、カインがあなたの隣に腰を下ろした。

風除けの布をそっとあなたの肩にかけながら、ぽつりとつぶやく。


「灯は届いてたんだな。

記録にも残らない、小さな在り方が、ちゃんと誰かに繋がってた」


あなたは少し首を振った。


「わたしが何かしたんじゃない。

この人たちは、自分で選んで“ここにいる”んだよ」


「……君がいたから、彼らは歩けたんだと思う。

灯って、ただの火じゃない。

触れられなくても、道を示してくれる“気配”のようなものなんだ」


あなたはその言葉を受け止め、静かに目を伏せた。


「……じゃあ、わたしの灯は、風だったのかな」


カインはそっとあなたの手を取った。

そのぬくもりが、言葉よりも静かに伝わってくる。


「きっとそうだ。誰かの背をそっと押して、道を照らしてる」


焚き火の炎がゆらゆらと揺れて、

あなたたちの影が、そっと地面に重なった。


朝の空気は冷たく澄んでいた。

言葉もなく、ふたりは荷をまとめ、集落をあとにした。

誰にも名を告げず、見送りもなく。

けれど、背中にはやさしい気配があった。


──誰かのなかに、静かに灯り続ける何かを残して。


その村の外れ、ひときわ大きな枯れ木の根元に、ひとりの子どもがぽつんと座っていた。


ぼろぼろの服に、やせた背中。

けれど、その小さな身体には似合わぬほど、目には深い静けさが宿っていた。

まるで、“ここに在る”ということ自体を、どこかでそっと諦めてしまったかのように。


あなたはゆっくりと歩み寄り、子どものすぐ隣に腰を下ろした。

風が木々を揺らし、枯れ葉の舞う音がふたりの間をやさしく撫でていく。


何も言わずに、ただ、その音に耳を澄ませた。

やがて、子どもがぽつりとつぶやいた。


「……名前、ないの。

お母さんもお父さんも呼んでくれなかったから。

他の人は、わたしのこと──“あれ”とか、“あの子”って」


その声に、怒りも悲しみもなかった。

長い時間をかけて、そう呼ばれてきたことを、もう当たり前のように受け入れてしまった声だった。


あなたは静かに息を吸い、言葉を選ぶようにして口を開いた。


「……わたしもね、名前、ないの」


子どもは目を見開き、驚いたように顔を上げた。


「えっ……でも、君は、ちゃんと“誰か”みたいだよ」


「そう見えるかもしれない。

でもね、ほんとうに長いあいだ、“誰でもなかった”。

それでも、“ここにいていい”って思えた。

誰かが──そっと手を伸ばしてくれたから」


あなたは小さな布袋をそっと取り出し、その中から、手のひらほどの丸い灯火をひとつ取り出した。


刻印も装飾もない。ただ、かすかに光を宿し、ほんのりとあたたかかった。

その光は、まるで誰にも知られずに灯され続けてきた、見えない希望のようだった。


「これは、記録には残らないけれど、たしかに灯る光。

誰かが、それを“君のものだ”と信じてくれるなら──

そのぬくもりは、きっと君の中で、生き続けていく」


子どもは、戸惑いながらも、おそるおそる両手を差し出した。

そして、そっとその灯火を受け取る。


小さな光が、その掌の中で、静かにまたたいた。

風が枝を揺らし、影がふたりの足元にやわらかく重なる。


「……あったかい」


「うん。名前がなくても、君がここにいたってことは、ちゃんと残るよ」


子どもは、ためらいがちに問いかけた。


「これ……もっててもいいの?」


「持ってても、なくしてもいい。

でも、きっといつか、君も“誰かにそれを渡す”んだと思う。

わたしが、そうしてもらったように」


子どもの目に、静かに涙が浮かんだ。

それは悲しみではなく、胸の奥がそっとほどけていくような、やわらかな涙だった。


子どもはそのまま、灯火を胸に抱くようにして去っていった。

あなたはしばらくその背中を見送り、そして焚き火のほうへと歩き出した。


夜が静かに訪れ、焚き火の灯が、空気の冷たさをやわらかく照らしていた。その火を見つめながら、カインは静かに目を伏せた。


そのまま言葉を探すように間を置き、静かに問いかけた。


「……君は、これまでに“自分の灯”を誰かに託したことがあるかい?」


あなたは少し考えてから、ゆっくりと頷いた。


「ひとりだけ……。

でもね、わたしの灯を“そのまま返してくれた人”は……

あなただけだったかもしれない」


カインは言葉を返さなかった。

けれど、そっと隣に身を寄せ、あなたの肩に静かに触れる距離に腰を下ろした。


あなたも自然に体を傾けて、そのぬくもりを受け入れる。

ふたりの間に流れる時間が、火の揺らめきとともに、やさしく穏やかに満ちていく。


しばらくして、カインは火を見つめながら、ぽつりと言った。


「……いつか、君がひとりで、この火のそばに座っている日が来るのかもしれないね」


その声には、ほんのかすかな寂しさと、深い祈りがにじんでいた。


やわらかな風が通り過ぎ、焚き火の向こうでひとつ、灯がまた、小さく、あたたかく瞬いた。


それは、小さな記憶の灯として、

あなたの心に、そっと残り続けていた。

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