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名もなき灯火  作者: 富賀見 みあ
序章
4/46

04. 名を呼ぶ夜

ミレナがいなくなってから、季節がひとつ──あるいは、ふたつめくれたのかもしれない。

空の色や土のにおいは、確かに変わった気がしたのに、あなたの時間だけは、あの朝の縁にしがみついたままだった。


朝は湯を沸かし、茶碗を洗い、薬草を刻む。

乾いた根を並べ、帳面に名を記す。

それは“日々の営み”だったはず。けれど、手を動かしながら、あなたはそれが夢の続きをなぞっているようにも感じていた。


いつのことだったか、棚の奥に手を伸ばしたとき、一冊の古い帳面に指が触れた。

ふわりとした、まだ消えきらないぬくもりが、そこに残っていた気がした。

ページの端はめくれ、ところどころに土の染みが滲んでいた──

そしてその中に、薬草とは異なる記述が、一つだけ挟まれていた。


━━━━━━━━━━━━━━━

谷に風が吹いていた。あの事故のあとだった。

彼があの子を抱いて戻ったとき、空気が──ほんの一瞬だけ止まったように思えた。

偶然。そうは思えなかった。


泣きもせず、眠るように抱かれていたあの子を見て、私は理由を探さなかった。

ただ、この腕で受け取ったとき、胸の奥で静かに決まった。

彼の言葉がどうであっても、この子を守ることは、私自身の選択だった。

━━━━━━━━━━━━━━━


“彼”の名前は、どこにも書かれていなかった。

けれど、その文字のひとつひとつから、静かな決意がにじみ出ていた。

誰かが、霧の奥からこちらを見つめている──そんな気配が、ページの向こうに確かにあった。


そしてまた、別の記憶が、風に乗ってあなたのもとへ運ばれてきた。

いつだったか、村の井戸のそばを通りかかったときのこと。

遠くから、人々の声が聞こえてきたような気がする。


(……導き手の観測官、今年も来たらしいな)

(うん。祭礼のあとに決まって来る。式の兆しを記録するんだと)

(けど、あの不気味な子には何も……いや、帳面に“記録そのものがなかった”って話、知ってるか?)

(観測不能でも未登録でもない、“存在しない”ってことか……)


その会話の続きを、風がさらっていった。

あなたはその場を離れた──あるいは、立ち尽くしたまま、風だけが先に行ったのかもしれない。

誰も、あなたに気づかなかった。

けれど、その“気づかれなさ”が、今のあなたのかたちなのだと、あなたは知っていた。


暖炉の前、古い敷布の上で、あなたは毛布にくるまって座っていた。

火は、もう燃え尽きていた。

灰の中に、小さな赤が、かすかに灯っては消えていく。

小さな体をすっぽりと包み込みながら、あなたは膝を抱えて、その光をじっと見つめていた。


「フィン……」

昔、あなたにやさしく話しかけてくれた男の子の名前を、ふいに口にした。


ミレナが逝った日から、どれほどの日が経ったのか。

時間の感覚はまどろみに浮かぶようで、あいまいだった。

今では、窓の外が明るいか暗いかでしか、日を測れなくなっていた。


小屋の中は、どこも触れれば冷たかった。

壁も、椅子も、あなたの肌も。

ただ、ミレナの毛布だけが、まだほんのりと温かかった。


喉がつかえて、うまく声が出せなかった。

怒りも涙も、どこかへ閉じ込められたまま。

張り裂けそうなのに、壊れもしない胸の奥。

何かが動きたいと願いながら、同時に、何かが黙れと命じていた。


泣いてはいけないのだと、あなたは思っていた。

ミレナの最期の笑顔が、あまりに静かで、美しかったから。

その静けさを、壊してはいけない気がしていた。


けれど、夜が更けて──

外の風が、壁に指先で触れるような音を立てたとき。


あなたは、ついに、声を漏らした。


「……ミレナ」


それは、ただひとつの言葉だった。

誰かに呼びかけたというより、自分の存在を確かめるように、声にした言葉だった。


返事は、なかった。

しんとした小屋の空気に、あなたの声だけが薄く滲んで、消えていった。


その静けさの中で、あなたはもう一度、ゆっくりと呟いた。


「ミレナ……」


しばらくの間、何も起こらなかった。

けれどそのあと、小屋の中がほんのわずかに、やわらかくなった気がした。

冷たさの中に、あたたかいものが、音もなく、じんわりと染み込んでくるような気配。

もしかしたら、それは毛布のぬくもりが、少しだけ戻っただけだったのかもしれない。


けれど、あなたは思った。

名前を呼ぶということは、誰かと繋がっていた記憶を、もう一度、自分のなかに結び直すことなのだと。


だからあなたは、そっと立ち上がる。

机の引き出しから、あの押し葉の花の包みを取り出す。

ミレナがくれた、“イリス”という名前の記憶。

それを胸に抱いて、そっと目を閉じた。


夜のしじまは、やがて過ぎていった。

眠れるわけではなかった。

けれどあなたは、その夜、壊れずにいられた。

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