04. 名を呼ぶ夜
ミレナがいなくなってから、季節がひとつ──あるいは、ふたつめくれたのかもしれない。
空の色や土のにおいは、確かに変わった気がしたのに、あなたの時間だけは、あの朝の縁にしがみついたままだった。
朝は湯を沸かし、茶碗を洗い、薬草を刻む。
乾いた根を並べ、帳面に名を記す。
それは“日々の営み”だったはず。けれど、手を動かしながら、あなたはそれが夢の続きをなぞっているようにも感じていた。
いつのことだったか、棚の奥に手を伸ばしたとき、一冊の古い帳面に指が触れた。
ふわりとした、まだ消えきらないぬくもりが、そこに残っていた気がした。
ページの端はめくれ、ところどころに土の染みが滲んでいた──
そしてその中に、薬草とは異なる記述が、一つだけ挟まれていた。
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谷に風が吹いていた。あの事故のあとだった。
彼があの子を抱いて戻ったとき、空気が──ほんの一瞬だけ止まったように思えた。
偶然。そうは思えなかった。
泣きもせず、眠るように抱かれていたあの子を見て、私は理由を探さなかった。
ただ、この腕で受け取ったとき、胸の奥で静かに決まった。
彼の言葉がどうであっても、この子を守ることは、私自身の選択だった。
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“彼”の名前は、どこにも書かれていなかった。
けれど、その文字のひとつひとつから、静かな決意がにじみ出ていた。
誰かが、霧の奥からこちらを見つめている──そんな気配が、ページの向こうに確かにあった。
そしてまた、別の記憶が、風に乗ってあなたのもとへ運ばれてきた。
いつだったか、村の井戸のそばを通りかかったときのこと。
遠くから、人々の声が聞こえてきたような気がする。
(……導き手の観測官、今年も来たらしいな)
(うん。祭礼のあとに決まって来る。式の兆しを記録するんだと)
(けど、あの不気味な子には何も……いや、帳面に“記録そのものがなかった”って話、知ってるか?)
(観測不能でも未登録でもない、“存在しない”ってことか……)
その会話の続きを、風がさらっていった。
あなたはその場を離れた──あるいは、立ち尽くしたまま、風だけが先に行ったのかもしれない。
誰も、あなたに気づかなかった。
けれど、その“気づかれなさ”が、今のあなたのかたちなのだと、あなたは知っていた。
暖炉の前、古い敷布の上で、あなたは毛布にくるまって座っていた。
火は、もう燃え尽きていた。
灰の中に、小さな赤が、かすかに灯っては消えていく。
小さな体をすっぽりと包み込みながら、あなたは膝を抱えて、その光をじっと見つめていた。
「フィン……」
昔、あなたにやさしく話しかけてくれた男の子の名前を、ふいに口にした。
ミレナが逝った日から、どれほどの日が経ったのか。
時間の感覚はまどろみに浮かぶようで、あいまいだった。
今では、窓の外が明るいか暗いかでしか、日を測れなくなっていた。
小屋の中は、どこも触れれば冷たかった。
壁も、椅子も、あなたの肌も。
ただ、ミレナの毛布だけが、まだほんのりと温かかった。
喉がつかえて、うまく声が出せなかった。
怒りも涙も、どこかへ閉じ込められたまま。
張り裂けそうなのに、壊れもしない胸の奥。
何かが動きたいと願いながら、同時に、何かが黙れと命じていた。
泣いてはいけないのだと、あなたは思っていた。
ミレナの最期の笑顔が、あまりに静かで、美しかったから。
その静けさを、壊してはいけない気がしていた。
けれど、夜が更けて──
外の風が、壁に指先で触れるような音を立てたとき。
あなたは、ついに、声を漏らした。
「……ミレナ」
それは、ただひとつの言葉だった。
誰かに呼びかけたというより、自分の存在を確かめるように、声にした言葉だった。
返事は、なかった。
しんとした小屋の空気に、あなたの声だけが薄く滲んで、消えていった。
その静けさの中で、あなたはもう一度、ゆっくりと呟いた。
「ミレナ……」
しばらくの間、何も起こらなかった。
けれどそのあと、小屋の中がほんのわずかに、やわらかくなった気がした。
冷たさの中に、あたたかいものが、音もなく、じんわりと染み込んでくるような気配。
もしかしたら、それは毛布のぬくもりが、少しだけ戻っただけだったのかもしれない。
けれど、あなたは思った。
名前を呼ぶということは、誰かと繋がっていた記憶を、もう一度、自分のなかに結び直すことなのだと。
だからあなたは、そっと立ち上がる。
机の引き出しから、あの押し葉の花の包みを取り出す。
ミレナがくれた、“イリス”という名前の記憶。
それを胸に抱いて、そっと目を閉じた。
夜のしじまは、やがて過ぎていった。
眠れるわけではなかった。
けれどあなたは、その夜、壊れずにいられた。