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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
名もなき灯火

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36. 灯される想い

久しぶりに、制度からの使者が訪れた。


小さな応接室には、薬草の香りがほのかに漂っていた。

この場所を訪れる者は少なく、壁際の棚には古い薬瓶や乾いた葉の束が静かに並んでいる。

午後の光が細く差し込む窓辺に、風が一度だけ揺れて、それきり部屋はまた沈黙に包まれた。


その静けさの中、あなたとカインは並んで座っていた。


その人は、感情を交えず、淡々とした所作で一通の文書を差し出す。

それは観測局からの“特別要請”だった。


文面は簡潔だったが、そこには無視できない重みが宿っていた。


──祝式中枢の安定性が急速に低下し、周囲に“観測不能の揺らぎ”が拡がっている。

その干渉波は、かつてあなたが足を踏み入れた“風の穴”と同じ周波数を示しているという。


「──制度は、あなたの力を必要としているようです」


使者の声は穏やかだったが、どこか無機質だった。

その眼差しに宿るのは、期待でも信頼でもなく、「制度が必要としている」という一点だけだった。


あなたはすぐに答えなかった。

ただ静かに視線を落とし、手の中で揺れる淡い光を見つめていた。


カインが、あなたの横顔をそっと見守っている。

何も言わず、けれど、そのまなざしには、

あなたの中に芽生えはじめていた“答え”を、すでに受けとめているような静かな確信があった。


「……行くんだな」


あなたは、小さく笑って頷いた。


「わたしが記録されるかどうかじゃない。

誰かが、また“観測のなかに閉じ込められる”なら、それを止めたいだけ」


その声には、もう迷いはなかった。



制度中枢の門をくぐるのは、これが初めてだった。


光の反射すら制御された構造体。 無音で連なる式紋柱。 沈黙のまま空を見上げる導き手たちの像。


観測局の端末は、あなたの存在を検索し続けていた。

けれど、画面に映るのは、どれも空白の文字列だった。


「該当データ、存在せず」

「登録階位、未定義」

「記録対象なし」


それでも、長官たちは淡々と告げた。


「あなたの在り方が、この均衡を保つために必要なのです」

「観測不能領域の拡大は止められません。あなたは、適応できる」


つまりそれは──


名を与えられることなく、制度の中に組み込まれるということだった。


あなたの隣で、カインが一歩前に出た。


その声は静かだった。

けれどその芯には、揺るがぬ熱が宿っていた。


「……あなたたちは、まだ気づいていないのかもしれない」


かつての彼ではなかった。 迷いの中にいた青年ではなく、自らの言葉で立つひとりの人間として、彼は語った。


「記録されるために存在するんじゃない。

存在しているからこそ、記録が生まれるんだ」


その言葉に、場の空気がふっと静まる。


あなたは、その静けさの中に、そっと言葉を置いた。


「わたしは、ただ灯をつけたいの。

制度のためじゃなくて……

誰かが、“ここに在れる”場所を、そっと照らすために」


小さな声だった。

けれど、それはまっすぐで、やわらかな熱を含んでいた。


**


そのとき、記録室の片隅に立っていたひとりの少女──ロシェが、その言葉を聞いていた。


彼女は静かに、息をひそめるように立ち尽くしていた。

制度の目を避けるように、けれど、その場から目を逸らすことなく。


(……自分は、観測されるために、命を削ったのに)


ロシェは思い出す。刻んだ式紋、擦り切れるように作られた“存在の輪郭”。

誰にも気づかれないことが、あまりに怖かった。

だから、どんな形でも記録に残ろうとしていた。


けれど、いまそこにいる彼女──イリスは、記録に頼らずに立っていた。

誰の承認もなく、制度の帳簿に載らなくても、確かに“ここに在る”という声で、空間そのものを揺らしていた。


その姿が、ロシェにはまぶしく見えた。


(……あんなふうに、なれたら)


ほんの少しでいい。

自分も、誰かの“声にならない願い”を守る側になれたら。


胸の奥で、淡い灯がともるようだった。


名も記録も要らない──それでも確かに届いていた。


誰にも届かないようでいて、

どこかの深い場所に、静かにしみ込んでいく光だった。


***


いくつかの夕刻のあと、街の外れ。


ロシェは静かに、地面に散らばった端末の破片を拾い集めていた。


それは、もう使えない古い記録装置だった。

焼け焦げた外殻、ひび割れた端末、断たれた導線。

けれど、彼女の手の中でそれは、ただの残骸ではなくなっていた。


ひとつ、またひとつ。

手のひらにのせた破片に、そっと指を這わせながら、ロシェは思う。


(ここに、誰かの“名前のない願い”を残せたら)


それは式でも、記録でもなくていい。

ただ、見えない声が沈まないように。

消えてしまった灯火を、ほんの少しだけ、思い出せるように。


イリスのようにはなれないかもしれない。

でも、自分なりのやり方で、誰かの“ここに在っていい”を支える方法があるかもしれない。


ロシェは、そっと小さな欠片を積み上げていった。

それは祈りのかたちをしていなかったけれど、

風の中で、やさしく鳴るようなものに見えた。

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